椅子から立ち上がり、執務室の扉を開けて廊下へと出る。教室のざわめきが廊下にまで漏れていたが、アンリエットは教室とは反対側へと進み、調理室の前に立った。 廊下側には窓はなく、中の様子は伺えない。 アンリエットが扉をノックすると、「どうぞ」と低い声が返ってきた。横開きの扉を滑らせて開けると、部屋の中央にあるガスコンロの前で、石流漱石はこちらを向いて立っていた。既に夕食の仕込みに入っているらしく、青い炎が揺らめくコンロの上には大きめの鍋が設置され、コンソメと鶏肉の香ばしい香りがふわりと漂っている。 アンリエットは、思わず眉を緩めた。 「如何されましたか、アンリエット様」 石流は眩しそうに目を細め、微笑を浮かべている。 「紅茶のおかわりでしたら、すぐにお持ちいたしますが」 「いえ、そちらは結構です」 アンリエットは半分開いたままの扉を閉めると、石流へと向き直った。 「石流さん、貴方にお見せしたい物と、お聞きしたい事があります」 「はっ、何でしょう」 アンリエットは単刀直入に口を開くと、手にしたFAX用紙を差し出した。 「これは……?」 「先方から送られてきた、研修旅行の最終案です。問題ないとは思いますが、石流さんにも一応確認して頂こうと思いまして」 「それでしたら、お呼びいただければすぐに向かいましたのに……」 石流は申し訳なさそうな表情を浮かべると、腰の白いエプロンで手を拭った。そしてアンリエットからFAXを受け取り、ゆっくりとページをめくりながら、丁寧に文面を目で追っていく。 アンリエットは、彼の視線に注視した。 やがて最後のページへと辿り着くと、彼はまず最初に左上へと目をやった。それらの数字を確かに一瞥したが、しかしその眼差しに変化は見られない。それから本文を眺めると、再び表紙が表になるようにページをめくり、顔を上げた。 「特に問題ないかと思います」 「そうですか。では先方にその事を伝えておきましょう」 「でしたら、私がやっておきますが」 石流の申し出に、アンリエットは僅かに眉を寄せた。普段であればその気遣いを有り難いと感じただろうが、今は妙に胸の奥底がざわめいている。 アンリエットは、唇を真一文字に結んだ。 自分の知らないところで見知らぬ女性と何をしていようが、彼には彼の事情があるのだから、自分には関係のないことだった。そして干渉するべきことではない。それなのに、何故か裏切られたような錯覚を受けた。 その一方で、かつて自分が犯した過ちと、まだそれに謝罪出来ていないという後悔が自分の中で渦巻き始めている。そしてこのまま放置すれば、やがて彼が自分の前から立ち去ってしまうかのような気がして、形容しがたい焦りと動揺まで沸いてくる。 「アンリエット様……?」 スカートの裾を掴み、険しい面もちで顔を伏せるアンリエットに、石流はFAXを手にしたまま狼狽えた。 「如何なされましたか?どこかご気分でも……」 「今度は何と返すつもりですか」 「え?」 思わず口にした言葉に、石流は目をしばたたかせた。 「そのFAXの最後のページに、81/100、38/100、20/100という数字がありますよね」 そう告げると、石流は僅かに目を見張った。 「確認してみたら、前回とその前のFAXにも数字がありました」 冷静に返そうとすればする程子供が拗ねたような口調になり、アンリエットは柳眉を寄せた。 「石流さんも、それに数字で返していますよね?」 「それは……」 「その数字は百人一首を示しているのではないのですか」 問い詰めるような口調になるが、止めることが出来なかった。一気に吐き出してアンリエットが顔を上げると、石流の琥珀色の瞳は、迷うように小さく揺れていた。だがすぐに小さく息を吐き出すと、彼はアンリエットを真っ直ぐに見返した。 「申し訳ございません」 石流はFAXを左手に持ったまま右手で頭上のコック帽を取ると、深々と頭を下げた。 「無用のご心労をお掛けしたくなかったものですから」 彼は顔を上げると、コック帽を左脇に挟んだ。 「彼女は……そこに名がある筑紫澪は、古い友人なのです」 そして眉間に深い皺を寄せ、アンリエットへと目を向けた。 「そして捨陰天狗党員でもあります」 「え?」 予想外の告白に、アンリエットは強く握っていたスカートの裾を離した。 「彼女は私の個人的な連絡先は知りませんし、私も知りません。それに彼女の立場を考えると、こちらから彼女に連絡を取るのもはばかれましたので」 「何故です?」 アンリエットが尋ねると、石流は目を伏せ、眉間に皺を寄せた。 「おそらく彼女は、今では捨陰四天王の……幹部の一人になっているはずです」 耳慣れない単語にアンリエットが僅かに眉を寄せていると、石流は彼女へと切れ長の瞳を向けた。 「捨陰天狗党は石川五右衛門を党首として、その下に四人の幹部がいます。彼らは四天王と呼ばれ、四神の名を冠した部隊をそれぞれ率いています」 「四神というと、朱雀、玄武、青龍、白虎ですね」 アンリエットの言葉に、石流は頷いた。 「はい。党員はトイズの有無に関わりなく、各自の能力に合わせ、陰陽五行の属性に合わせた各部隊に配置されます」 陰陽五行とは、火、水、木、金、土の五つの属性のことだった。それらを四神に照らし合わせると、朱雀は火、玄武は水、青龍は木、白虎は金となる。 「ですが、それでは一つ属性が余りませんか?」 「はい。その土属性は麒麟部隊と呼ばれ、方位では中央に位置することから、石川五右衛門直属の部隊となっています。場合によっては、党首の代行としてその長が立てられることもありますが、他の部隊の長と違って条件が一つ」 「それは?」 アンリエットが問うと、石流は淡々と言葉を続けた。 「党首の血縁者であるということです。すなわち、麒麟部隊の長が次の後継者を意味します」 「随分と詳しいのですね」 淀みなく説明を続ける石流にアンリエットが素直に感心していると、彼は小さく息を呑んだ。僅かに顔を強ばらせ、視線を床へと落としている。 しかしすぐに意を決したように、顔を上げた。 「私もかつて、幹部候補生でしたので」 そして再び深く頭を下げた。 「黙っていて申し訳ありませんでした」 その場で土下座しそうな勢いに、アンリエットは慌てて彼を制した。 「では、今は捨陰党員ではないのですか」 「はい。既に出奔して抜けた身ですから」 顔を上げた石流は、真正面からアンリエットを見つめた。目元を僅かに緩め、唇の端を小さく持ち上げている。 「今の私は、貴方の牙。怪盗帝国のストーンリバーです」 そう告げる彼は、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。 「何があろうと、それだけは今後も決して変わりません」 彼は両目を軽く細め、力強く断言した。アンリエットはその眼差しを受け止めたものの、僅かに目をそらせた。彼の眼差しが真っ直ぐすぎて、アンリエットには眩しくすら感じる。 「ですが……また私は過ちを犯すかもしれませんよ」 自分の中に残る後悔と僅かな不安を微かに漏らすと、彼は眦を緩めた。 「その時は、今度そこ我々が止めてみせます」 石流は、穏やかな口調で返した。 「完璧な人間など存在しません。人である以上、過ちは犯すものです。だからこそ、我々スリーカードが貴方のお側に居ますし、ずっと居たいと思っています」 その声音には気負いや悲壮さは微塵も感じられず、ただ冬の陽射しのような柔らかさと静かさを漂わせていた。 怪盗帝国の首領として、自分は何をしたいと思っていたのか。そして何を成し遂げるべきなのか。 それらを見失い、投げ捨てた後悔と後ろめたさは未だ根強く残っている。しかし彼の言葉で、幾分か和らいだような気がした。 「……有り難う」 アンリエットが顔を上げると、彼は静かに微笑を返した。何故だか、以前よりも頼もしくなったように感じる。 そう感じる自分が急に気恥ずかしくなって、アンリエットは話題を変えようと口を開いた。 「ところで石流さん」 「はい」 暫し躊躇った後、これくらいならば許されるだろうと、僅かな好奇心と共に率直な疑問を口にした。 「貴方はこの人と恋人同士だったのですか?」 「は……?」 石流は、一瞬何を言われたのか理解不能になったようにぽかんとした表情を浮かべた。切れ長の瞳が大きく見開かれ、何度か瞬く。しかしすぐに頬を赤くして、FAXやコック帽を持ったまま大きく両腕を振った。 「ちょ、ちょっと待って下さい!誤解です、それはッ!」 彼にしては珍しく大袈裟な身振りで身を乗り出し、目を剥いている。 「彼女はただの幼馴染みで、気が置ける古い友人なだけで……!」 強い口調で否定する石流に、アンリエットは苦笑を浮かべた。 「あら、そうだったのですか。その数字にある和歌のやりとりから、てっきりそういう関係かと」 「あれはただの言葉遊びというか……特に深い意味はないというか……」 石流は軽く目を伏せ、語尾を濁した。 彼にしては珍しく取り乱している。 「彼女は、水だけでなく液体であれば自由自在に操ることが出来るトイズを持っています」 石流は小さく咳払いをすると、未だ赤い顔を冷やすように右手を額に当てた。 「そして視覚範囲だけでなく、位置さえ把握していれば、ある程度離れた場所からでも水を動かすことが出来ます」 「それは随分と強力なトイズですね」 アンリエットが率直な感想を漏らすと、石流は微笑を浮かべ、片手を額から離した。 「水を操ることまさに雨乞小町が如し、と一目置かれていましたから」 少し懐かしそうに目を細め、コック帽を被り直している。 「ですが、トイズが強いだけでは幹部だと判断できないのでは?」 アンリエットの反論に石流は小さく頷くと、手にしていたFAXを差し出した。 「実はこの表紙の文字は、石川五右衛門の筆跡なのです」 その言葉に、アンリエットは一番上にある表紙の筆文字へ目を落とした。PCソフトで書かれたものだとばかり思っていたが、石流によると、筆と硯で半紙に書いたものをPCに取り込んだり、コピーしてFAXにそのまま使っているらしい。 「だから彼女が幹部だと?」 アンリエットが尋ね返すと、石流は小さく頷いた。 「怪盗帝国に関する報道で、私がヨコハマに居るのは知られていたでしょう。ですが、まさか探偵学院に潜入している事まで把握されていたとは想定外でした」 そして彼は、申し訳なさげに視線を床へと落とした。 「ですので私が同行していると、その……アンリエット様の正体が捨陰に知られる危険が……」 「そうでしたか」 彼がキョウト行きを妙に渋った理由が判明し、アンリエットは密かに安堵した。 だが、捨陰天狗党側はあの紙切れ一枚で、石流にだけ分かるように色々伝えてきたことになる。 ならば彼らの目的は何なのか。 それをアンリエットが尋ねる前に、石流が口を開いた。 「おそらく石川五右衛門の目的は、私の捕縛でしょう」 そして眉を小さく寄せ、唇の端を微かに持ち上げた。 「だから彼女は、この数字で忠告してきたのではないかと思います」 石流はこれらの数字が、アンリエットの推理通り古今和歌集と百人一首を示していると説明した。引用した意味合いも、最初の和歌は石流とコンタクトできるかどうかの意味合いが強いという。そして二つ目の数字は、彼が出奔した夜の光景に似た和歌を引用して昔を懐かしみながらも、二度目の本人確認をしていると語った。 そして三つ目の三つの数字は、何が何でも彼を捕縛しようとする動きが捨陰の中にあると忠告しているのだという。しかし、最後の三つの和歌をどう解釈すればそうなるのか、アンリエットにはよく分からなかった。 「何故貴方が狙われるのです?」 率直な疑問を口にすると、石流は言葉を濁した。 「……正直、私にも分かりません」 眉間に皺を寄せ、口ごもる。おそらく嘘ではないのだろうが、僅かにアンリエットからそらされた視線には、微かに戸惑いの色が滲んでいる。 アンリエットは、石流の手にあるFAXへ、紫水晶のような瞳を向けた。 「しかし、その方は何故ここまでして貴方に?」 「昔馴染みですから、何か思うところがあったのではないでしょうか」 石流は、アンリエットの視線に釣られるように手にしたFAXに目を落とした。僅かに細められたその眼差しは、何か懐かしいものでも見つめるようで、柔らかな印象を受けた。 しかし、差出人の彼女とて捨陰に属する以上、ましてや彼の言うとおり幹部だとしたら、こうして密かに石流に情報を伝えることは、組織だけでなく党首・石川五右衛門への裏切り行為になるのではないだろうか。だとすれば当然、発覚したらただでは済まないはずだ。いくら昔馴染みでも、そこまでの危険を冒すものだろうか。 それに、そもそもこれが彼女の独断である証拠はない。石流は自分への忠告だと話したが、実はまだ別の意味があって、石流はそれを隠しているのではないかという疑惑をアンリエットは抱いた。 彼の言う通り狙われているのが石流ならば、これは石流を返してもらうという、怪盗帝国や自分への密かな宣戦布告にも受け取れる。 アンリエットは、石流をまっすぐに見返した。 「貴方ならこの三つにどう返しますか」 「そうですね……」 石流は顎に片手をやり、天井へと目をやった。 「63/100、といったところでしょうか」 「それは……?」 「今はただ、思ひ絶えなむとばかりを、人づてならで、いふよしもがな」 石流は、噛みしめるようにゆっくりと和歌を口にした。 「それはどういう……?」 「そうですね。「今となっては、ただもう諦めましょうという一言だけを、せめて人づてでなく、直接貴方に言う術があればいいのに」という感じでしょうか」 微笑を返す石流に、アンリエットは僅かに眉を寄せた。 それでは「何が何でも会いたい」という相手に、「直接会って別れを告げたい」と返しているようなものではないのか。 アンリエットは、石流を見上げた。 彼は僅かに目を細め、琥珀色の瞳をこちらに向けている。その眼差しからは、彼がFAXの相手へ向けている感情は読みとれなかった。だが、自分に向けられた忠義は偽りではない事を明確に語っている。 信じよう、と彼女は思った。 彼が全てを打ち明けないのは、自分を案じ、無用な心配をかけたり負担をかけたくないと配慮する故だろう。ならばそれを察して口にしないのも、上に立つ者の務めだと思案する。 アンリエットは小さく吐息を漏らすと、最終案を了解したという返事を送るように伝えた。石流は「畏まりました」と小さく頷いている。 「それで……アンリエット様、一つお願いが」 「なんでしょう?」 アンリエットが小首を傾げると、石流は眉を寄せ、切れ長の瞳を細めた。 「今夜、夕食後に外出許可を戴きたいのですが」 「それは別に構いませんが……どちらへ?」 「ヨコハマ郵便局です」 ヨコハマ郵便局は、市街地にある市役所近くに建っている。そこならば夜遅くまで窓口も開いているが、学院から歩いていくには少しばかり離れすぎていた。それに夕食後の時間ともなると、バスの本数は一気に減っている。 「でしたら二十里先生に車を出して貰いますか?」 「いえ、走ればすぐですので」 アンリエットの申し出を、石流は丁重に断った。 おそらく怪盗時のように夜の帳に潜み、屋根づたいに走って向かうつもりなのだろう。確かに彼の足ならば、直線的に目的地へ向かえる分、タクシー等の交通手段を使うよりも速いだろう。 「気をつけて下さいね」 「はい」 アンリエットが気遣うと、石流は微かにはにかんだような笑みを浮かべた。 「それとこの日程表を元に、生徒用の旅のしおりを作って頂けますか?」 「了解しました」 彼は二つ返事で了承すると、厨房の奥にある棚からクリアファイルを取り出した。そしてFAXが濡れないよう、その中に挟み込んでいく。 アンリエットは扉に手を置くと、肩越しに石流をそっと振り返った。FAXを見下ろす彼の横顔は、いつも通り無表情に近い。だがいつになく険しく感じた。しかし彼はアンリエットの視線に気付くと、眦を緩めてこちらへと顔を向けた。その目礼にアンリエットは唇の両端を持ち上げて微笑を返し、そっと厨房の扉を開けた。 廊下に足を踏み出し、後ろ手にそっと閉める。 既に授業は終わっており、教室からは生徒達のざわめきが響いていた。幾人かの生徒は鞄を手に廊下に出ており、アンリエットに気付くと会釈を返してくる。 生徒たちに笑みを返すと、アンリエットは床へと目を落とした。 石流が綺麗に掃除したそこには、塵一つ落ちていない。 アンリエットは顔を正面へと上げると、ミルキィホームズ達がいる教室へと足を向けた。 |