ミルキィホームズの冒険 仮面だらけの古都
 

 幕間





「暑いわねぇ」
 うんざりした面もちで、母は俺の横で水色の棒アイスをかじった。
「良いんですか、母さん」
「何が?」
「その……そういうの、食べて」
 俺は母の持つアイスに目をやり、それから丸く膨らんだ腹部へと視線を移した。
「一個くらいなら大丈夫だって」
 俺の視線を辿った母が小さな笑みをこぼし、片手を軽く横に振っている。
「こんなに暑いと、何にも食べる気が起きなくなっちゃうし」
 それはそれでまずいのよね、と母はぼやいた。
「アイスって、お腹の子に悪いの?」
 俺の隣に腰掛けた初音が、四角い棒アイスを手に小首を傾げている。その小さな口の周りに白の液体が付き、顎へと垂れそうになっているのを見つけて、横に座った始が、ズボンのポケットからティッシュを取り出した。「こっち向いてみ?」と声を掛け、口の周りをそっと拭ってやっている。
「ちょっとだけだから、平気よ」
「そろそろ、でしたっけ?」
 母の隣に腰を下ろした澪が、緊張した面もちで尋ねた。
「ええ、だから来週から病院」
 その間うちの子を宜しくね、と笑みを返す母に、澪はこくりと頷いている。そして手にした四角いバニラの棒アイスを口元へと運んだ。
 しゃくしゃくと、母がアイスをかじる音が耳に入る。
 暦の上では九月も中程を過ぎようとしていたが、照りつける陽射しは未だ夏休みの頃と同じで、じりじりと肌を焦がしていた。少し歩き回っただけで汗が噴き出し、地面には色濃い影が伸びている。
 天を仰げば、雲一つなく広がる青空の下に、四方を囲む山々の蒼があった。山裾には民家が並び、その下の平地には田畑が広がっている。そして田園の間を縫うように野流があった。川幅は四メートル程度しかないが、八瀬の谷間を抜けると、やがては鴨川へと流れ込んでいく。
 土手に腰を下ろしていると、草特有の青々とした臭いが鼻についた。けれど、川瀬の冷気を拾った風が頬や腕を撫で、少しだけ心地良い。
 まだまだ夏が終わる気配は感じられなかった。
 けれど斜めに伸びた対岸には、紅の線のような花が咲き乱れていた。遠くから眺めれば、川の流れに沿って、紅の絨毯を敷いているようにも見える。
 猛暑であろうが冷夏であろうが、毎年必ず秋の彼岸に花開く。母からは、正しくは曼珠沙華という名だと教わったが、その母を始め、周囲の大人達は彼岸花としか呼んでいない。
 俺は、手にした棒アイスをかじった。棒に張り付いた最後のひとかけらを歯でくわえ、咀嚼すると、さっぱりとしたソーダの味が舌の上で溶けていく。
 俺はそれを飲み下すと、胸ポケットに入れていた空のアイスの袋を取り出した。その中に木製の棒を入れ、隣へと目をやる。初音と始も食べ終わったようで、初音は手にしたアイスの棒を、手持ちぶさた気に小さく振っていた。俺がアイスの袋を差し出すと、初音は「有り難う」と笑って、袋の中に棒を入れた。始も「サンキュ」と呟きながら、その中に自分の棒を入れている。
 初音の口周りに溶けたバニラアイスがこびり付いているのを見て取って、俺は始が手にしたままのティッシュを受け取り、その口元を拭った。そして汚れたティッシュを、袋の中へと押し込む。
 反対側に座った母と澪へと体を向けると、二人の手にはまだアイスが残っていた。澪はアイスの棒を片手に、母のお腹をそっと撫でている。
 俺は袋の口を軽く押さえ、再び胸元のポケットへと仕舞った。そして、対岸の土手へと視線を移した。
 熱の籠もった緩やかな風が吹き抜けると、紅の花が小さく揺れている。
「トイズ、それは……えっと、選ばれし者の……心の奇跡?」
 道場で習ったばかりなのか、初音が小さな指を折りながら、俺たちが物心ついた頃に叩き込まれたフレーズを口にした。
「選ばれし者の心に膨らむ、奇跡の蕾」
 俺が補足すると、初音は嬉しそうに笑っている。
「選ばれし者の、心に膨らむ奇跡のつぼみー!」
「懐かしいわねぇ、それ」
 現役だった頃を思い出すのか、しみじみと呟く母に、初音は勢い良く片手を上げた。
「来年は一年生になるから、今から覚えるの」
 そして、屈託のない笑みを浮かべた。
 次の春になれば、初音は俺たちと同じ小学校に通うことになる。その翌年には俺たちは卒業してしまうが、それでも一緒に通えるようになるのが嬉しいのか、初音は俺の左腕に抱きついてくる。
 母は木製の棒をゆっくりと唇から離すと、アイスの無くなった棒を片手で摘み、初音の方へと顔を向けた。
「大探偵時代はね、おばさん達より上の世代、つまり貴方達のお爺様達が築いたものなのよ」
 今ではトイズの存在は当たり前になっているが、かつてトイズが認識され始めたばかりの頃、世界は混沌に満ちていたという。だが、それはほんの半世紀と少し前の事でしかない。
 その混沌を助長したのは、トイズを持つ者こそが世界を統べるべきと主張し、実際に行動した天才だった。だが、その思想を良しとしない探偵と怪盗たちが現れ、その野望を打ち破ったという。その怪盗の中には、俺の祖父もいたらしい。
「破壊と混乱に満ちた中で、探偵と怪盗、そして警察が力を合わせて勝ち取った秩序なの」
 そしてその秩序を守る為に、探偵と怪盗が作った組織が今のIDO(国際探偵機関)なのだという。
 しかし初音は、母の説明に大きな目をぱちくりと瞬かせ、小さく首を傾げた。
「あ、まだちょっと難しいか」
 きょとんとしている初音に、母は笑った。そして、そのうち習うんじゃないかしら、と言葉を続ける。
 その様子を静かに見つめていた澪は、紅梅色の瞳を煌めかせると、食べ終わったアイスの棒をタクトのように振った。すると川面から細い水柱が飛び出し、蛇のように細い紐状となった水が、くるくると宙を舞っていく。
 その様に、初音は手を叩いて喜んだ。そして同様に亜麻色の瞳を煌めかせると、足下にあった初音の黒影がするりと伸びていく。伸びた黒影は、澪の操る水へと覆い被さった。そして掌のような形となり、蛇のように細く伸びた水を掴もうとしたが、宙を切って川面を叩く。
 そこから飛び散った水滴が宙に集まり、水の蛇に吸収された。それは宙で形を変え、今度は鳥の姿となる。カラス程の大きさになった水の鳥は、川の上で大きく羽ばたいた。すると次の瞬間には対岸から彼岸花が数本伸び、水の鳥は宙に出現した緑の籠に閉じこめられている。
 横を見ると、始の瞳が煌めいていた。俺の視線に気付くと、唇の端を小さく持ち上げている。
 澪が小さくアイスの棒を振ると、水の鳥は籠をすり抜けると同時に形を崩し、水となって川面へと落下した。ばしゃばしゃと小さな音を立て、水滴をまき散らしている。一方で籠状になっていた彼岸花は、するすると縮こまって対岸へと戻った。
 不意に隣から視線を感じ、俺が母へと首を向けると、母は目元を少し緩め、微笑を浮かべている。
「ユキもあんなトイズが良かった?」
「そういう、わけでは……」
 柔らかな声音に口ごもり、俺は川面へと目を移した。
 俺は、自分のトイズに特別な感情は抱いていなかった。
 せいぜい、もっと戦闘が有利になるか、便利になるような能力が良かったな、という程度でしかなかった。
 だが、地下深く隠された社でトイズを使うよう祖父に命じられた時、自分の力がどういった結果をもたらすのか、そして何の為に存在するのかを理解し、その危険性を自覚した。
 俺のトイズは、使い方次第で相手の「時」を奪う。
 もし悪用すれば、命を奪う事よりも残酷な結果になるだろう。
 だから俺は、己の弱さに負けぬよう、そして他者の蛮行に屈せぬよう、強くならなければならない。

 ーー闇は、全てを静寂に包む褥(しとね)。

 瞼を閉じると、鉄琴のように涼やかに透き通り、木琴のように軽やかで柔らかな声音を思い出した。
 その声の主は、陽の光が決して届かない社の中で、白の水干と紅の長袴を身に纏って、俺を待っていた。そして俺を視認すると、細い眉を微かに寄せ、唇の端に微笑を浮かべた。

 ーー思ひつつ、寝ればや人の見えつらむ、夢と知りせばさめざらましを。

 紅が塗られた小さな唇から、優しげな声が放たれる。
 けれど、俺には笑っているようでいながら、泣いているようにも見えた。
 その表情と声音が、未だに耳に残って離れない。
 俺は目を開けると、陽の光を反射して煌めく水面を見つめた。そして、膝の上に置いた拳を強く握りしめる。
 今でこそ、始と澪も笑ってトイズを駆使しているが、二人は俺を助けたせいで、大人達が想定していた以上の力を有している事が露見した。その為か、俺と二人きりでいるとき、親がなんだかよそよそしいと始が打ち明けてきたことがある。一方澪の方は、化け物だと道場の先輩に陰口を叩かれたと涙をこぼした。そういう時、俺は母や父が俺にしてくれたように、二人をそれぞれ抱きしめた。そのトイズは呪われた力ではなく、誰かを助けることが出来る美しいものなのだと囁く。
 だが二人と違って、俺の力は、きっと誰かを助けることも出来ないし、幸せにすることも出来ないのだろう。
 それでも、俺は変に悲観したり絶望したりはしていなかった。どういう能力を持つかではなく、それをどう使うべきかを考えるようになった。そう思えるようになったのは多分、母や父のお陰なのだろう。
 呪われた一族の証である「封印」のトイズを持つ子。
 故に、一族の長になるべき者。
 それが最近把握した、周囲の大人達が俺に寄せる期待と評価だった。
「私はユキのトイズ、好きだよ」
 耳に飛び込んできた凛とした声音に、俺は顔を上げた。
 澪の方へ目を向けると、澪は目を軽く細め、唇の両端を大きく持ち上げて微笑んでいる。
「あたしも、カオルちゃん大好き!」
 初音も大きく頷いた。そして膝を地面につけると、小さな両手を首へと回し、中腰になって俺に抱きついた。
「あ、二人ともずるいなぁ。俺だって好きなのに」
 始は拗ねるように唇を尖らせ、初音の背後から俺に抱きついた。俺と始に挟まれて苦しいらしく、初音が頬を膨らませて抗議の声を上げている。それがなんだかおかしくて、俺は小さく笑ってしまった。
 初音も始も、そして澪も小さな笑い声をこぼしている。
「トイズはね、人間という種から生まれる奇跡の花なの」
 母は食べ終わったアイスの棒で、川辺に咲き乱れる紅の花を指し示した。
「だからトイズは、あの彼岸花と同じ」
 彼岸花は根に毒を持っているが、水にさらすなどきちんとした手順を踏めば、毒素が消えるのだと母は説明した。その為、飢饉の際は救荒植物として、大勢の人々を助けてきたらしい。その一方で、彼岸花はその毒があるからこそ、田圃や墓場を荒らすモグラや獣から守る為に、その周囲に植えられたのだという。
「毒の花にするか清浄の花にするかは、貴方達次第なのよ」
 母は俺たちの方を見て、小さく笑った。
「それにね、花にも色々あるでしょう?」
 そして再び、対岸の彼岸花へと目を移す。
「あの彼岸花のように川辺を彩る花、野山の厳しい自然の中でひっそりと咲き誇る花、庭に咲いて大事に育てられる花、花瓶に生けられて愛でられる花……」
 手にしたアイスの棒を小さく振りながら、歌うように例を挙げていく。
「貴方達は大人になったら、どんな花を咲かせるのかしらねぇ」
 母は俺たちの方へ首を向けると、唇の両端を軽く持ち上げた。
「あたしは桜がいい。パパのバッチと同じだもん!」
 初音が目を輝かせて、両手を挙げた。その隣では始が思案するように腕を組み、片手を顎へとやっている。
「じゃぁ俺は向日葵かな。育てやすいし、派手だし」
「え、そういう基準なの?」
 小さく首を傾げる始に、澪は呆れた眼差しを向けている。
 母は皆を見渡すと、柔らかな笑みを浮かべた。そして丸い腹部へそっと片手を載せる。
 俺は、眦を細める母の横顔から、対岸に咲き並ぶ彼岸花へと目を移した。
 土手を覆う背の低い草が軽風に吹かれると、彼岸花も茎ごと小さく揺れている。
 必要とする人には重宝されても、不吉なものの象徴として忌み嫌われる真紅の華。
 それは俺が授かった力に、とても似ているような気がした。




 トイズーーそれは選ばれし者の心に膨らむ奇跡の蕾。
 ある者は清浄の花を咲かせ、ある者は毒の花を咲かせる。
 大探偵時代、美しさを競い合う二つの花。
 その名を、怪盗と探偵と言ったーー。






ほーむ
ほーむ
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