Monolog
 僕、津守八葉は、今日、人生最大の失敗をしてしまった。
 たかだか十四年しか生きていない身で、人生最大というのは大袈裟かもしれない。
 でもこれ以上の失敗は多分今後しないだろうし、したくもない。
 ……ああ、どうしよう。
 誰もいない生徒会室で、僕は頭を抱えた。開けっ放しになった窓辺から夕日が差し込み、レースのカーテンがひらひらと揺れている。僕は窓辺に寄って、人気のない校庭を見下ろした。いつもなら部活動に精を出す生徒の喚声が聞えてくるのだが、今日は体育祭があったので、流石にどの部活も休みだった。校庭の片隅には、体育祭で使用したテントや立て看板の残骸が少し残っている。
 ……ああ、どうしよう。
 僕は、何度目かのため息を吐いた。
 事は数時間前に遡る。
 僕は副生徒会長なので、体育祭の運営及び備品の管理を担当していた。各クラスが使用した椅子やテントから、種目で利用した運動器具まで、あるべき場所に配置し、そして撤収する。準備も大変だが、後片付けの方が大変だった。疲れもそうだが、優勝を争う興奮などで怪我や事故も起きやすい。その辺りも注意しつつ、各クラスの委員長達に指示を出し、僕自身もクラス担当分の器具を持ち運びしていた。
 後片付けもほぼ終わった頃だったと思う。
 同じクラスの子が、テニスボールの詰まった籠を重たそうに抱えていたので、体育倉庫に行く用事のあった僕は、ついでだからとそれを受け取って体育倉庫に向かった。体育倉庫は、校庭を挟んで校舎の反対側にある二階建ての建物だ。二階部分は運動部の部室になっていて、一階が倉庫になっている。コンクリート製の頑丈な建物だが、結構古くて、聞く所によると叔父が生徒だった代に新築されたらしい。
 てくてくと校庭を横切って辿り着くと、倉庫の扉は猫一匹分入るくらいの隙間が開いていた。誰かが完全に閉めきらないまま出て行ったのだろう。よくあることなので、気にもとめなかった。今思うと、それが大間違いだったのだが。引き戸を体で押して、自分が通れるだけの隙間を広げる。引き戸は鉄製だからそこそこ重いのだが、土埃が詰まって滑らかに動かないので、さらに重く感じた。
 体育倉庫の中は薄暗くて、ひんやりとして、静かだった。明るい場所から急に暗い場所に入ると眼がチカチカしたが、慣れてくると、奥にマットや跳び箱などが無造作に置かれているのが見えてきた。しかもマットが、テニスラケットやボールを保管する棚に寄り過ぎていて、これを移動させないと片付けられない状態だった。このままマットの上か横にでも置いて帰ってもいいのだが、片付け方が乱雑すぎるから、次の授業で困るだろう。かといって、一人で畳みなおすには大きくて重い。
 とりあえずマットの上にテニスボールの籠を置いて、ズボンのポケットからストップウォッチを取り出した。京一がうっかり生徒会室に持ってきていた物だ。それを入り口近くにある棚に戻して、僕の本来の用事を済ませた。
そしてマットのほうに向き直って、ふと気付いたのだ。
 チカラで浮かせてしまえば一人で綺麗に片付けられるじゃないか、と。
 それはとても妙案に思えた。別に今すぐ自分がマットを綺麗に直す必要もないのだが、このまま放置していくのもすっきりしない。僕はまず体育倉庫の引き戸をきちんと閉めて、急に人が入ってこないようにチカラを込めた。そしてマットの上に置いた籠を脇にどかせて、マットを少し浮かせた。僕のチカラは重力を操るチカラだから、浮かせること自体は簡単だ。まず腰の辺りまでマットを浮かせて、先にテニスボールの入った籠を棚に片付けた。それからゆっくりマットを畳み直していく。チカラを使いながらマットを直すのは、思っていたよりも簡単だった。そして音を立てないようにゆっくり下ろそうとして、何となく、顔を上げた。
 今整理しているマットの横には跳び箱があって、その奥には高飛びに使うクッションなどが置かれている。つまり、ラケットなどを置いている棚や跳び箱に囲まれるように人が入れるスペースがあるのだが、その、ちょうど跳び箱の向こうから顔を出して、興味深そうに僕を覗き込んでいる大きな瞳と目が合った。眼鏡の奥に泣いたような後を見つけて、おや、と思ったのもつかの間、誰も居ないと思っていた場所に人がいたことに、愕然とした。いやそれよりも、今ここにいるということは、それはつまり……。
 どすん、とマットが落ちる音が聞えた。
 殆どの生徒が片付けを終わらせて帰宅し始めたのか、遠くから喚声が響いている。
「……み、見てた?」
「うん、ばっちり」
 恐る恐る訊ねると、彼女はにっこりと頷いた。
「重い器具とかでも楽々運べそうでいいなぁ」
 羨ましそうに言いながら、跳び箱を跨いでやって来る。しかし僕はどうすれば良いのかとっさに判断がつかず、彼女の二つのおさげが揺れているのを呆然とみていた。
 彼女のことはそこそこ知っている。稲垣ひかる。同じクラスでメディア副委員長をしているので、学校行事でもよく一緒になる事が多い。
「津守クン、扉重くて開かないんだけど、開けてくれる?」
「え?あ、うん」
 今になって思えば、この時彼女を止めるなりどうにかすれば良かったのだが、飄々とした彼女の様子に呆然として、僕はお人よしにもチカラを解除して、ご丁寧にも扉を開けてしまった。
「じゃ、また明日ね〜」
「あ、うん。また明日」
 ひらひらと手を振りながら走り去っていく後ろ姿を見送って、彼女の姿が校舎に消えてから、ようやく僕はさらに失敗を重ねたことに気付いた。そんな自分が情けなくて、泣きそうになる。そもそも中にちゃんと人がいないことを確認すべきであって、安易にチカラを使ってしまった自分に自己嫌悪しっぱなしだった。
 僕はまた深くため息を吐いた。
 他の生徒会メンバーは、既に体育祭の後片付けを終わらせて帰途についていた。校舎にも殆ど人気がなく、窓から見下ろす景色は紅に染まっている。そのうち先生が見回りにくるだろう。いつまでもここで悩んでいても仕方ない。僕はトボトボと家路についた。



 僕たち天網の民は、普通の人にはないチカラが使える。代々受け継がれてきた使命を全うするために授けられたチカラなので、あまり嬉しいものではない。また、このチカラには個人差も大きいので、天網の民なら全員使えるというわけではない。
 僕のチカラは、重力を操るチカラだ。シングウを形成するのに必要なチカラの一つで、シングウの力を狙って襲ってくる宇宙人と戦うための力だ。その戦いはまだ起こっていないが、明日始まるかもしれないし、数年後かもしれない。だから余計に、天網の民ではない彼女に僕のチカラを知られるわけにはいかなかった。
 ここ、天網市には大きな秘密がある。先祖代々からこの街に住んでそれを守っている天網の民と、そういった秘密とは無縁の住民。彼女は後者だ。もし秘密を知られたらどうするか。僕の知りうる限りで一番多いのは記憶操作だ。見られた記憶だけ消すことができる便利な道具があるらしい。らしい、というのは自分でそれを使ったことがないからで、ただそれを借りるには祖父に事情を話して許可を貰わないといけなくなる。そうすれば大事になるのは目に見えているから、出来れば避けたい事態だった。つまり先生を含め大人に相談するということは、彼女の記憶を操作するという結論に達してしまうだろう。
 相談するなら、同世代の友人にするしかない。僕は相談されることはよくあっても、自分が誰かに相談したことがないから、ちょっと困った。京一だと事が大きくなりそうだし、那由多も同じだ。晴美に相談したら何も言わないで記憶を消しにいってしまいそうで逆に恐い。とまぁ、消去法ではあるが瞬に行き着いて、しかし彼が最も今回の相談に適しているのではないかと思えた。瞬も稲垣さんと同じメディア委員会で、イベントではよく二人で司会進行をしているから、仲も良いだろうし、僕よりは彼女のことを知っているに違いない。
 僕は帰宅してすぐに着替えると、瞬に電話した。相談したい事があるとやんわりと告げると、すぐにこちらに向かうとのことだった。
 受話器を置いてすぐに玄関に向かうと、ちょうどインターホンが鳴った。
 瞬だった。相変わらず速い。
「すまないな、夕食前なのに来て貰って」
「いえいえー。で、どうしたんです?内緒の相談だなんて」
 僕は、氷を入れたグラスにペットボトルの炭酸飲料を注いで、座布団に腰掛けている瞬に差し出した。瞬はそれを受け取って、ストローを差し込んで口を付ける。
「稲垣ひかるさんって知ってるよね」
「ええ、そりゃまぁ」
「どんな人?」
「どんな人って……」
 瞬は眉を寄せて、僕を見上げた。
「どうしたんです、急に……」
「まぁその、なんだ……」
 事が事なのでなかなか切り出せない。そんな僕を見て瞬は暫く首を傾げていたが、急ににこやかな表情に変わった。
「もしかして相談って、その稲垣先輩のこと?」
「え?あぁ、まぁ」
「いやぁ、ついに八葉さんにも遅い春到来ですかねぇ」
 ……え?
「いやぁ、でも意外だなぁ。八葉さんはもっと静かな女性がタイプかと思っていたんですけどねー」
 ……はい?
「ああ見えても稲垣先輩、結構しっかりしているし、八葉さんとはいい感じかも」
 にこやかというより、ニヤニヤとした表情を浮かべている。
 あ、なんか凄く誤解されているような。
「で、稲垣先輩に告白するんですか?それとももう告白された?」
「かなり違う……」
「えー」
 首を横に振る僕に、瞬は心底がっかりしたようだ。半分に減ったグラスの中の氷を、ストローでかき混ぜる。すると中の炭酸飲料がシュワシュワと泡立った。 「それじゃぁ、どんな相談なんです?」
「実は、その……」
 僕は、体育祭の後片付けで稲垣ひかるにチカラを見られた経緯を話した。流石に瞬も、茶化すことなく目を丸くした。
「八葉さんにしては珍しいミスですね」
「面目ない……」
「で、どうするんです?」
「うーん、それを相談しようと思って……」
 僕は腕を組んだ。
「本当はちゃんと報告しておくべき所なんだけど、稲垣さんにもあまり迷惑かけたくないんだ」
「でも、それって記憶をさくっと消してしまえば問題ないんじゃ?」
「そりゃそうなんだけど……」
 煮えきらない僕に、瞬は首を傾げた。
「八葉さんはどうしたいの?」
 瞬に改めて訊ねられて、僕は返答に困った。
「んじゃ、逆にしつもーん。八葉さんは稲垣先輩のことどう思ってる?」
「どうって……」
 ただの、ちょっと仲の良いクラスメイト。
 ……それだけだ、と思う。たぶん。
 そりゃ、小学校から同じだったから、何度も同じクラスになったことがあるし、そのせいか班行動や委員会などでよく一緒になったし、くされ縁とまではいかないけど付き合いは長い。頭の回転が速くててきぱき指示もできるし、思っていることはちゃんと言ってくれるから、委員長などをやっている僕にとっては頼もしい、といったところだろうか。
 そこまで考えて、今はそれが問題には関係ないような気がして、そう言うと瞬は苦笑した。
「例えば、もし見られたのが稲垣先輩じゃなかったら、どうしてました?」
「ちゃんと山本先生か祖父に報告して、記憶を消してもらってたんじゃないかなぁ」
 そう答えると、瞬は呆れたようだった。
「八葉さんって、前々から思っていましたけど、自分のことには結構鈍いですよね」
「……そうなのかい?」
 僕が首を傾げると、瞬は大きく頷いた。それから真面目な表情になって、声を押さえ気味に話を続ける。
「で、口止めとかその辺りはまだなんですよね?今日の体育祭で明日は振替休日だから、話つけるなら明日ですかねぇ」
 なるほど、と僕が頷くと、瞬はさらに声を小さくした。
「稲垣先輩のことだから、多分誰にも話してないだろうし、話さないと思います。だから、口止めして、なおかつ味方にするのは可能だと思いますよ」
 そしてこう付け加えた。
「稲垣先輩、間違いなく来年はメディア委員長になるだろうから、こっちの味方になってもらえれば、校内での情報収集や情報操作する時は便利そうですよね」
 冗談で言っているのか本気なのか判別しにくい口調だったが、なんだか彼女を利用するみたいで、その言葉には同意できない。しかし彼なりに考えての言動なのだろう。今までは、瞬は目立つことが好きなのと、演劇部で鍛えた活舌を生かしてメディア委員に入ったものとばかり思っていた。しかし来るべき時に備えて校内の情報操作ができるようにという考えから、瞬はメディア委員に入ったのだろうか。
 まじまじと瞬を見つめると、「八葉さん恐―い」と言いながら肩を竦めた。
「大人には内緒で、稲垣先輩を僕たちの味方にする。八葉さんが望むのってつまりそういうことですよね?」
 そういうこと、なのだろうか。自分でもよく分からない。しかし、味方につけるのはともかく、情報操作とかで利用したいという気は、さらさらなかった。
 眉を寄せている僕の顔を見上げて、瞬は肩を竦めた。
「でも、もし打ち明けて稲垣先輩が秘密にできなかった場合は、やらないといけませんよ」
 瞬は、人差し指と親指を伸ばしてピストルのような形にすると、右耳辺りまで上げた。
「パラライザーでこうプスッと」
「それはわかっているよ」
 わかってはいるが、できればやりたくないなぁと思った。
「稲垣先輩の電話番号は知っていますよね?今晩にでも電話して、明日会う約束を取り付けてくださいね」
「わ、わかった」
「で、どっかの喫茶店で待ち合わせて、そこで話するのは内容的にまずいから、なるべく天網の民に聞かれないような場所で相談して、あー海岸とかどうです?今の季節だと人気ないですし。で、それから……八葉さんちゃんと聞いてます?」
 早口でどんどんまくしたてる瞬の言葉の要点を頭に叩きつけながら、僕は腕を組んだ。
「なんか……デートみたいだなぁ」
「気のせいですよ」
 僕が率直な感想を述べると、瞬はにこやかな表情を浮かべていた。
 謀られたと気付いたのは大分後になってからだ。

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