ミルキィホームズの冒険 仮面だらけの古都
 

第二章


3

 三十三間堂というのは俗称で、正しくは蓮華王院三十三間堂という。史跡ではなく歴とした寺院である為、広い境内には僧侶の姿が散見される。
 保元の乱後、後白河上皇は、現在の三十三間堂ーー即ち蓮華王院のあった法住寺に移住し、そこを根拠地として様々な寺院を建てた。蓮華王院はそれら寺院の一つであり、観音堂である。
 その「三十三間」堂とは、尺貫法における一間ではなく、柱と柱の間の数が三十三もある細く長大な御堂という意で、当時から「三十三間の御堂」と呼ばれたという。
 平清盛の力を借りて一一六四年に完成したが、一一八三年、木曽義仲によって焼き討ちに遭って破壊された。そして、一二四九年の火事によって焼亡してしまった。だが、本尊の千手観音は御首と左手のみが、そして二十八部衆と千体観音のうち百五十六体が救出されたという。それから一二六六年に、後嵯峨上皇により復興された。現在の建物も仏像も、ほぼこの再興時のものであるーー。
 薄暗い廊下を先導しながら、ガイドは声を抑えて説明を続けた。その後に続きながら、シャーロックは堂内を見渡す。
 細長い堂の左側に、板張りの通路が細長く真っ直ぐに伸びていた。その右手には、通路と仏間を区切るような短い柵があり、そこから手が届きそうな距離に、国宝の二十八部衆と風神、雷神像が安置されている。
 その奥には観音像がずらりと横並びとなり、ちょうど堂の中央部分に、巨大な観音像が安置されていた。他の仏像は全て立ち姿であるが、その巨大な観音像だけ、大きな蓮華の花弁の上に座禅を組むようにして座っている。
 今は少し金箔が剥げているが、窓が閉め切られた薄闇の中で千体以上の仏像が金色に浮かぶ様は、荘厳かつ神秘的で、圧倒的でもあった。しかし同時に形容詞がたい圧迫感も感じ、不気味でもある。
 堂内には、線香の香りが漂っていた。通路のところどころに座って拝めるような場所があって、そこに線香を供える道具が設えられている。その近辺に、作務衣に身を包んだ僧侶の姿が点在していた。一方通行の通路には一般観光客も混じっており、足早に生徒達を抜いていったり、逆に生徒達の近くでガイドの説明に耳をそばだてている者もいる。
 生徒達はガイドの周辺に固まっていたが、シャーロック達は、その一団から数歩遅れた位置にいた。
 所々足下を仄かに照らす明かりがあるものの、コーデリアは怯えた面もちで、エルキュールの腕にすがりついている。エルキュールもずらりと並ぶ観音像に圧倒されているのか、コーデリアの歩調に合わすようにゆっくりと進んでいた。時折仏像の前で足を止め、ぐるりと周囲を見渡している。その後ろについて歩くように、シャーロックとアンリエットが並んで歩いていた。そして彼女たちの背後、すなわち一行の最後尾には、二十里と石流が続いている。
 一方、ネロと根津は興味がないのか、ガイドのいる先頭集団からも外れ、どんどん先へと進んでいるようだった。
 シャーロックは周囲を見渡しながら、ゆっくりと歩を進めた。ガイドが朗々と説明する内容は、カフェのBGMのように右から左へと抜けていったが、こうした日本特有の建築物の中に入るのは初めて、少しばかり緊張する。
 通路横の戸を閉め切って照明を落としているのは、貴重な仏像を保存するという美術的観点だけでなく、宗教施設としての面目もあるらしい。中はまるで巨大な仏壇のようで、初めて間近で見る仏教独特の調度品や天井の高い建築様式に、シャーロックは息を呑んだ。
 ガイドによれば、これら観音像の中には、自分や大切な人に似た顔のものが混じっていると言われる事もあるらしい。
「シャーロック、そんなによそ見をしていると危ないですよ」
 囁くような小声で窘めるアンリエットに、シャーロックはばつが悪そうな面もちで頬をかいた。
「えへへ。アンリエットさんに似た顔の像があるかなぁって、探しちゃいました」
「私に……ですか」
 シャーロックの言葉に、アンリエットは軽く眉を開いた。
「見つかりましたか?」
「あれなんかどうでしょう」
「もしかして、真ん中の一番大きい仏像ですか?」
 シャーロックが指さす先へ目を向け、アンリエットは目を瞬かせた。
 彼女が指さす先にあるのは、中央で唯一座している観音像だった。胸元で合掌する二本の手以外に、背後から伸びた四十本の腕が上半身の両脇に花びらのように広がり、宝鉢と呼ばれる道具を持っている。そしてその四方には、四天王と称される仏像がそれぞれ安置されていた。
「あれは千手観音坐像で、ここの本尊です」
 中央に安置されているので中尊と呼ぶのだと、石流が低い声音で説明した。
「千手といっても本当に腕が千本あるわけではなく、実際は四十二本です」
 仏像の大きさにもよるが、さすがに千本の腕を彫ったりつけるのは造形的に難しかったらしい。胸元で合掌する二本の手を除いた四十本の手が、仏教において天上界から地獄まで二十五あるというそれぞれの世界を救うものであり、「25×40=1000」でそれらを表現しているということだった。
「千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表しています」
 密教の曼陀羅では観音像は「蓮華部」に分類され、観音の王であるとの意味で、千手観音を「蓮華王」と称するという。蓮華王院の名はこれに由来するのだと、石流は言葉を結んだ。
「じゃぁ、アンリエットさんにぴったりですね!」
「そうでしょうか……?」
 シャーロックが大きく頷くと、アンリエットははにかんだ。
「イエース、慈悲深いアンリエット様はまさにビューティフル菩薩!」
 声を抑えつつも大げさな身振りで呟く二十里に、石流は眉をひそめている。
「騒ぐな。柱に傷でもついたらどうする。ここは国宝の中なのだぞ」
「え?」
 石流の言葉に、シャーロックとエルキュール、そしてコーデリアは足を止め、目を瞬かせた。初めて聞いたと言わんばかりの面もちで見上げる彼女らに、石流は深く溜め息を吐いている。
「最初に澪……ガイドが説明してくれただろう。ここは、あの本尊と風神・雷神像、二十八部衆、そして本堂そのものが国宝で、他の仏像は重要文化財だ」
 他にも重要文化財に指定されているものが敷地内に幾つかあると、石流は説明した。
「ですので、入場者は問答無用でコレを付けて貰ってるわけです」
 その説明に続けるように、柔らかな声音が挿入された。シャーロックが顔を向けると、ガイドは足を止め、こちらを振り返っている。周囲にいた生徒達も一緒に足を止め、シャーロック達のいる後方へ目を向けていた。
「邪魔をしてしまったようで、すみません」
 謝罪の言葉を口にする石流に、ガイドは苦笑を浮かべた。
「いえいえ。おかげで私が説明する手間が省けました」
 そう告げるガイドの右手首には、珊瑚のように赤く煌めくプラスティック製のブレスレットが、スーツの袖の上から装着されている。
 シャーロックは、自分の右手首に視線を落とした。そこにも同じように、制服の袖の上から赤のブレスレットが装着されている。内側のベルトで手首にぴったりと密着しており、どういう仕組みなのか、強引に動かしても自分で取り外す事はできないようになっていた。丸みを帯びたフォルムで厚みがあるものの、薄い教科書を持った程度の重さしか感じない。
 これは、玄関で靴を脱いだ先にある入り口で、係員によって取り付けられたものだった。トイズの有無に関わりなく、入場者全員に装着が義務化されているという。その為、皆の手首には例外なくこの腕輪が巻かれていた。
「トイズは、持ってはいても目覚めてない人もいますからね。なので万が一の事故を防ぐ為、ここでは入場者全員に、このトイズ封じのブレスレットの装着が義務化されているんです」
 ガイドの説明に、赤縁眼鏡の女生徒が口を挟んだ。
「じゃぁ、これをつけるのが嫌って文句言う人は?」
「入らなくていいんじゃないですかねぇ」
 朗らかな笑みを浮かべるガイドに、生徒達は僅かに戸惑いを浮かべた。婉曲的ではあるが、有無をいわせぬ口調でもある。
「この国の諺には「郷に入りては郷に従え」という言葉がありますが、歴史ある宝物を守る為のお願いにご協力して頂けないのなら、こちらとしては別に見てくれなくてもいいんですよね」
「うわぁ、強気だなぁ」
 背後から呆れたネロの声が耳に届き、シャーロックは振り返った。見ると、石流の横に根津とネロが立っている。
「あれ? 二人とも先に行ってたんじゃ……?」
「売店抜けて、一周してきちゃった」
 シャーッロクの問いに、ネロが小さく舌を出した。
「ダメじゃないか。勝手に先に進んだりしたら」
「わかってるよ。でも、ちょっと気になる事があって」
 小声で咎める二十里に、根津は言葉を濁しつつ、素直に頷いている。石流は横目で二人を伺うと、ガイドへと視線を戻した。
「キョウトは、特に何もしなくても、国内外から観光客が大勢来る。だからどうしてもそういうところがある」
 揶揄するでもなく淡々と吐き出された石流の分析に、ガイドは同意するように軽く肩をすくめた。
「それに、守る相手は怪盗だけではない。一番警戒しているのは、火事だ」
 石流は淡々と言葉を続けた。
「怪盗なら取り戻せばいい。だが火事はそうはいかない」
 小さく息を吐き出し、床へと視線を落とす。
「昔、火事で金閣寺が焼け落ちた事があるが、付け火だったらしいからな。それ以降色々厳しくなったと聞いている」
「へぇ。じゃぁ根津は気をつけないとなぁ」
 大人しく石流の話に耳を傾けていたネロが、口元を押さえて隣の根津を肘で小突いた。
「なんでだよ」
 根津は眉をひそめ、肘でネロを小突き返している。
「捕まえられて、閉じ込められたりして」
「ねーよ」
「まさかぁ」
「その為のコレですよ」
 ガイドはブレスレットのある右手を小さくひらひらと揺らすと、腕を下ろした。
「ここはガラス戸もなく、国宝を間近で見られる場所ですからね。なのでこのブレスレットがあるのは、この三十三間堂やキョウト博物館くらいです」
 全部にあるわけではないとガイドは微笑を浮かべると、進行方向へと足を向けた。そして柵の向こうにある二十八部衆像について、簡単な説明を口にしている。
 アンリエットは緩やかに歩を進めながら、シャーロックに柔らかな笑みを向けた。
「私があの本尊でしたら、貴方に似た観音像も探さないといけませんね」
「なかなか見つからないですー」
 肩を落とすシャーロックに、アンリエットは奥の一角を指さした。


ほーむ
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