「うひゃー、中も寒いなぁ」 駆け込むように教室に足を踏み入れたネロが、胸元で両手を組み合わせ、腕をさすっている。 教師である二十里が一緒だとはいえ、私服で夜の教室に入るというのはどこか妙な感じだった。授業ではないからどこに座ってもいいのだろうが、なんとなく、昼間と同じ席に腰を下ろしていく。 エルキュールが教壇前にある自分の席につくと、隣席のコーデリアは椅子を寄せ、エルキュールに身を預けるように左腕を抱きしめた。 「あ、あの……コーデリアさん……?」 「だって寒いんですもの」 「あー、コーデリアだけずるい!」 エルキュールの右隣のネロは、自分の椅子を寄せると、エルキュールの右腕にしがみついた。 「私も混ぜて下さいー」 シャーロックはかまぼこを膝に乗せ、コーデリアの右肩に抱きついている。 「それで根津君、さっきの数字の話なんですけど」 コーデリアに抱きついた姿勢のまま、シャーロックは、ネロの真後ろに座った根津へと顔を向けた。 根津は、抱きついて暖を取り合うミルキィホームズに呆れ返った眼差しを向けていたが、シャーロックの言葉で、半纏の裾から細長い端末を取り出した。両手を動かして画面を操作し、椅子から立ち上がって教壇へと進んでいく。そして白いチョークを手に取り、時折端末へと視線を落としながら、黒板に数字を書いていった。六つの数字を二列に分けて書き込み、根津は上が女からで下が男の返信だと説明する。 「それで最初の335/1111だけは古今和歌集で、後は百人一首ぽいって話だったんだよ」 「何でですか?」 「えっと……古今和歌集は全部で1111首あって、百人一首は100首だから、それぞれ対応する和歌を指しているんじゃないかって」 根津は軽く眉を寄せると、すがるような眼差しを二十里に向けた。だが二十里は小さく肩をすくめるだけで、説明を代行する気がない素振りを見せている。 根津は小さく息を吐くと、言葉を詰まらせながら、放課後にこの教室内で交わされた会話をかいつまんで説明した。時折端末に目を落とし、数字が指すという和歌の解釈も付け加える。 「暗号みたいで、なんだかドキドキします!」 根津の説明が終わると、シャーロックは満面の笑みを浮かべた。 「でもさ、なんで和歌でやりとりしてるのさ?」 まだるっこしいなぁと、ネロは眉をひそめている。 「あら、なんだかロマンティックでいいじゃない」 コーデリアはうっとりとした表情を浮かべた。 「大昔のこの国では、男女のやりとりはこういう風に歌を交えていたんでしょう?」 「でもさぁ、全然恋愛のやりとりに思えないんだけど」 「そんなの俺に言われてもさぁ」 ネロの率直な感想に、根津は困ったように軽く眉を寄せている。 「でも、何か変じゃないですか?」 「変って?」 小首を傾げるシャーロックに、ネロは大きな瞳を瞬かせた。 「なんていうか……これ、そもそも全部同じ相手に向けているんでしょうか」 「どういうこと?」 シャーロックが口にした言葉に、コーデリアとエルキュールも首を傾げている。 「ええと……女が男に宛てているってことですけど、途中でその相手が変わってるってことはありませんか?」 「つまり、最初はAに宛てていたけど、途中でBに変わっているってことか?」 根津が眉を寄せると、シャーロックは小さく頷いた。 「はい。この最後の三つの数字がそうじゃないかなって感じたんですけど」 「でもアンリエット様は、女が男に宛てているとしか説明されなかったからなぁ」 そこは気にしなくていいんじゃねぇの、と根津は気楽な口調で返している。 シャーロックは天井を見上げると、再び首を傾げた。 「あと、どうして最初の和歌だけ、こうきんわっかしゅーなんでしょう?」 「シャロ、それをいうなら古今和歌集……」 エルキュールが訂正するように口を挟んだが、シャーロックはそのまま言葉を続けた。 「だって、他は全部百人一首からじゃないですか。だったら最初から百人一首にすればいいのにって思いません?」 そして、不思議そうな面もちを浮かべている。 「それに、自分の気持ちを歌で言い換えているなら、百しかない百人一首より、もっと数の多いこうきんわっかしゅーの方が、ぴったりしたものがあるんじゃないかなーって思うんですけど……」 そこまで口にして、シャーロックは首を左右に傾げながら、一本だけ伸ばした指先を頬に当てた。どうやら、自分が感じている疑問を巧く言い表せないでいるらしい。 「つまりシャロは……どうして最初だけ古今和歌集のこの歌だったのか、そしてどうして途中で百人一首になったのか、それが気になるってこと……?」 エルキュールは、彼女が口にした言葉を頭の中で整理し、言わんとすることを推測してみた。それは見事当たっていたらしく、シャーロックは目を輝かせ、大きく頷いている。 「大した理由があるようには思えねーけどなぁ」 根津は教壇に肘をつき、両手の上に顎を載せた。彼の言葉に同意するように、ネロも小さく頷いている。 「考えすぎだよ、シャロ」 「そうでしょうか……?」 「だって、男の方が百人一首で返したのなら、女の方だってそれに倣うんじゃないの?」 コーデリアは、エルキュールの肩に頬を寄せた。 「二十里先生はどう思いますか?」 顔を横に傾けた姿勢で、コーデリアは二十里へと目を向ける。だが二十里は、窓辺にある自分の席に腰を下ろしたまま、降参するように肩をすくめてみせる。 「さぁ?」 唇の端に笑みを浮かべてウィンクを返す二十里に、ネロはエルキュールの腕に抱きついた姿勢のまま、呆れた眼差しを返した。 「全く、頼りにならない先生だなぁ」 「だから、こういうのはボクの専門外なんだってば」 気分を害した風でもなく、二十里は小さく笑っている。 「でもさ、これって小野篁って人の歌なんだよね? 有名な人なの?」 きょとんとした顔で尋ねるネロに、二十里は眉を広げた。 「色々と伝説が多い人だから、知ってる人は知ってるって感じかな?」 そして生徒達を見渡していく。エルキュールは小さく頷き返したが、シャーロックとネロ、コーデリア、そして根津は、初めて聞いたと言わんばかりに首を傾げた。 「明日の授業でやるつもりだったんだけどねぇ」 二十里は椅子から立ち上がり、口元に微笑を浮かべている。 「じゃぁ石流君が来るまで、軽く予習と洒落込もうか」 その宣言に、根津は端末を手に自分の席へと戻った。エルキュールに寄りかかっていたコーデリアは身体を起こし、背筋を伸ばす。シャーロックは机上で丸くなっているかまぼこを自分の膝上に移し、ネロは溜め息と共に椅子にもたれ掛かった。 二十里は黄緑色のジャケットを翻しながら、くるくると回って教壇へと進んだ。そして白いチョークを手に取ると、エルキュールを真っ直ぐに指す。 「小野篁について、ユーが知っている事を話してごらん、エルキュール・バートン」 唐突に指名され、エルキュールは身体をすくめた。狼狽えたまま腰を僅かに浮かしたが、座ったままでいいと続ける二十里に、すとんと腰を落とす。 「あの……小野篁は、六歌仙の一人である小野小町の祖父だと言われている人で……平安時代初期の貴族です。和歌や漢詩だけでなく、書道や法律、武術などあらゆる分野に長けた人だったとか……」 エルキュールはやや俯いたまま、以前本で読んだ記憶を辿った。 「あと、生きたままあの世とこの世を行き来してて……、閻魔様の補佐として、地獄の裁判官をしてたという伝説もあります……」 「エクセレント!」 甲高い二十里の誉め言葉に安堵し、エルキュールはほっと吐息を漏らした。 「それってトイズなのかしら?」 エルキュールの説明に耳を傾けていたコーデリアが、軽く首を傾げている。トイズには様々な能力があるが、あの世とこの世を自在に行き来するというのは、荒唐無稽に感じられた。ましてや、千年以上も昔の人物だ。 「もしかしたらそうかもしれないけど、単なる伝説だろうね」 二十里は大きく頷くと、唇の端を軽く持ち上げた。 「他には、妹と愛し合ったけれど死に別れたという話もあるけど、嵯峨上皇とのエピソードが特に有名なのさ。誰にも読めなかった立て札を、嵯峨上皇に命令されたから解読したのに、その札を立てた犯人だと疑われた。それでその疑惑を払う為に、上皇から出された問題を見事解いた、とかね」 詳しくは明日説明するよと、二十里は胸を反らした。そして視線を落とすと、再び手にしたチョークでエルキュールを指し示す。 「確か百人一首にも小野篁の歌があったよね。分かるかい、エルキュール・バートン」 「は、はい……」 エルキュールは小さく頷くと、「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人にはつげよ海人の釣り舟」という歌を口にした。 「これは、篁が隠岐へ流される時に詠んだ歌だと言われています……」 「流されるって?」 「流罪ってことだろ」 尋ねるネロに、根津が後ろから口を挟んだ。 「篁は遣唐使に選ばれたことがあるんだよ。しかも副使という大役だ。ところが航海に二回ミステイクして三度目の時、大使である藤原常嗣が、自分の船が漏水して傷んでいるからと、篁の船と交換したんだ。それで彼は怒って、仮病で遣唐使をボイコットした挙げ句、遣唐使や朝廷を風刺する漢詩を作った。これには彼を重宝していた嵯峨上皇も流石に激怒してね、流罪になったのさ」 二十里はすらすらと説明を続けた。 「普通は流されたらそれっきりになることが多いけど、彼は余程優秀だったんだろうね。二年後には呼び戻されて、その後は順調に出世してるよ」 二十里は軽く肩をすくめると、黒板へと振り返った。そして白文字で野狂、野宰相と書き綴りながら、彼の反骨的な精神や振る舞いからそう呼ばれていたと説明する。 「狂とか宰相はなんとなく分かるとしてもさ、野って?」 根津の問いに、二十里は肩越しに彼へと目を向けた。 「小野氏の「野」だよ」 そしてくるりと回転して正面へ向き直ると、チョークを置き、軽く両手を叩きながら口を開いた。 「この小野篁の孫の一人といわれているのが、六歌仙で有名な小野小町さ。でも篁については生年から死亡年までしっかり記録が残っているけど、小町の方は全然無いらしくてね。だから娘だとか年の離れた妹だとかいう説もあるらしいよ」 二十里は腰に左手をあて、右手を教壇へとついた。 「ちなみに、小野篁があの世へと出かけていったという井戸がキョウトには残っている。それが六道珍皇寺さ」 研修旅行の一日目に訪問する予定だと、二十里は補足した。 「だから明日からの授業では、それらについて簡単に説明していく予定だよ」 二十里は黒板消しを手に取ると、自分が書いた文字や、根津が残したままの数字を消し始めた。そこへ、静かに廊下を進む足音と、ばたばたと大股で歩く足音が響いてくる。それは教室の前で止まり、がらりと扉が開かれた。 「あら、授業中でしたか?」 顔を覗かせたのはアンリエットで、制服の上に黒のコートを羽織い、微笑を浮かべていた。その背後には、私服の上にジャンパーを重ね着したブー太の姿もある。 「あれ、なんでお前もいるの?」 「ヒドい言われようだブー」 目を丸くするネロに、ブー太は露骨に顔をしかめた。それをなだめるようにアンリエットは微笑を浮かべ、肩越しに振り返っている。 「石流さんが古典について解説して下さるとのことでしたので、折角ですからブー太さんにも声を掛けてみました」 アンリエットが教室へと足を踏み入れると、真っ直ぐに教壇の前を通り過ぎ、ミルキィホームズの席の斜め前で足を止め、くるりと振り返った。ブー太は後ろ手で扉を閉めると自分の席へと足を向け、椅子を引いて腰を下ろしている。 そのまま佇むアンリエットに、ネロはにこやかな笑みを向けた。 「会長もどっかに座れば?」 「え? そうですわね……」 ネロの言葉に、アンリエットは思案するように周囲を見渡している。二十里が窓辺にある自分の席を勧めると、コーデリアは軽く眉を寄せた。 「そこだと黒板が見えにくいですよ」 「そうだよ、僕達の近くにしなよ」 ネロの言葉に、二十里が頬を膨らませて抗議の声をあげた。その騒々しさに根津は眉を寄せ、エルキュールは困ったように俯く。その一方で、シャーロックが無邪気な笑みを浮かべ、「アンリエットさん、ここ空いてますよー」と自分の背後の席をぺちぺちと叩いた。 アンリエットは暫し逡巡した後、シャーロックが指し示した席へと足を向け、そこへ腰を下ろした。少し離れてはいるものの、隣へ腰を下ろしたアンリエットに、根津は嬉しそうにはにかんでいる。 「それで、その石流さんは?」 コーデリアが尋ねると、アンリエットは両手を机上で重ねた。 「調理室で暖かい飲み物を準備して下さるそうです」 「あの、じゃぁ、お手伝いを……」 この人数分のコップを運ぶのは大変だろうとエルキュールが腰を上げると、根津も立ち上がった。 「あ、俺も手伝うよ」 そんな二人の様子を微笑ましく見上げ、アンリエットは教室の後方へと顔を向けた。 「でも、それには及ばないようですわよ」 その視線の先へと皆が顔を向けると、私服のままの石流が、廊下をゆっくりと進んでいる。根津は教室の入り口へと歩み寄ると、ぴたりと閉められた扉を大きく開いた。石流は扉の脇に立つ根津に小声で礼を告げ、教室へと足を踏み入れていく。手には大きめの銀の盆を持ち、その上に白のティーポットと、ソーサーに載った白のティーカップがあった。そしてその周囲を囲むように、昼食で使われるプラスティック製のカップが置かれている。 石流は教卓の前を通り過ぎると、真っ直ぐにアンリエットの傍らに向かい、足を止めた。通路を挟んで彼女の隣にある机に盆を置き、ティーポットを手に取る。カップはどれも空だったが、まずはティーカップの載ったソーラーを手に取り、ポットをやや高く持ち上げ、琥珀色の液体をゆっくりと注ぎ始めた。 暖かな湯気と共に、花畑の中に立っているかのような香りが、ふわりと漂ってくる。 「どうぞ」 石流はティーポットを盆の上に置くと、手にしたソーサーをアンリエットの前にある机上に置き、そっと差し出した。それから盆に並べた残りのカップにポットを傾け、均等の量になるよう注いでいく。 空になったティーポットを盆の中央に置くと、石流は盆を持ち上げ、まずはアンリエットの背後の席に座るブー太にカップを差し出した。それから教室の後方から回って根津の方へと足を向け、彼の席にカップを置く。そして教卓上に二十里の分のカップを一つ置き、最前列に陣取るミルキィホームズへと無言で盆を差し出した。 「これもーらいっ」 「じゃぁ私はこれ」 「わーい、これくださいー」 各々が手を伸ばし、最後にエルキュールがカップを受け取った。石流は通路を挟んだネロの隣席に盆を置くと、椅子を引き、そこに腰を下ろす。 「美味しいですー!」 「あったかーい」 「冷えた身体に染みるわぁ」 皆が一息吐く中、エルキュールは机上に置いたカップを両手で包み、暖を取りながら唇へと運んだ。琥珀色の液体をそっと含むと、カモミールの柔らかな香りが口の中を満たしていく。 カップを机上に戻すと、エルキュールは石流の方を伺った。石流は教壇に向かって斜めに椅子に座り、長い足を組んでいる。そして盆の上に一つだけ残ったカップを手に取ると、口元へと運んだ。 |