第二章
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ホームから新幹線がゆるゆると走り出していく。徐々にスピードを増すそれは、シャーロックの前髪や制服のスカートを軽くはためかせた。 シャーロックは背負ったリュックを両手で握りしめると、きょろきょろと周囲を見渡す。 ホームの看板は、私立学校や企業のものが中心の新ヨコハマ駅とは異なり、寺院の案内や名物の菓子の宣伝が並んでいた。雨が入り込まないように透明なアクリル板がホームの両サイドを囲み、それら看板の隙間からは、車線の広い道路が覗いている。みっしりと多くの自動車で埋まっている道沿いには、大型ホテルやショッピングビルが道なりに並んでいた。その裏手にはヨコハマと大差ない住宅街が広がっていたが、左手奥にそびえる緑の山の中腹には、寺院らしき黒い瓦屋根の建物が見えている。その反対側へと目を滑らせると、駅前のビルの隙間から瓦屋根の塔が覗いていた。その塔は白壁で、頂上だけでなく階ごとに黒の瓦屋根が広がっている。 「アンリエットさん、あれ何ですか?」 シャーロックが弾んだ声で塔を指さすと、隣に佇むアンリエットは、彼女が指さす先へと目を向けた。 「あれは確か……東寺の五重の塔ではなかったかしら?」 彼女も初めて見るのか、小首を傾げている。そして確認を取るように、傍らの石流を振り返った。 石流は右手にアンリエットのキャリーバックを持ち、左肩に自分のボストンバックを下げ、周囲の生徒達にホーム扉から離れるよう指示している。しかしアンリエットの言葉と視線にすぐに気付くと、小さく頷き返した。アンリエットはそれに柔らかな笑みを返し、シャーロックへと顔を戻した。そして東の寺と書いて「とうじ」と読むのだと付け加える。 「研修旅行の最後日に見学するところです」 「へぇ〜!」 ヨコハマにも明治以降の古い建物が残っているが、それらはほぼ西洋の造りになっている。それらとは全く異なる「和」の景観に、シャーロックは目を輝かせた。周囲をきょろきょろと見渡し、ホームの反対側へと振り返る。 透明なアクリル板の壁の向こうには、デパートやホテル、劇場を内蔵しているキョウト駅が、巨大な城壁のようにそびえ立っていた。よく雑誌やポスターで見る古い寺社の殆どは、あの駅ビルの向こう側にあるらしい。 「キョウトは初めてなので楽しみです!」 声を弾ませるシャーロックに、大きなボストンバックを担いだネロは、目を輝かせた。 「湯豆腐、和菓子、にしんそばに鮎の塩焼き……美味しいものもいっぱいだよね!」 じゅるりと涎を垂らしそうな勢いで、満面の笑みを浮かべている。それを呆れた面もちで見つめる根津の横では、キャリーバック片手に、エルキュールがうっとりとした眼差しで天を仰いでいた。 「藤原業平に、小野小町、百人一首に源氏物語、平家物語に徒然草……」 舞台になった場所に行ってみたいです、と続けられた囁きに、隣に立ったコーデリアは大きく頷いている。 「嵐山の竹林も素敵だけど、いまの時期は北野天満宮の梅が〜見頃らしいのよ〜」 徐々に歌うような口調になっていくコーデリアに、アンリエットは軽く肩をすくめた。だがその瞳は笑っている。 「貴方達、遊びに来たのではないのですよ」 「そーだそーだ!」 柔らかに咎めるアンリエットに続けるように、根津がはやし立てた。その言葉にエルキュールは赤面して顔を伏せ、ネロは「わかってるもーん」と唇を尖らせている。 アンリエットの言葉にミルキィホームズの四人が「はーい」と声を揃えて返事をすると、シャーロックの背後から凛とした声が響いた。 「ホームズ探偵学院の皆様ですね」 背負ったリュックの肩紐を握りしめ、シャーロックが振り向くと、改札へと続く下り階段の手前に、女性が一人佇んでいた。年齢は二十三、四といった頃合いで、濃い紺色のスーツに身を包み、首元には紅のスカーフを巻いている。それは暗い水面に紅梅の枝が映り込んだかのように鮮やかで、スーツと同色のキャロットスカートからは、黒のストッキングに包まれた長い脚が伸びていた。少し切れ長の眼差しからは、鋭さと知的さを漂わせた紅い瞳が覗いている。そして、アンリエット程ではないものの、豊かな胸に沿うように、頬の両側から長い黒髪が二房垂れていた。 きびきびとした所作でシャーロック達の前まで歩み寄ると、彼女はヒールのない黒の革靴を揃えた。 「はじめまして。ヤサカ観光社のガイドの、筑紫澪と申します」 そう名乗り、彼女はシャーロックの隣に立つアンリエットへ軽く会釈した。 「ホームズ探偵学院生徒会長、アンリエット・ミステール様ですね」 アンリエットが頷いて名乗り返すと、彼女は背にした階段を片手で指し示した。 「ここのホームは狭いですし、次の新幹線もすぐに着ますから、まずはバスへどうぞ」 下に待たせてありますからと言葉を続け、階段へと足を向ける。シャーロック達はそれぞれ荷物を手にすると、彼女の後へと続いた。 リュックの肩紐を握ったままゆっくりと階段を下りていくと、ちょうどシャーロックの視線の先に、彼女の後頭部があった。長い黒髪を簪一本でひとまとめにしており、串の先には、小さな白梅の花が二つ付いている。 ホームから階段を下りると、土産物屋や喫茶が広がるフロアへと出た。ホームよりも往来が多く、昼時のせいか、カフェやレストラン、駅弁屋に人だかりがある。その少し先に改札口が二つあり、正面側の出口へ進むと、そのまま駅中へと出るようだった。一方右手側にある改札は、JRと接続しているらしく、通路の上部には、在来線の案内看板が掲げられている。 ガイドは、前方に見えている改札口へとは進まず、人混みを避けるように降りてきた階段を回り込んだ。その先にはさらに下へと続く階段があり、「こちらにも改札がありますので」と歩を進めていく。ぞろぞろと皆が続いていくと、階段を下りた先に、通路と面した改札口があった。前方には大きなガラス戸があり、駅の外にあるロータリーへと続いている。そしてその両脇には、土産物屋とコンビニが並んでいた。どうやら先ほどの改札は駅の二階にあり、こちらの改札口は、一階の店舗が並んだ通りに面しているらしい。 シャーロック達は石流から順に切符を受け取ると、四つ並んだ自動改札口から順に外へと出た。そしてガイドに先導されるまま、駅外へと続くガラス戸を抜けていく。広々としたコンコースには大きなコインロッカーがずらりと並んでいて、その大半が使用中になっていた。その正面はタクシー乗り場になっていたが、車両のサイズによって乗り場が三つに分かれている。 「あちらです」 筑紫澪の凛とした声に、シャーロックは彼女が指す左手へと顔を向けた。そちらには各ホテルへのシャトルバスが数台並んでいて、大半はマイクロバスだったが、それらの奥から、小型の観光バスの屋根が覗いている。 時々振り返りながら歩を進める彼女の後をついていくと、シャトルバスを過ぎて、その観光バスの前へと出た。一般的な観光バスに比べると一回り小さいが、窓は大きめな造りとなっており、車両は新車のようにぴかぴかに磨かれている。そして車体の側面には、ベース型の黒枠の中に、川を表現したような水紋が水色で描かれ、その上に紅色で梅の文様が描かれたマークがあった。その真横には「ヤサカ観光」と大きく筆で書いたような書体の黒文字が入っている。 その文字の辺りに、スポーツ選手のようにがっしりした体格の青年が一人、手持ちぶさたげに、黒革の薄い帽子を指先でくるくると回していた。黒に近い紺の長ズボンと黒の革靴を履き、白の長袖シャツに身を包んでいる。胸ポケットからは白手袋が半分はみ出ていた。おそらく彼が運転手なのだろう。 サッカー選手のように短い顎髭を生やした青年は、近寄るガイドと生徒達に気付くと、人懐っこい笑みを浮かべた。そして指先で回していた帽子を掴んで片手で持ち直し、小さく両手を振っている。 「はじめまして、運転手の真木はじめです」 アンリエットの前で姿勢を正すと、運転手は会釈した。そして背後のシャーロック達を見渡し、松葉のような翠色の瞳に喜色を浮かべた。 「話には聞いていたけど、みんな可愛い子ばっかりですね!」 その言葉に、流石のアンリエットもどう返したものかと軽く柳眉を寄せている。しかし青年は気にした風でもなく、彼女の傍らに控える石流に目を輝かせた。 「わー、漱ちゃん、久しぶり〜!」 両手を広げて飛びつくが、荷物を抱えた石流はそれをするりとかわすと、アンリエットを庇うように彼女の前に立った。そして、呆れた眼差しを無言で向けている。 「もう、そういうところは相変わらずだなぁ」 運転手は空振った両手をひらひらと降りながら、小さく唇を尖らせた。 「漱……ちゃん……?」 生徒たちは頭上に疑問符を浮かべたような面もちで、唇を尖らせた運転手と、無表情なままの石流を交互に見比べている。その視線に応えるように、運転手は大きく頷いた。 「石流漱石だから、漱ちゃんだよ」 ね、と唇の両端を大きく持ち上げ、小首を傾げるように石流へと目をやる。そして生徒の方に向き直ると、再び人懐っこい笑みを浮かべた。 「僕の事はマッキーって呼んでくれても良いし、はじめちゃんって呼んでくれても良いから」 朗らかに語り続ける彼に、石流はようやく口を開いた。 「なんだ、その髭は」 「えー、カッコいいでしょ? 似合ってない?」 咎める石流に、青年は帽子を持つ右手を腰に置き、一方の左手は顎にあててポーズを取っている。それを一瞥すると、石流は眉をひそめた。 「似合ってないわけではないが……不衛生ではないのか」 「ええー、これはこういうオシャレなんだってば」 相変わらず堅いなぁ、と苦笑を浮かべる青年と石流のやりとりを、シャーロック達はぽかんとした面もちで見つめている。 「あの……お知り合いですか?」 赤縁眼鏡の女生徒が遠慮がちに石流へと目を向けると、代わりに運転手が大きく頷いた。 「そうだよ。僕達は幼馴染みだからね」 「ええー?!」 その言葉に、多くの女生徒が驚きの声を挙げた。 「そうなんですか、石流さん?!」 目を丸くする赤縁眼鏡の女生徒の言葉に、石流は否定も肯定もしない。 「僕達は物心ついた頃からずーっと一緒なんだよ。といっても、高校生の頃までだけどネ」 「そんなことよりも、早く出発したいんですけど」 「おっと」 呆れた面もちで肩をすくめるガイドに、運転手は帽子を被り直し、バスの方へと身体を向けた。そして「ヤサカ観光」と文字が入った部分を掴んで持ち上げる。そこはスライド扉になっており、中は座席の下を利用して作られた荷物スペースで、生徒全員の荷物が楽々入りそうな程の広さがある。屈まないと中は見渡せないが、開くと同時に小さな電灯が点いた。 「キャリーバックとか、宿まで使わない大きな荷物はこっちに入れてね」 運転手は説明しながら石流が持った荷物へと手を伸ばしたが、石流はそれをやんわりと拒んだ。 「アンリエット様は最初にバスから降りるから、荷物を積むのは最後の方が良かろう」 「そうだね。じゃぁ、奥に座る子の荷物から入れちゃおうか」 石流の言葉を受けて運転手が促すと、生徒達はその指示に従った。順に荷物を運転手へと手渡すと、運転手は丁寧に奥へと詰めていく。そうして荷物を預け終わった生徒からバスへと乗り込んでいった。 シャーロック達は最後の方で、自分の番が回ってきた頃には、荷物が手前の方まで詰まっている。 シャーロックが運転手に荷物を手渡すと、運転手はそれを受け取り、しかしじっとシャーロックを見つめた。といってもその視線は顔ではなく、その後方の、輪に結んだ髪の方へと向けられている。興味津々な眼差しに、シャーロックは目を瞬かせた。 「彼女が、何か?」 シャーロックが口を開くよりも先に、真後ろに立つアンリエットが、咎めるようなやや低い声音を放つ。 「ごめんごめん、水飴っぽいというか、練り切りみたいだなって思って」 片手で祈るような所作でアンリエットとシャーロックに詫びを入れると、運転手はシャーロックに笑みを向けた。 「初めて見る髪型だけど、似合ってて可愛いね」 「そうですか? えへへ……」 率直に褒められ、シャーッロクは照れ笑いを浮かべている。 「行きますよ、シャーロック」 「はーい」 僅かに柳眉を寄せたアンリエットに促され、シャーロックはバスへと乗り込んだ。 |