第一章
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真っ暗な森から、梟が羽ばたく音が小さく響いている。 枝を大きく揺らしながら吹き抜ける風に、エルキュールは首をすくめた。厚手のコートを羽織り、マフラーを首元に巻いてはいるが、頬に触れる夜気は刺すように痛い。 「石流さんってば。おーい」 ネロは、仮宿舎の端にある石流の部屋の扉を乱雑に叩いた。だが、中からは何の反応もない。扉に耳をぴたりと張り付けて物音を伺うネロに、シャーロックは胸元にかまぼこを抱いたまま、壁沿いに反対側の窓辺へと回り込んだ。が、すぐに戻ってきて小さく首を横に振る。 「カーテンが引かれてて、中は見えませんでしたぁ」 その報告に、ネロは扉から耳を離した。 「やっぱり中には居ないみたいだよ、エリー」 訝しげに首を傾げるネロの唇から、綿飴のような白い吐息が漏れている。 エルキュールは仮校舎へと肩越しに振り返ったが、石流のテリトリーである調理室の窓は真っ暗だった。外に設置された調理室の扉上には小さな外灯が設置されていたが、それが仄かに周囲を照らしているだけで、仮校舎の大半が夜に呑まれている。 「もしかして、会長か二十里先生の所じゃないかしら?」 コーデリアは、胸元まで持ち上げた両手の白い指先に息を吹きかけ、隣室の白い扉を見つめた。 「キョウト関係の授業は、石流さんから話を聞いてるって言ってましたよね?」 シャーロックも相づちを打ち、湯たんぽ代わりに抱いたかまぼこの顎を撫でている。かまぼこは目を細め、小さく「にゃー」と鳴いた。 「でも……その……」 迷惑じゃ……と口ごもるエルキュールに、ネロは白い歯を見せた。 「別にいいじゃん、二十里先生なんだし」 「で、でも……」 「それに会長のトコに行けば、温かい紅茶をご馳走してくれるかもしれないじゃん」 ネロは両手を頭上で広げると、乾いた唇を舌先でちろりと嘗めた。むしろそちらが目的だと言わんばかりの様子に、エルキュールは八の字に寄せていた眉をさらに寄せる。 「や、やっぱり明日に……」 「えー、せっかく寒い中、外に出たんだしさぁ」 「私もアンリエットさんのお部屋で温かい紅茶が飲みたいですー」 ネロの反論に、シャーロックも同意している。 「もう、二人とも現金なんだから……」 コーデリアは軽く肩を落とし、大きく息を吐いた。 行きがけの駄賃とばかりに、ネロは軽やかに二十里の扉の前へと足を向けている。そして大きく片手を振り上げると、エルキュールは慌ててその手を掴み、ドアをノックするのを押し止めた。 「ネロ、待って……っ」 「どうしてさ?」 頬を赤くして首を振るエリーに、ネロは大きく息を吐き出している。 「やっぱり、その……もう遅いから……」 「まだ八時だよ?」 「で、でもっ」 煮えきらないエルキュールに、ネロは不満げに唇を尖らせている。シャーロックとコーデリアが二人の様子を見守っていると、ドアノブが回る小さな音が耳に入った。 「お前等、そこで何してんの?」 コーデリアが声のした方へと顔を向けると、二十里の隣室の根津が、小さく開いた扉の隙間から怪訝そうな顔を覗かせていた。昼間の制服姿ではなく、ジャージのような緋色の室内着に厚手の半纏を羽織ったラフな格好をしている。 「あら、根津君」 「こんばんはー」 シャーロックが朗らかに片手を挙げると、根津は眉を寄せたまま「おう」と返した。 「それ、温かそうでいいですねー」 シャーロックはかまぼこを抱いたまま根津の方へと歩み寄ると、物珍しそうに根津の半纏を摘んだ。 「もこもこですー」 「石流さんが作ってくれたんだよ。半纏って言うんだってさ」 「おでんに入っている、白くてふわふわしたやつですね!」 「それはハンペンだろーが」 根津は、呆れた眼差しをシャーロックへ向けた。それから白い息を吐き出し、二十里の部屋の前にいるネロとエルキュールへと顔を向ける。 「で、何でお前等がここにいるんだ?」 「石流さんに用事があったんだけどさぁ」 根津の問いに、ネロは二十里の扉の前から離れた。両手を頭の後ろで組み、根津の方へと歩み寄る。 「ほら、二十里先生が百人一首の話がどうって言ってたじゃん? エリーが詳しく聞きたいっていうからさぁ」 ネロの言葉に、根津は「へぇ」と間が抜けたような声を漏らした。そして大きく目を瞬かせ、エルキュールをまじまじと見つめている。 珍しいものでも見るような視線に、エルキュールは赤面して顔を伏せた。 「エルキュールにしては随分と積極的だなぁ」 そう感想をこぼすと、根津は後ろ手に自室の扉を閉めた。そして仮校舎へと顔を向けたが、灯りの点っていない調理室に小さく首を傾げている。 「部屋にいないなら、敷地内の見回り中じゃねーの?」 根津はミルキィホームズ達へと視線を戻すと、胸元で両腕を組んだ。 「石流さん、そんなこともしてるの?」 コーデリアが目を丸くすると、根津は呆れたような表情を浮かべている。 「元々やってたじゃねーか」 根津はぶるりと体を震わせ、指先をすっぽりと覆った半纏の袖を口元へと寄せた。 「だから、戻ってくるまで結構掛かると思うぞ」 工事中の校舎や宿舎を含めると、敷地はかなり広い。エルキュールが「やっぱり明日にします」と口に出しかけたところで、シャーロックが朗らかな笑みを浮かべた。 「じゃぁ、根津君の部屋で待たせて貰いましょう!」 「はぁ?」 シャーロックの提案に、根津は戸惑った表情を浮かべた。大きく目をしばたたかせ、シャーロックを見返している。 「根津の部屋なら暖房あるからいいよね。それに」 ネロはシャーロックの言葉に頷くと、根津へと身を乗り出した。そして根津の胸元で鼻をひくつかせる。 「さっきからいい匂いがするんだよなー」 身を寄せるネロに、根津は反射的に数歩後ずさった。しかしすぐに自室の扉に背が当たる。頬をひきつらせる根津を見上げ、ネロは唇の端を大きく持ち上げた。 「お前、ココア飲んでただろ?」 「なんで分かるんだよ……」 呆れた面もちで息を吐き出す根津に、シャーロックが羨望の眼差しを向けた。 「いいなー。私もココア飲みたいですー」 そして胸元のかまぼこに同意を求めるように、小さく首を傾けている。 「僕らにいれてくれもいいんだよー?」 上目遣いで強請るネロに、根津は強く眉を寄せた。そして唇を尖らせ、顔を背けた。 「あるけど絶対にやらねぇ」 「根津のケチんぼ!」 小声で拒否する根津に、ネロが頬を膨らませている。 口論を始めそうな雰囲気にエルキュールが狼狽えていると、背後の扉が勢いよく開かれる音が耳に入った。 「うるさいよ、君たちッ」 突如響いた二十里の甲高い声にネロは飛び上がり、根津も目を丸くした。エルキュールが振り返ると、自室の扉を大きく開けた二十里が身を乗り出している。白のYシャツに白のパンツという出で立ちだったが、いつもの色鮮やかな黄緑色のジャケットを上に羽織っていた。 「もう、驚かさないでよ!」 ネロが抗議の声を挙げると、二十里は唇から小さく舌を覗かせた。 「君たちのトークが聞こえたから、ね?」 そしてエルキュールへと目を向けると、微笑を浮かべた。 「石流君なら外出してるよ。それを教えてあげようと思ってさ」 「こんな時間に、どこにだよ」 根津が眉を寄せると、二十里は顎に手をあてて「さぁ?」と肩をすくめている。 「もしかしてバイトでもしてるの?」 何気なく吐き出されたネロの言葉に、エルキュールは地面へと視線を落とした。 アンリエットが戻ってくる少し前に、エルキュールは、学院崩壊以降ずっと消息不明だった石流と遭遇したことがある。その時は昼間だったが、彼が働いているというバーは、ネオンがきらびやかなヨコハマの夜の街の一角にあった。レストランではなく夜の店で働いているということがたまらなく意外で、エルキュールの中で強く印象に残っている。 それから暫くしてラード事件があり、事件後にトイズが戻った事を報告しようと再び訪ねた時には、彼の姿はそこにはなかった。代わりに店長だという年配の女性が応対してくれたが、石流は「己があるべき場所に戻る」と言い残していたのだという。 そうしてさらに数日後、彼はアンリエットや二十里、根津と共に崩壊したままの学院へと戻ってきた。エルキュールは、その時の彼と特別何か会話を交わしたわけではない。だが、彼が言う「己の居場所」とはアンリエットの傍なのだろうと感じていた。 それなのに、ここ数日の彼の様子は、どこか違和感があった。何が妙なのかと問われても巧く答えられないが、箒を手にしたまま、物思いに耽るように佇む姿をしばしば見かけている。 あの店で、石流が一瞬だけ見せた憂いの表情とも異なっていた。それはむしろ熟考中の棋士を連想させるような横顔で、それがさらに不安を煽っている。 小さく息を吐き出すと、エルキュールは自分を見つめる視線を感じた。顔を上げると、傍らの二十里がアイスブルーの瞳を僅かに細め、エルキュールを見下ろしている。そして自室の扉を閉めるとその場でくるくると回転し、闇に包まれた仮校舎の方へと身体を向けた。 それとほぼ同時に、外灯の届かない闇の中から低い声音が響く。 「お前達、ここで何をしている」 「やぁ、おかえり」 訝しさに満ちた言葉に、二十里が軽く眉を寄せて笑い返した。 エルキュールが声のした方へと目を向けると、紺のタートルネックに黒のパンツという出で立ちの石流が、眉間に皺を寄せて足を止めている。その長身は闇夜に溶け込みすぎていて、彼が歩み寄ってくる様が正面から見えていたはずのシャーロックやコーデリアも、初めて彼の姿を見つけたように、目を丸くしていた。 「皆、君を待ってたのさ」 朗らかに告げる二十里に、石流はさらに怪訝そうな眼差しを返した。 「エルキュールが君に訊きたい事があるそうだよ」 二十里の言葉に石流は眉をひそめ、自分へと目を向けてくる。その鋭い眼差しに気圧され、エルキュールは顔を伏せた。 「あの、その……今日の授業で二十里先生が……」 勇気を振り絞り、授業で二十里が語った内容をぽつぽつと説明する。 「それで、その、もっと詳しく知りたくて……」 エルキュールが口を閉じると、石流は小さく息を吐き出し、二十里に呆れた眼差しを向けた。 「お前、そんな事まで話したのか」 「ん? 駄目だったかい?」 二十里の言葉に、石流は僅かに肩を落としている。 「他の生徒ならともかく、こいつらに理解できるとは思えん」 「ヒドイ言われようですぅ」 「失礼よねぇ」 シャーロックは頬を膨らませ、コーデリアはむっとした表情で石流を見返した。その反応に、石流は意外そうに眉を広げた。 「エルキュールだけでなく、お前達も聞きたいのか?」 「だって、百人一首やこうきんわっかしゅーに謎があるってことですよね?どんな謎なのか気になるじゃないですか」 かまぼこを胸元に抱き上げながら身を乗り出すシャーロックに、コーデリアは大きく頷いている。 「あの、シャロ……それをいうなら古今和歌集……」 エルキュールがもじもじと訂正すると、ネロは肩をすくめた。 「僕は別にいいよ」 お菓子が出るなら別だけど、とボヤくネロに、根津は鼻先で笑っている。 「まぁ、花より団子なお前の頭じゃ無理だろうしなー」 「なんだとぅ?」 「大体今日のその授業だって、お前のせいで酷い目に遭ったじゃねーか」 「鈍くさい根津が悪いんですぅ」 言い争い始めた二人に、石流は深い溜め息と共に一喝した。 「うるさい、近所迷惑だ」 そしてズボンのポケットから鍵を取り出して自室の扉を開け、「少し待っていろ」という言葉を残して中へと入っていく。 そして数秒後、厚手の文庫本を手に再び姿を現した。自室の扉に鍵を掛け、二十里に向けて何かを放り投げる。二十里は放物線を描いて銀色に煌めくそれを片手で受け取ると、掌に視線を落とした。 「なんだい、これ?」 二十里の掌には、親指がすっぽりとはまりそうな銀色の輪に通された鍵が二つ載っている。 「仮校舎と教室の鍵だ。ここだと寒いから、教室までこいつらを連れていけ」 石流の言葉に、二十里は軽く両目を見開いた。 「え? ボクがかい?」 「元はといえばお前のせいだろう」 呆れた眼差しを向ける石流に、根津はきょとんと目をしばたたかせている。 「なんで石流さんの部屋じゃなくて、教室?」 「この大人数では私の部屋に入りきらないからな。それにこいつらを部屋には入れたくない」 荒らされるからな、と石流はミルキィホームズを見渡すと、僅かに眉を寄せてエルキュールへと歩み寄った。そして手にした文庫本を彼女へと差し出す。 「これならお前にも分かりやすいはずだ。暫く貸してやるから、後で読んでみるといい」 「あ、有り難うございます……」 エルキュールは、二センチ程もある分厚い文庫本を両手で受け取ると、表紙に目を落とした。表紙には黒文字で「古今和歌集」とあり、表紙の上半分には、何かの絵巻物から引用されたのか、十二単に身を包んだ女性の後ろ姿が描かれている。その下半分にはひらがなのみで和歌が載っていたが、達筆すぎてエルキュールには読みとることができなかった。ぱらぱらと本を開くと、右ページに和歌が、左ページに古語の解説と現代語訳が載っている。どうやら古今和歌集の全てが収録されているらしい。 眼を輝かせてページをめくるエルキュールに、石流は僅かに目元を緩めた。しかしそれも一瞬で、すぐに真顔へと戻る。 「私はアンリエット様に戻った旨を報告して、教室使用の許可を頂いてくる」 そう告げると、石流はエルキュールの傍らを通り過ぎた。乾いた土を踏みしめる微かな音がエルキュールの耳に届く。しかしそれよりも大きな声で、二十里の声が飛び込んできた。 「ねぇ、エルキュール・バートン。それの335番目にはどんな歌が載っているのかな?」 「335番目……ですか?」 突然の問いに、エルキュールは戸惑った。本から顔を上げて傍らの二十里を見上げると、二十里はエルキュールの背後へと目を向けている。エルキュールが振り返ると、石流は足を止め、肩越しにこちらを振り返っていた。無表情なままだったが、微笑を浮かべる二十里を虎視している。 石流の様子を怪訝に感じながらも、エルキュールは二十里の部屋の入り口から漏れる灯りを頼りに、ページをめくった。 「あの、小野篁の、この歌です……」 エルキュールが小さな声で詠唱すると、根津は怪訝そうに二十里を見上げた。 「それって確か、アンリエット様が訊いてきた数字のやつだよな?」 そしてエルキュールの傍らへと歩みより、横から彼女の手元を覗き込んだ。隣にいたネロも一緒になって背後から覗き込み、エルキュールが指さす和歌を見下ろしている。 「なにそれ?」 首を傾げるネロに、根津はエルキュールの手元の本へ視線を落としたまま、軽く眉を寄せた。 「今日の夕方、アンリエット様が、教室に残っていた俺たちに訊かれたんだよ。この六つの数字は何だと思いますかって」 そのうちの一つがこの和歌だったと語る根津に、コーデリアが小首を傾げた。 「抜き打ちテストか何かだったの?」 「あー、そういやお前らは居なかったもんなぁ」 根津はコーデリアの問いに首を横に振ると、思い出すように言葉を続けた。 「35/100みたいな変な数だったんだけど、安部と獅子内さんが、百人一首を指すんじゃないかって言って、じゃぁそれがどういう解釈になるかって話になったんだよ」 確認するように根津が二十里を見上げると、二十里は肯定するように小さく頷いている。 「もっと詳しく聞きたいですー!」 目を輝かせるシャーロックに、根津は照れ笑いを浮かべ、頬をかいた。 「なら、ついでに教室で説明してやるよ」 そう告げると「端末を取ってくる」と言い残し、自室へと戻っていく。 エルキュールは手にした本を閉じ、両手で胸元に抱いた。早く読みたいが、百人一首を示すらしい数字の話も気になってくる。そわそわしていると、二十里の軽い声が響いた。 「おや、どうかしたのかい?」 エルキュールが顔を上げると、二十里が前方を見つめている。その視線の先へと振り返ると、石流が先程の姿勢のまま佇んでいた。僅かに目を細めて二十里を見返していたが、やがて無言で向き直り、歩を進めた。瞬く間にその背は闇に溶け込むように見えなくなる。 そこへ根津が戻ってきて、二十里はミルキィホームズ達へにこやかな笑みを向けた。 「ま、ここだと暗いし寒いから、石流君の言うように教室にゴーだね」 そして指先で鍵を弄びながら、仮校舎まで先導していく。エルキュールは、暗闇に怯えるコーデリアに腕を取られた格好で足を進めた。シャーロックとネロは、根津の羽織った半纏に抱きついたりちょっかいを出しながら、賑やかに後ろからついてくる。 二十里は仮校舎へと辿り着くと、真っ暗闇の中にも関わらず、もたつくことなく鍵穴に鍵を差し込んだ。どうやら夜目が効くようで、器用に鍵を開けると、手探りすることなく入り口近くの壁にある電源の元へ足を向け、室内の電灯を点けていった。 真っ暗だった廊下に白く煌めく光が一斉に広がり、エルキュールは目を細めた。隣では、コーデリアが心底安堵したような吐息を漏らしている。 仮校舎に足を踏み入れると、外よりは僅かに温かいが、冷え冷えとした空気に満ちていた。二十里は廊下を進み、教室の鍵を開けている。そして先に中に入って、電灯を点けた。 |