「それで、何が訊きたい」 石流はカップを唇から離すと、エルキュールへと目を向けた。急に視線がぶつかり、エルキュールは慌てて目を伏せる。 「古今和歌集の歌が一つにつながるとか、百人一首が呪いの歌集とか言ってたって話だよ」 ネロが横目で石流を伺うと、エルキュールへと顔を向けた。だよね、と確認するように小首を傾げるネロに、エルキュールは小さく頷き返す。 「ではまず、古今集から説明する」 カップを机上の盆の上に置き、石流が軽く息を吐き出すと、アンリエットが柔らかな笑みをこぼした。 「あら、教壇に立たないんですか?」 その言葉に、石流は困ったように眉を寄せ、アンリエットを見つめ返した。 「今だけ君に譲ってあげるよぉ?」 カップを手に自分の席へと戻った二十里は、ニヤニヤと笑みを浮かべて石流を見つめている。石流は二十里をへい睨したが、すぐに目をそらせた。 「古今集や新古今集の歌は、全てというわけではないが、一つ一つが次の歌に繋がっていくように並べられている」 石流は組んだ足を戻すと、ゆっくりと唇を開いた。 「例えば……そうだな」 そして静かに立ち上がると、教壇へと足を向けた。白のチョークを手に取り、皆に背を向けたまま言葉を続けていく。 「巻第十二・恋歌二の一首目は、小野小町のこの歌だったはずだ」 そして黒板にすらすらと、 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを と書き綴った。 エルキュールは机上に置いた文庫本を開き、石流が口にした巻名を目次で探し、急いでめくった。照らし合わせると、一言一句そのままに黒板に記されている。 石流は白のチョークから黄色のチョークに持ち替えると、「寝」「人」「見え」「夢」に横線を入れた。そして朗々とした声を響かせた。 「二首目も同じく、小野小町のこの歌」 淡々と続けながら再び白のチョークを手に取り、黒板へと和歌を書き綴っていく。 うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき それから黄色のチョークで、「寝」「人」「見て」「夢」に横線を入れた。次に青のチョークを手に取り、「恋しき」を四角で囲っていく。 「三首目も、同じく小野小町の歌だ」 石流は手にした青のチョークを置くと、白のチョークを再び手にとって、 いとせめて恋しき時はむばたまの 夜の衣を返してぞ着る と書き綴った。そして青のチョークで「恋しき」を四角く囲む。 「このように、前後の歌が「人」や「恋しき」など、幾つかの言葉で繋がっている」 石流の説明に耳を傾けながら、端末と黒板に記された和歌を見比べていた根津は、小さな声を漏らした。 「あ、ホントだ」 「スゴいです……!」 シャーロックは興奮した面もちで、目を輝かせている。 石流は、この後も「夜」や「袖」などの言葉で延々と繋がっていくのだと説明した。 「それだけでなく、歌に読まれている情景や言葉に合わせ、一年の景色の移り変わりに沿って歌が並べられている」 石流はチョークを置くと、小さく息を吐いた。そして先程まで座っていた席へと足早に戻り、腰を下ろす。 あくまで教壇に立つ気はないらしい。 取り繕うようにカップを持ち上げ、無表情のまま唇へと運ぶ石流を伺いながら、エルキュールは密かに舌を巻いた。 用務員兼コックという仕事柄のせいもあって、とても文学に精通しているようには見えなかった。だが、小野小町の歌を一言一句間違えずに口にするどころか、古今和歌集のどこに掲載されているかまで把握している。 皆もそれは同様だったようで、感心したような眼差しを石流へと向けていた。しかし、石流は気まずそうに眉を寄せ、カップに視線を落としている。 「でも、どうしてわざわざ、こんな手の込んだ作りになっているんですか?」 コーデリアが素朴な疑問を口にすると、石流は手にしたカップを机上の盆へと戻した。 「簡潔にいえば、言霊信仰だ」 そして身体の向きをずらし、椅子に横向きに座るような格好を取る。 その挙動に、エルキュールは身体を少しずらし、石流の方へと向いた。ブー太もカップを両手で持った姿勢で、石流へと顔を向けている。根津は通路側に投げ出すように足を組み、アンリエットは僅かに椅子をずらして石流の方を向いていた。その一方で、ネロは気だるげに机に頬杖をついている。コーデリアは両手を膝の上に載せて背筋を伸ばし、シャーロックは膝上で眠るかまぼこを撫でながら、好奇心に満ちた眼差しを石流へと向けていた。 「昔は、口に出した言葉そのものに力が宿ると考えられた。それを言霊信仰という」 石流は、淡々とした口調で説明を続けた。 「言霊というのは、口に出した、つまり一度言葉にしてしまうと、それが現実に起こってしまうだろうという思想のことだ。つまり言葉という「呪」だな。だから当時の人々は、余程のことがない限り、悲惨な歌など詠むことはなかった」 「呪って?」 根津が首を傾げると、石流は彼の方へと目を向けた。 「人間の体の中には、外部から侵入して来る「非自己」から自分を護るための「自己」がある。他人の言葉は「非自己」だ。それを「自己」が、同化するなり消化するなりして有効利用できれば、何の問題もない。しかし、相手の言葉が自分の許容範囲を越えていたり「自己」をうまく騙して増殖してしまったりすると、脳はあっさりと麻痺して思考を止めるか、もしくは単純な一定方向にしか物事を考えられなくなってしまう。その、硬直させたり縛り付けたりするような言葉をわざと人に投げ掛けるというのが「呪」だ」 「ちょ、ちょっと待って!」 ネロが両手で軽く机を叩き、喚くように遮った。 「長い! 長すぎるよ!」 「難しくて分かんないです。ヨコハマ語でお願いします」 シャーロックは目を白黒させて、抗議の声を挙げている。コーデリアは既に考えることを放棄したようで、曖昧な笑みを浮かべていた。一方エルキュールも、石流の言わんとしている事を理解しようと努めてはいたが、目に浮かぶクエスチョンマークを隠すことができない。 「お前らさぁ……」 根津が呆れた表情を浮かべ、前列のミルキィホームズを見渡している。 「いや、でもあれじゃミルキィホームズには無理でしょ」 二十里は小さく舌を出し、肩をすくめた。 「そうだな……」 石流自身も難しい言い回しをしていた自覚はあったらしく、二十里の言葉に小さく頷いた。そしてゆっくりと唇を開く。 「お前たち、仮宿舎近くの池の伝承を知っているか」 「いつもお昼を食べている、あの池ですか?」 「そうだ」 シャーロックが尋ね返すと、石流は小さく頷いた。 「昔、ある武家屋敷で働いていた男が、主人が殿様から頂いた大事な皿をうっかり割ってしまった。それがばれたらクビになるどころか、責任を取って自分が殺されかねない。その為、その罪を別の女に擦り付けた」 「わぁ、ヒドい話だなぁ」 ネロが眉を潜め、口を挟んだ。 「当然女の方は身に覚えがないから、知らないとしか答えようがない。しかしそれを潔くないと受け取った主はさらに怒り、その女を殺してしまった。そしてその遺体を、屋敷の近くにあった池に投げ込んで捨てた。それがあの池だ」 石流は、切れ長の瞳を僅かに細めた。 「それ以来、屋敷では夜になると、池から女のすすり泣きが聞こえてくるようになった。屋敷の者は不気味に思っていたが、数日後、女に罪を擦り付けた男が池に浮かんでいるのが発見された。それから徐々に屋敷の者がその池で溺れ死ぬようになり、ついに一ヶ月後には、主人も池で亡くなった。それ以来、女のすすり泣く声に誘われて池に近寄ったものは、女の亡霊に引き連れ込まれて溺れ死ぬと噂されるようになった」 普段何気なく近寄っている池にそのような謂われがあることを初めて知り、エルキュールは身を竦ませた。コーデリアは叫び出す一歩手前にまで頬をひきつらせ、ネロは興味津々といった面もちで石流を見上げている。シャーロックは固唾を呑み、次の言葉を待っているようだった。 「最近でも、ここに探偵学院ができる前に肝試しに来た大学生四人組が、女のすすり泣く声を聞いたという。現に私も見回り中、それらしき声を耳にした事がある」 抑揚の乏しい声音にも関わらず、エルキュールは背筋に冷たいものを感じた。隣では、コーデリアが短く息を呑んでいる。 「ほ、本当なんですか……?」 恐る恐る尋ねると、石流は無表情にエルキュールを見返した。 「嘘だ」 「え?」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「全部嘘だ。たった今、私が考えた」 その言葉に、ミルキィホームズだけでなく、アンリエットや二十里、根津やブー太も目を丸くしている。 「だ、騙したのかよ?!」 「からかうなんて酷いわ!」 「そーだそーだ!」 「別にからかったわけではない」 声を荒らげる根津とコーデリア、そしてネロに、石流は真剣な眼差しを向けた。 「これが「呪」だ。今までの私の話を全てひっくるめて「呪」と言う」 その言葉に、皆が黙り込む。石流は皆を見渡すと、再び説明を続けた。 「それが事実だろうが全くのデタラメだろうが、関係ない。これで私がお前達に種明かしをしなければ、「呪」は成立する。あの話だけで、もうお前達は無意識に、あの池に近寄れなくなっただろう?」 石流は、小さく吐息を漏らした。 「そしてある日、あの池の側を通って「そう言えば、この池は呪われていた」という情報が浮かぶ。その時に足を滑らせたりすれば、見事に「学校の怪談」の完成だな」 石流は、唇の片端を皮肉げに小さく持ち上げた。 「もともと「呪」というのは「言葉」のこと、つまり言霊だ。言葉を媒介として、自らの怨念を、相手の脳にインプットする手段だ」 そして腕を組み、思案するように眉を寄せた。 「このように言葉を介して相手を操るトイズを持つ探偵が、かつていた」 石流の指摘に、アンリエットが口を挟む。 「今のヨコハマ市長ですわね」 「そうなんですか?」 首を傾げるシャーロックに、二十里が呆れた面もちを浮かべた。 「前に、近代探偵史でやったんだけど」 そして机に両手をつき、シャーロックへ身を乗り出した。 「偉大な探偵と称えられたものの怪我をきっかけに引退、そのまま政界に転身してヨコハマを偵都と呼ばれるまでに発展させた現市長の名は?」 「え、えっと……習いましたっけ……?」 鋭い眼差しで問いつめる二十里に、シャーロックは目をそらせた。コーデリアは小さく首を傾げ、エルキュールは俯き、ネロは降参するように肩をすくめている。 アンリエットは額に手を当て、深い溜め息を吐いた。 「習う以前に、市長の名前くらい常識だろ」 けらけらと笑う根津に、シャーロックは大きく眉を寄せている。 「ええっ、でも、元探偵だなんて聞いてないですぅ!」 「君たちィ! 美しいボクの授業を何故覚えていなぁい?!」 二十里は椅子から立ち上がると、頭を抱えて胸元をはだけさせた。その様を冷ややかに見つめながら、石流が口を開く。 「「呪」というと大げさだが、市長のトイズはまさに言霊のトイズといったところだろうな」 そしてカップを手に取ると、唇へと運んだ。一口飲み、カップを盆へと置く。 「それで話を戻すが、小野篁が流罪にされた理由の一つが、まさにこの「呪」にあたる」 石流は小さく息を吐き出すと、首筋へ片手を当てた。 「遣唐使のいざこざで朝廷を中傷したという漢詩には、当時は口にすることすらはばかられた忌み言葉が、ふんだんに使われていたらしい。故に、嵯峨上皇を批判しただけでなく、呪ったと受け取られたわけだ」 実際、篁は上皇を批判した罪で死罪になるところだったが、厳刑されて流罪になったのだと石流は説明した。そして、件の漢詩は当時存在した事実は伝わるが、内容は現存していないと付け加える。 その解説に、エルキュールは僅かに首を捻った。確かに二十里はその事件を説明していたが、その場にはまだ石流は居なかったはずだ。何故知っているのだろうという疑問が一瞬浮かんだが、二十里の朗々とした声が廊下にまで響いていたとしてもおかしくはない。エルキュールは「考えすぎかな」と思い直し、再び石流の説明に耳を傾けた。 「他にも、百人一首を編纂したという藤原定家が、後鳥羽上皇に勘当された時に詠んだ歌もそうだ」 有名な歌でも、その歌だけでなく同じ場所で詠まれた他の歌や、その詠まれた状況などを調べると本質が見えてくると、石流は説明した。 「あの……それじゃ、小野小町の歌も……?」 黒板を横目で伺いながらエルキュールが尋ねると、石流は大きく頷いた。 |