第二章
1
「あ、富士山ですー!」 反対側の車窓に白く広がる峰を見つけると、シャーロックは腰掛けた座席から大きく身を乗り出した。が、真横にあるアンリエットの大きな胸に衝突し、んぐっと声を詰まらせる。 「大丈夫ですか、シャーロック」 「すびばせん……」 シャーロックが顔を上げると、アンリエットが柳眉を寄せた。 「あーあ、何やってんだよ、シャロ」 アンリエットの正面に腰掛けたネロが、うまうま棒をかじりながら呆れた表情を浮かべている。その隣では、根津が軽く眉を寄せて肩をすくめていた。シャーロックは眉を軽く寄せて小さく笑うと、傾いた体勢を整え、自分の席に座り直す。 新ヨコハマ駅を発った新幹線は、時折トンネルを潜りながら、民家の少ない山間を抜けていた。車両の中央付近はホームズ探偵学院の生徒達だけで占められており、他の乗客の姿は無い。そのせいか、初めての研修旅行に生徒達はやや興奮した面もちで談笑している。シャーロック達の席は、その生徒達を見渡すように、後方部に位置していた。 進行方向に向かって左手側にある三人掛けの席の窓際にシャーロックが腰掛け、その中央にはアンリエットが座っている。そしてその隣の通路側の席では、エルキュールが石流から借りた文庫本を読み進めていた。そして、彼女らの正面の三人掛けの椅子をくるりと回転させ、コーデリアがシャーロックの正面に座っている。その隣にはネロが、そしてその横の通路側の席には、根津が不満げな面もちで、肘掛けに肘を突いていた。 「静岡に入ったら、もっと大きく見えるわよ」 笑みを浮かべるコーデリアに、シャーロックは目を輝かせている。 「富士山なんて、前にコロンに呼ばれてニューオオサカに行った時、飽きるほど見たじゃん」 呆れた口調のネロに、シャロはえへへと笑みを返した。 「だって、あの時と違って雪があるんですよ! すっごく綺麗じゃないですか」 そして再び、反対側の窓辺へと視線を向けた。 通路を挟んだエルキュールの横には、石流が腰を下ろしていた。エルキュール同様、手にした薄い文庫本を読んでいる。そしてその様子を、隣席の赤縁眼鏡の女生徒がちらちらと伺っていた。その窓辺からは、緑の山間の奥から白く染まった峰が姿を見せている。 晴れ渡った青空に、富士山の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。ヨコハマでは雪が降っても積もることは滅多にないが、かき氷にかけた練乳のように、富士の黒い山肌に白い雪が広がっている。シャーロックは目を輝かせて富士山へと顔を向けていたが、すれ違った車体が風が唸るような音を響かせ、車窓の景色を遮った。そしてシャロ達を乗せた車体はトンネルへと突入し、真っ暗な窓に車内の様子が反射する。 石流の正面には二十里が陣取っていた。その隣の窓際には眼帯の女生徒が座っており、彼女が広げた雑誌を見下ろしながら二十里は紙面を指さし、その女生徒と談笑している。 二十里は黄緑色のジャケットと白いパンツ、紫のネクタイといういつもの出で立ちだったが、素肌に直接ジャケットを羽織るのではなく、薄い桃色のYシャツを身につけていた。一方、石流はいつもの用務員姿ではなく、深緑のタートルネックにベージュのパンツを履き、同色のジャケットを羽織っている。長めの黒髪はいつものように後頭部でひとまとめに結んでいた。二十里と比べると遙かに地味な格好にも関わらず、私服姿が物珍しいせいか、多くの女生徒たちの視線を集めている。 シャーロックが顔を正面へと戻すと、ネロは手にしたうまうま棒を食べ終わったらしく、帽子から新たなお菓子を取り出していた。両手の中にすっぽり収まる小袋には、商品名とじゃがいもがデフォルメ化された絵がでかでかと描かれている。ネロは手早く袋を破くと、ポテトチップスを口へと放り込んだ。 「お前、どれだけお菓子持ってきてるんだよ……」 「なんだよ、悪い?」 隣で呆れた眼差しを送る根津に、ネロは唇を尖らせている。 「弁当が喰えなくなってもしらねーぞ」 「おやつとお昼は別腹ですぅ」 根津の言葉を鼻先でふふんと笑い、やがて彼女は小さく首を傾げた。 「なに? もしかして欲しいの?」 「え? いや、別にそんなつもりじゃねーし」 根津は戸惑い混じりに否定したが、ネロは気にした風でもなく、根津へポテトチップスの小袋を差し出した。 「しょうがないなぁ、特別だぞ」 「え? お、おう」 根津は暫し迷った後、差し出された小袋へ遠慮がちに手を伸ばした。中から一枚だけ摘み取り、口へと放り込む。もぐもぐと口を動かすと、眉をひそめた。 「……なんか納豆みたいな変な味がするんだけど」 「納豆バター味だからね」 にぱっと満面の笑みをこぼすネロに、根津はうぐっと声を詰まらせた。そして口の中のものを急いで呑み込むと、声を荒らげる。 「そんな変なもん喰わせるなよ!」 「なんだよ、期間限定なレアものなんだぞー!」 声を荒らげ始めた二人に、コーデリアは深く息を吐いた。 「もう、ネロったら……」 「二人とも、喧嘩はダメですー」 シャロが仲裁に入ったものの、ネロと根津は教室のようにぎゃあぎゃあと口論を始めた。エルキュールも文庫本から顔を上げ、か細い声でネロをたしなめているが、まるで効果がない。シャーロックが隣のアンリエットに目を向けると、彼女は苦笑しつつも、微笑ましげに二人を見つめていた。しかしその小さな唇を開きかけた時、石流の淡々とした声音が割って入ってくる。 「お前達は新幹線の中で静かにすることもできないのか」 シャーロックが通路側へと目を向けると、石流は手にした文庫から顔を上げ、冷ややかな目を根津とネロへと向けている。 「だってコイツが……ッ」 「根津のせいですぅ」 二人は不満げに頬を膨らませていたが、石流が無言で一瞥すると、頬を膨らませたままそっぽを向いた。 「僕ら以外居ないんだから、別にいいじゃんっ」 「良いわけないだろう」 言い訳がましくネロがこぼすと、石流が軽く息を吐く。 「でも、譲崎さんがお菓子をあげるなんて珍しいんじゃない?」 「言われてみれば……」 石流の肩先から覗き込むような恰好で赤縁眼鏡の女生徒が笑みを浮かべると、正面に腰掛けた眼帯の女生徒は、同意するように小さく頷いた。 「なんだよ、僕だってたまにはそれくらいの事はするよ?」 クラスメイトの言動に心外だと言わんばかりに、ネロは彼女たちの方へと身を乗り出し、唇を尖らせている。 「嫌がらせの間違いだろ……」 根津がそっぽを向いたまま、ぼそりと小声で呟いた。 「だいたいさー、何で僕の隣が根津なのさ」 「仕方ねぇだろ、クジでそうなったんだから」 不満げに頬を膨らませるネロに、根津は小さく溜め息を吐き出している。 「てっきり、私達で四人掛けの席になると思っていたのだけれど……」 「それはほら、まぁ色々あってね?」 コーデリアが僅かに首を傾げると、二十里は目を細め、唇の両端を持ち上げた。 「色々って何ですかー?」 シャーロックが尋ねると、二十里は「色々でぇす!」とテンション高く前髪を片手で払っている。 新幹線での座席や旅館での部屋割りは、三日前のくじ引きで決定されていた。といっても、他の生徒達と違ってシャーロック達は四人で一組扱いになっており、その代表としてシャーロックがくじを引いたに過ぎない。そしてくじの結果を元にアンリエットと二十里が調整し、新幹線の座席や旅館での部屋割りが決められていた。 「でもこの車両、どうして他に乗客がいないんでしょう?」 シャロが大きく首を傾げると、コーデリア達もつられたように車内を見渡した。新幹線の前方にある指定席車両だったが、その中央の二列分をホームズ探偵学院の生徒達が陣取る格好となり、その両端は扉までまるまる空席となっている。 |