さて、瞬が帰った後、僕はこれからのことを頭でシュミレートしていた。
 まず稲垣さんに電話をして、今日見たことは口外しないという約束を取り付ける。そして明日改めて会うことにして、時間と場所を決める。で、人気がない場所に移動してからある程度事情を話して、協力が得られないようだったら、こっそり持ち出したパラライザーで記憶を消す。
 これで本当に上手くいくのだろうか。
 いやそれよりも、クラス伝達以外で女の子の家に電話なんてしたことがない。
 そのことに気付いてから、もの凄く緊張してきた。これなら、真夜中にこっそり家に忍び込んで記憶を消しにいった方がまだマシなんじゃないだろうかとすら思えてくる。いや、それはそれでまた困るんだろうけど。ああ、どうしよう。
 そんなわけで、いつもなら夕食ではご飯ニ杯食べるところを、一杯しか食べられなかった。祖父には訝しがられたようだが、運動会の後で疲れたせいかもと誤魔化したら、納得したようだった。
 とりあえず、常識の範囲で電話しても大丈夫な時間の間に電話しなければならない。が、受話器を持つとこまではいくのだけれども、番号を押すところまではなかなか出来ない。クラスメイトなんだから電話するのに不自然さはないはずだ。そう言い聞かせながら、自分の部屋と電話機がある廊下を何度も往復して、ようやく腹を決めて彼女の電話番甲を押した。受話器を持つ手が震えている。三度コール音がして、すぐに相手が出た。
「もしもーし?」
 うわぁ本人だ!
 てっきり親が出るかと思い込んでいたので、焦って次の言葉が出てこない。
「もしもーし?津守くーん?」
 稲垣さんのその言葉で、ようやく我に返った。
「な、何で分かったんだい」
 声が裏返っているのが自分でも分かる。しかし相手はそんなことを気にもしていないようで、あっさりと答えた。
「だって、番号登録してるし」
「あ、そうだっけ……」
「で、なぁに?」
「え、えと、明日はお暇でしょうか」
 緊張のあまり順番を間違えてしまって、僕は慌てた。
「ち、違う、違う!」
 思わず声に出してしまう。受話器の向こうにいる相手には見えていないのに、僕は首を横に大きく振ってしまった。
「今日のこと、まだ誰にも話してないですよね?」
「えーと、何だっけ」
 素で忘れているんですか……。
 しかしちょっと考え込んだような間があってから、すぐに返事がきた。
「あーあれかぁ。大丈夫、誰にも話してないから。喋っちゃいけないことなんだろうなぁと思ったんだけど、もしかして喋ってよかった?」
「いえ、お願いですからそのまま秘密にして下さい」
「うん、わかった」
 きっぱりとした彼女の口調に、ちょっとほっとした。
「でもさー、何でいきなり敬語なの?」
 変なの、と受話器の向こうで笑い声が響いていた。僕はどう答えたら良いのか分からず、笑って誤魔化した。
「ところで、さっき明日は暇かって訊いてたよね?」
「あ、うん」
「用事入ってないから、午後からは暇だよー?」
 ここで、ようやく当初の目的を思い出して、軌道修正をすることにした。
「あ、明日暇ならどこかで会えないかなと思って」
「オッケー」
 あっさりと了解した。
「じゃあ、明日の一時にセリーヌでどうかな?」
 彼女が挙げた店は、商店街の駅側入り口にあるシアトル系カフェだった。
「あ、じゃぁそれでお願いします」
「了解〜」
 その返事を聞いて、じゃぁまたと電話を切った。とりあえず、なんとか手順どおりに事は運べて、ほっとした。物凄く緊張したせいか、頬が熱い。
 受話器を置いて、僕はその場に座り込んだ。
 稲垣さんが待ち合わせに指定した店は、一階の入り口で商品の注文と会計を済まし、奥のカウンターで受け取る形式の店だった。一階にも席があるが、二階の方が天井が高く広々としているので、僕は注文したソーダを持って二階席へと階段を上った。上る前に一階席を見渡してみたが、二階席にも見当たらなかった。約束の時間より十分も前に到着してしまったせいもあるが、まだ来ていないらしい。僕は階段から見えやすい、しかし窓際からは離れた席を確保した。というのもここの窓は、天井からテーブルの縁まで窓ガラスが広がっているから、窓際の席だと外からもよく見えるのだ。クラスの誰かに見られて、体育祭明けにいきなり別の話題を提供する気はなかったので、外からは絶対に見えない位置にある二人がけのテーブルを選んで、階段側を向くように座った。
 そしてほぼきっかり時間どおりに、稲垣さんは姿を見せた。黒のタンクトップに白い半袖のブラウスを羽織っていて、下はすらりとしたスカートだった。コーヒーカップを載せた小さなお盆を手にしていて、僕を見つけると右手で小さく手を振った。
「ごめーん、待った?」
「いや、今来たところだよ」
 僕がそう答えると、稲垣さんは僕の向かい側の席に座って、手にしていたお盆をテーブルの上に置いた。彼女のカップからは珈琲のいい香りがしていたが、泡だった白いクリームがこんもりと載っていて、水面は見えなかった。訊いてみたら、カプチーノというのを注文したらしい。
「クリームがある分、そんなに苦くないよー」
 そう説明しながら、稲垣さんは砂糖をカップにいれて、スプーンでかき混ぜている。
 その楽しそうな様子に、今度注文してみようと思った。
 さて、その後は体育祭後にある期末試験の話とか、昨日見たテレビの話題とか、無難な話題に終始した。案の定、というかやはり店内には天網の民も混じっていて、とてもじゃないがあのことについて話せる状況ではない。ちらちらと僕たち二人を窺っていた人もいたので、一時間ほどでカフェを出て、そのまま商店街を抜けて天網海岸へ向かった。
 初夏にしては強い日差しだったが、時折吹き抜ける風のお陰で、むしむしとした感じではない。それなのにやんわりと汗ばんでくるのは、暑さのせいだけではないということだろう。稲垣さんと二人きりで並んで歩いていくというのは、なんだか妙な感じだった。彼女彼氏がいるクラスメイトも何人かいるが、話に聞いていたデートとは違うようで、でも同じような気もする。別に僕と稲垣さんは付き合っているわけではないのだが、もし付き合うとしたら、こんな感じになるのだろうか。でももし、このあと話す事が稲垣さんに受け入れられなかったら、今日一緒に過ごしたことも全部、綺麗さっぱり消える……というより消すことになる。そう考えると、胸の奥に鈍い痛みが走った。
 海辺に近づくにつれ、心地よい風に潮の香りが強くなる。
 天網海岸は、海水浴シーズンだと多くの人が訪れるが、それ以外だと、早朝や夕方に犬の散歩やジョギングしている人が通りかかるくらいだ。すぐ近くに高速道路の陸橋が続いているが、逆にその陸橋の影に入れば日差しやにわか雨を避けられるし、住宅街とは距離があるから、多少の大声ならご近所の迷惑にはならない。だから文化祭前とかには、出し物の練習をそこでやっているクラスや部活動もあるくらいだった。
 僕は陸橋の方には行かないで、叔父さんが経営している海の家の方に向かった。海の家、といっても海水浴シーズンしか開いていない小屋だ。シーズン中には、テラスだけでなく店の前にもテーブルや椅子をいくつも並べているが、今はシーズンオフなので、椅子類はすべて店の中にしまっていた。けれどもテラス脇に固定している長椅子はそのままあったので、自分のバックからタオルを出して軽く砂を払い、稲垣さんに勧めた。
「確かここ、津守くんの親戚がやっているお店だったよねー?」
 稲垣さんは長椅子に腰掛けると、興味深そうに見回した。
「多分今年も手伝いで入っているから、来たら何か買っていってよ」
「安くしてくれる?」
「うーん、叔父さんの機嫌が良ければ」
 そう苦笑すると、稲垣さんも笑った。
 稲垣さんから一人分離れた所に腰掛けると、ちょうど椅子がある部分が家の影に入っていたせいか、ひんやりとした。時々頬に当たる風も、遮るものがないせいかさっきより強くなっている。
 稲垣さんは、物珍しそうに暫くキョロキョロと視線をさ迷わせていたが、所存なさげに足をぶらぶらと揺らしていた。
「ここでなら訊いていいのかな?」
「えっと、どこから話せばいいかな……」
「うーん、まずは津守くんのことが知りたいな」
 「どうしてあんな超能力を持っているの?」と訊かれて、僕は話を始めた。
 昨日見られた僕のチカラのこと。
 天網の民のこと。
 大まかに、けれども言葉を選んで慎重に説明した。
 時々合槌をうちながら、稲垣さんは僕の話をじっと聞いてくれている。
 どう思うだろうか。
 説明した後、何と言われるだろうか。
 話しながらもそんな考えがふっと浮かんでくるたびに、なんだか妙に落ち着かなくて舌が渇いてくる。
「そうだったんだ……」
 ようやく説明し終わると、大抵のことには驚かない稲垣さんも流石に驚いたようだった。目を丸くしている。
「もしかして、京一君も、あと守山さんや瞬くんも津守くんと同じ?」
 そう首を傾げた彼女に、僕は息を呑んだ。他にも僕のようなチカラを持った仲間がいるとは言ったが、名前までは出していない。
「な、なんでわかったの?」
「だって、津守くんとよく一緒にいるじゃない?」
 僕の言葉に、稲垣さんは苦笑めいた表情を浮かべた。
「だからなんとなくそうなのかなぁと思って、訊いてみただけ」
 その言葉に、自分が上手く引っかかってしまったことにようやく気付いて、頭を抱えた。なんだか会話の主導権を稲垣さんに握られているような気がする。
「それで、今後のことだけど」
 稲垣さんの言葉に、僕は我に返って顔を挙げた。
 記憶を操作するパラライザーは、祖父の部屋からこっそりと持ち出して、タオルに包んでバックにいれてある。稲垣さんの言葉次第では、最悪これを使わざるを得ないと覚悟はしていたが、当の稲垣さんから出てきた言葉は意外なものだった。
「私も津守くんの仲間にしてくれない?」
 意外すぎて、呆然とした。
「え?」
「だって、知っちゃった以上は知らない振りっていうのは無理でしょ?」
「でも、稲垣さんは天網の民じゃないし、巻き込むわけには……」
 僕は呆然として口をぱくぱくさせた。
「津守くんの言う事が実際に起こったら、私達だって他人事じゃなくなるじゃない」
 稲垣さんの言うことも、もっともだった。
「それにうちの学校の生徒だって、半分は天網の民でも半分は私みたいに何も事情知らないよね?だったら、その『時』に備えて、天網の民じゃない味方が一人くらいいてもいいと思わない?」
 稲垣さんは、にぱっと笑みを浮かべた。
「それにほら、ある程度メディア委員会も押さえておける方が、もしもの時に便利そうだし?」
 稲垣さんの提案は、なんだか時代劇に出てくる悪徳商人みたいだった。
 そう言うと、稲垣さんは苦笑した。
「私が悪徳商人なら、津守くんは悪代官だよ?」
「そうかな?」
 そうだよ、と稲垣さんが笑ったので、僕もつられて笑った。
 二人でクスクス笑いあってから、稲垣さんはふっと真面目な顔つきに戻った。
「津守くんが話してくれたおかげで、自分が今ものすごく微妙な立場になっているのが分かったんだけど」
 声のトーンが、さっきより下がっていた。
「もう決まっちゃっているのかな?」
 何が、とは言わなかった。僅かに眉を寄せて僕を見つめている。
 僕は黙って首を振った。
「大丈夫、誰にもまだ話してないから」
 瞬に相談した事は、なんだか恥ずかしかったので隠しておいた。
 稲垣さんは、少しほっとしたような表情を浮かべた。
「じゃぁ、これからのことも考えないといけないね」
「これから?」
「大人にはともかく、京一くん達にはどう説明するの?」
 そう訊かれて、はっとした。迂闊にも僕は彼女をどう味方にするかでいっぱいいっぱいだったので、そこまで気が回っていなかった。
「お互い内緒のままにしておくのは難しいでしょ」
 ましてや、『時』が来たら。
 稲垣さんは、割と冷静に先のことまで考えようとしていて、現実的だった。
 京一達にもカミングアウトするなら、稲垣さんが僕たちの秘密を知っていた上で協力してくれている、尚且つそれを大人には秘密にするための理由がいるだろうと言った。
「ところでさ、ふとした疑問なんだけど」
 彼女は腕を組んで、首を傾げた。
「天網の民が天網の民じゃない人と結婚する場合はどうなるの?」
「え?」
 言われて、はたと気付いた。
「まさか天網の人同士じゃないと結婚しちゃいけないって決まりでもあるの?」
「いや、それはないと思うよ」
「じゃぁ、やっぱりある程度は事情話して、同意の上で一緒になっている人もいるってことだよね?」
「うーん、どうなんだろう」
 僕も首を傾げた。そういった込み入った大人の事情は、正直わからない。天網の民といっても、タタカイビトならともかくマモリビトは天網市だけでなく日本全国に散らばっているから、当然天網の民同士というのも多いのだろう。しかし江戸時代とかならともかく、今の時代では天網の民じゃない人と結婚というのも少なくないはずだ。
 瞬の両親は恋愛結婚で、京一の今の両親はお見合いがきっかけで知り合って、なんて話を昔聞いたことがあるような気がするが、真偽のほどは分からない。いや、気にしたことがないというのが正しい。そういえば僕の両親はどうなのだろうと、ふと疑問が沸いた。祖父の子供が父なので、父が天網の民なのは間違いないが、母の方はよくわからない。いや、知らないというべきか。僕の両親は兄を連れて、タタカイビトに選ばれた僕を祖父に残して、どこかに行ってしまった。もし一緒に暮らしていれば、そういう会話とかしていたかもしれない。
「だったらさ、津守くん」
 稲垣さんの言葉に、僕は思考の海から現実に引き戻された。
「私と付き合わない?」
「え?」
 どこまで?と言いかけて、僕はその言葉を呑み込んだ。
「ええ?」
 この時の僕は、よほど素っ頓狂な声を上げていたに違いない。稲垣さんも恥ずかしそうに顔を伏せた。
「もしかして津守くん、他に好きな人いる?」
「い、いや、いないけど……」
 ようやくそう返事をすると、稲垣さんは僕を真っ直ぐに見据えた。
「私は津守くんが好きだよ」
 二人きりの状況で女の子にそういう事を言われるのは、初めてだった。
 顔がものすごく熱くて、どう返事したらいいのか分からない。
「だから力になりたいし、一緒にいたい」
 でもやっぱり恥ずかしいのか、稲垣さんは頬を染めて足元に視線を落とした。
「それに、私達が付き合っているってことになれば、皆に説明しやすいでしょ?」
 それはもっともなのだが、返答に困って口ごもる。
「まぁ、まず試しに付き合ってみて、もし駄目だったら、その時記憶を消すなりしちゃってもくれてもいいし」
「そ……それでいいの?」
 なんだか僕に気を遣いすぎなような気がした。
「世の中何がきっかけになるか分からないしね。それでもいいよ、私は」
「つ、付き合うって言われても、何をどうすればいいのか……」
 混乱している僕に、稲垣さんは優しく微笑んだ。
「まずは二人で一緒に、色んなことを話していけばいいんじゃないかな」
 そんなわけで僕たち二人は、付き合うことになった。

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