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「小野小町は、天皇の更衣だったらしい。更衣、というのは常に天皇の身近に仕えて、身の回りの世話をする女性達の総称だ。そしてその仕えていた天皇が亡くなれば「更衣田」という永代の所領としての田畑を拝領でき、一生平穏に暮らせるはずだった。ところが小町に関しては「更衣田」を貰うこともできずに、一方的に宮廷を追い出された」 「どこか遠い土地で行き倒れたという話や、老婆になって物乞いする話など、聞いたことがあります……」 エルキュールが小声で返すと、石流は眉間に深く皺を寄せた。 「では何故、そんな目に逢ったか……ということになるが、お前は「深草少将百夜通い」という物語を知っているか」 エルキュールは伏せ目がちのまま、小さく頷いた。 「確か、小町に恋をした深草の少将が、百夜通えば望みを叶えると小町に言われて……毎晩山深い道を通ったけれども、九十九夜めにしてついに亡くなってしまった、という話ですよね……?」 「そうだ。その伝承は、小町を薄情で傲慢な女として描いているが、この深草の少将というのは、実は「深草の帝」を指しているという説がある」 「深草の帝?」 首を傾げるコーデリアに、石流は端的に答えた。 「仁明天皇のことだ」 古今和歌集の詞書に、仁明天皇の事を「深草の帝」と表現している箇所が幾つかあると、石流は指摘した。実際、仁明天皇の陵墓がある地名に由来して、その通称があるという。 石流の解説に、エルキュールは息を呑んだ。もしそうだとすると、小町と仁明天皇の間に、何らかの愛情関係があったこととなる。 一方、隣のネロは背後の根津へと振り返り、「仁明天皇って誰?」と小声で尋ねていた。端末で検索した根津が、その画面をネロに見せ、ひそひそと話している。 「え……でも、仮に深草の少将がそうだとしても、小町はその少将を冷たく振ってしまったんでしょう?」 エルキュールが眉を八の字に寄せると、石流は切れ長の眼差しを返した。 「それも表向きの話だ。ここでこういう事実がありました、といっているわけではない。百夜通うという労力も惜しまないほどにその男性は小町を想っていたけれど、最終的にその恋は実らずに終わってしまった、ということを伝えたかったのではないだろうか」 石流は一呼吸置くと、言葉を続けた。 「そしてここで小町の想う人が仁明天皇だとすると、最初のあの二首は、また違った意味を持ってくる」 そう告げると、石流は黒板へと目を向けた。それに釣られるように、エルキュールも黒板へと顔を向ける。 そこには、石流が例で出した小野小町の歌が記されたままになっていた。最初のあの二首とは、 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものは たのみそめてき のことだろう。 「一つ目の歌は、「あの人のことを恋しく思いながら寝たので、あの人が夢に出てきたのだろうか。夢だと知っていれば、目を覚まさずにいただろうに」という意味だ。そして二つ目の歌は、「うたた寝に恋しいあの人を夢に見てからは、夢というものをあてにするようになった」という意味になる」 石流は黒板へ目を向けたまま、淀むことなく解説した。 「これらは一般的に、素直で純情な女性の心理を、単にそのまま吐露したものだと考えられている」 「……違うんですか?」 エルキュールが小さく首を傾げると、石流は軽く眉を寄せた。 「ここで小町は、相手の男性、おそらくは仁明天皇が、いつも私の夢の中に出てこられる、と言っていることになる」 「それが、何か……?」 どこに問題があるのか、エルキュールには分からない。 「もちろんこの歌は、小町もそれほどに天皇を愛していたという一つの証明にはなる。だがもっと重要な点は、この当時は、相手のことを「想っている」者が「想われている」者の夢の中に現れる、と考えられていたことだ」 「想っている人が……想われている人の……?」 今とは違う発想に、エルキュールは戸惑った。おそらく俗信的な意味で、当時はそう信じられていたのだろう。 「つまり小町は、天皇やその周りの人々に向かって、「私は言うまでもなく貴方をお慕い申しております。しかしその気持ちと同じほど、貴方は私を想っておいでなのですね。その証拠に、毎晩のように私の夢の中に出ておいでですもの」と語りかけていることになる」 当時、和歌は一人ではなく、大勢が集う歌会で詠むのが常だった。だからこそ、しっかりと記録に残っている。つまり皆の前でそう詠ったということは、二人の関係を公言したようなものなのだろう。 「それを踏まえて、小町にはもう一つ有名な伝説がある。それが、龍神伝説だ」 「龍神伝説?」 話の矛先を急に変えた石流に、エルキュールは反射的に尋ね返した。 百人一首の札で見るような小野小町と、おどろおどろしい龍の姿がなかなか結びつかない。きょとんとしていると、石流は唇の端に小さな笑みをこぼした。 「仁明天皇の雨乞いの宣旨を受けた時、小町は、 千早振る神の見まさば立ち騒ぎ 天の戸川の樋口あけ給へ という和歌を以て答えて、見事に雨を降らせたという実績がある。つまり立派な「言霊使い」だ。そこから「雨乞小町」とか「龍神の生まれ変わり」などと呼ばれるようになっていった」 普段無口な石流にしては、珍しく饒舌だった。 「この雨乞いというのは、大変に重要な意味を持っている。天皇の為すべき第一の仕事というのは、民と国の安泰だ。これはとりも直さず、怨霊たちが引き起こす天変地異や疫病から、人々を護ることだ。だから雨乞いなどは、仏教、神道と宗旨の違いの枠を越えてまで行われた。ところがその重要な仕事に、小町は天皇自らに指名され、そして大成功を収めた。つまり小町の歌の威力は、鬼神をも動かしたということになる」 エルキュールは、百人一首の中では小野小町や在原業平の歌が好きだったが、初めて耳にする伝説に目を丸くした。 「つまり、小町の歌は……現実に起きると信じられていた……?」 言霊がふつうに信じられていた時代であれば、そう認識されたとしてもおかしくはないだろう。 エルキュールが口にした言葉に、石流は微かに頷いた。 「一方、天皇の跡継ぎを巡って、小町は在原業平たちと共に藤原氏と対立していた。勝利したのは藤原氏だったが、敵対していた藤原氏にしてみれば、小町は言霊の力があるのだから、恐ろしくて宮中に置いたままにはできなかったはずだ」 「それで……追放されたんですか……?」 「そうだ」 石流は断言した。 「そして小町が幸薄い女性であったという裏付けが、古今集の仮名序に書かれている」 石流は、エルキュールの手元にある文庫本に目を向けた。 「「小野小町は、古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて強からず」だ」 その言葉に、エルキュールは慌てて文庫本を手に取った。「仮名序」なのだから最初の方だろうと検討をつけ、ページをめくっていく。何度か前後しながら、ようやく該当するページを探り当て、現代語訳されている方に目を通した。「衣通姫」というのは初めて目にする人名だったが、原文の横に小さな数字が振られていたことから、下にある注釈へと目を落とす。 そこには簡単に、日本書紀では允恭天皇の皇后・忍坂大中姫の妹であり、衣を通して肌が光り輝くほどの美女であった、と書かれていた。そして、姉の嫉妬で帝との仲を遠ざけられた、ともある。 石流は、エルキュールが目にしている解説と一言一句違えることなく口にすると、さらに補足を加えた。 「古事記では、衣通姫は軽大郎女の別称であるとされている。軽大郎女というのは、同母兄である木梨軽皇子を愛してしまったために、流罪に処せられて亡くなった人だ。そして、流された木梨軽皇子を追いかけて、そこで一緒に死んだという伝説もある」 日本最初の心中事件だと、石流は説明した。 つまりどちらにしろ、帝や皇子に愛されてはいたものの結ばれなかった、ということになる。 エルキュールが文庫本から目を上げると、石流は目元を僅かに緩めた。 「ちなみに仮名序には触れられていないが、後ろの方に載っている真名序には、「風流は野宰相のごとく」と、風流を解する人として小野篁の名が挙げられている」 後でじっくり読んでみるといいと告げる石流に、エルキュールはこくりと頷いた。けれど待ちきれず、手にした文庫本の目次を開いてみると、石流が話した「真名序」は巻末の方に掲載されている。ページを開き、ぱらぱらとめくってみると、該当箇所はその文章の後ろの方にあった。下の欄にある補足をみると、風流の「風」は、超俗的な何物にもとらわれない生き方のことだと解説されている。 「野狂」と評された小野篁と、「強からず」と評された小野小町では、まさに対比的だとエルキュールは感じた。だが、小町はその篁の血を引いている。小町の歌からは女性特有の繊細さを感じるが、いくら言霊の力が恐れられたとはいえ、宮廷を追い出される程だったのだがら、きっとか弱いだけの女性ではなかったのだろう。 エルキュールは小さく吐息を漏らし、そっと文庫本を閉じた。 表紙に目を注ぐと、描かれた十二単の女性は後ろ向きで、長い黒髪は着物の裾からこぼれている。百人一首カルタの小野小町も同じように後ろ姿で描かれていた事を思い出し、エルキュールは表紙をめくって、カバー袖へと視線を落とした。そこには小さな文字で、「佐竹本三十六歌仙絵巻断簡・小野小町」と記されている。 エルキュールは軽く目を見開き、そっと石流を伺った。石流は、机に頬杖をついてだらけた姿勢をとるネロに呆れた眼差しを向け、軽口を叩くネロに短く返している。 石流が小野小町の歌を例にしたのは内心不思議だったが、文庫本の表紙を踏まえての事だったのだと思い至り、エルキュールは一人納得した。 「でさ、百人一首が呪いの歌集ってのは?」 解説がひと段落ついたのを見て取って、ネロは気だるげな視線を石流へと向けた。 |
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