第一章
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ーー京の都は、その成り立ちからして呪われている。 「ま、これは石流君からの受け売りだけどね」 二十里海は艶のある唇から舌先を覗かせると、軽く片目を瞑ってみせた。生徒達をぐるりと見渡すと、京都出身の安倍以外は、皆怪訝そうに眉を寄せている。 「どうして呪われているんですか?」 教卓正面の席に座ったシャーロックが、素直に疑問を口にした。大きく首を傾げた姿勢のまま、興味津々に二十里を見上げている。その横では、コーデリアが頬を小さくひきつらせていた。どうやら二十里の言葉を額面通りに受け取って怯えているらしい。 一方でその隣りに腰掛けたエルキュールは、眉を八の字に寄せて教壇を見上げていた。どうやら二十里の発した言葉の真意が計り取れず、かつそれが石流の発言である事が気にかかっているようだった。同様に気にしている生徒は他にも大勢いて、ミルキィホームズ達の真後ろの席に座る根津もいつになく真面目な表情で眉を寄せ、配られたプリントを見つめている。 生徒たちの様子に、二十里は唇の端を小さく持ち上げた。本人には無断で引用したが、授業の取っかかりとしては十二分な効果が出ている。 しかし、教壇前の机の一番左端に座っている譲崎ネロは、肩肘をついたまま訝しげに二十里を見返した。 「呪いなんてあるわけないじゃん」 石流さんすっごく古いからなーと、本人が聞いたら怒りそうな軽口を叩き、両手を軽く持ち上げて肩をすくめている。 「それにさ、呪われてるなら今住んでる人とかどうなるのさ?」 ネロは、馬鹿馬鹿しいと言いたげに片眉を持ち上げている。そして真後ろの根津の隣りに座っている安倍へと顔を向けた。 「だろー、安部?」 すると安部は、至極真面目な面もちをネロへと向けた。 「といわれても、石流さんのその言葉は、ある意味正しいのだよ」 「はぁ?」 安部の返事が予想外だったのか、ネロは目を丸くしている。 「少なくとも当時の人々は信じていたし、信じていた以上、それは存在していたんだ。そもそも平安京が作られたきっかけは怨霊封じの為だし、実際、至る所に結界が施されていたいたのだよ」 安部は眉間に小さく皺を寄せ、両腕を組んだ。その言葉に二十里も頷き、ネロへと目を向けた。 「まぁ君の言うように、ボクも、呪いなどという美しくないものは存在していないと思っているけどね」 「はぁぁ?」 自分で口にしておきながら否定するかのような物言いに、ネロは二十里へと顔を戻し、訝しげな眼差しを向けた。 「だから、石流君の受け売りだって言ったじゃないか」 大きく眉を寄せるネロを見下ろして、二十里は肩をすくめた。 「というわけで、これまで研修旅行で回る場所について幾つか解説してきたけど、この授業では、そもそものきっかけである平安京の成り立ちについて説明するよっ」 教壇の上でくるくると回りながら、二十里は胸元を見せつけるように大きくはだけさせた。そして白のチョークを手に取って、黒板に「794年、平安京、桓武天皇」と書き綴っていく。 「じゃぁ、まずは遷都された経緯について説明しようか」 二十里が配ったプリントを見るように指示すると、生徒たちは一斉に手元の用紙へ目を落とした。そこには、平安遷都までの流れが簡単な年表付きで記されている。 平安京へ遷都したのは桓武天皇だった。 だが彼にとっては二度目の遷都である。 通説として、桓武天皇は政にまで影響力を及ぼし始めた寺院系勢力を一掃する為、奈良の都・平城京から遠く離れた地へ遷都する計画を立てたと言われている。そこで最初に目を付けたのが、山背国長岡村だった。その地に建造され、のちに長岡京と呼ばれる新都は、しかし完成を待つことなく、十年程度で放棄されることとなる。 「何故かというと、それには彼の弟が密接に絡んでくるんだ。まぁそれを説明する前に、少し桓武帝から遡ってみようか」 二十里は、小刻みな音を立てながら黒板に「天武天皇、天智天皇」と書き綴った。 「そもそも桓武帝が遷都を敢行した理由の一つに、藤原氏と他の豪族たちの対立と、壬申の乱にまで遡るエンペラーの後継者争いも絡んでいたんだよ」 壬申の乱とは、天智天皇の子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子との間で発生した、皇位継承を巡る戦争である。 「ところがこの大海人皇子は、資料をよく読みとると実は天智天皇の兄ではないかという説や、エンペラーの血縁ではあっても天智天皇とは血が繋がっていないのでは、という説もあってね」 結局この戦争は約一ヶ月に渡って繰り広げられ、大海人皇子が勝利して天武天皇となった。以降、天智天皇の血統は歴史の表舞台から暫し消え、細々と続くこととなる。 「けれど天武帝の直系が、数代後の称徳女帝で絶えてしまったんだ。そこで再び天智帝の末裔が、藤原氏によって表舞台に引きずり出されたのさ」 それが、既に老齢だった白壁王であった。のちの光仁天皇である。 彼は聖武天皇の娘・井上内親王を妻に娶っていた。だから二つの血統を繋ぐ皇族として妥当とされたのだろう。そして彼女との間にもうけた他戸親王が皇太子となった。 「この時、のちの桓武帝となる山部王は父の即位によって親王となって、ようやく朝廷の要職についたんだ。それが確か34歳の頃だったかな?」 それまで彼の地位が低かったのは、ひとえに母の出生による。彼の生母は、百済からの亡命民の後裔だった。当時は母親の身分も重要視される時代だったから、年下の他戸親王の方が、天武、天智両方の血統を継ぐ者として重宝されていたのだろう。 だが暫くして、井上内親王と他戸親王は、光仁天皇を呪詛したとして皇后と皇太子の地位を剥奪され、幽閉された。そして三年後の同日に死んでいる。その死因については当時の記録にも明記されていない。だが同日に二人とも死んでいることから、暗殺されたとみられている。 その事件後、山部親王が皇太子となり、父を長年に渡り補佐していった。やがて桓武天皇として即位し、父の意向から実弟の早良親王を皇太子に据えた。 「こうして帝になった桓武天皇は、様々な改革に乗り出したのさ」 二十里は教壇に両手を突き、再び生徒達を見渡した。 殆どの生徒達は、授業の最初に配られたプリントを目で追いながら二十里の講義に耳を傾け、時々メモを取っている。 最前列の席に陣取るミルキィホームズ達も、今のところは居眠りすることなく、真面目に授業に耳を傾けていた。シャーロックはプリントを両手で掴み、教壇の二十里を見上げながら小さく頷いているし、その横のコーデリアも、シャーペン片手に真剣な表情でプリントの年表に線を引いている。その隣のエルキュールは、熱心にプリントに視線を注いでいたが、時々左横のネロへちらちらと物言いたげな視線を送っていた。二十里が横目でネロを伺うと、彼女は興味なさげに肩肘をついた姿勢を取り、プリントを見下ろしている。 「だけどそれから暫くして、平城京では天災や疫病が相次いだんだ」 二十里は黄緑色の派手なジャケットを両手で掴むと、白い肩を露出させた。 「当時の人々は、死んだ井上内親王と他戸親王が怨霊になって、その仕業だと考えたのさ」 「でも怨霊って、幽霊の事ですよね?」 二十里の説明に、コーデリアが片手を小さく挙げた。 「当時の人々が恐れたのは分かりますが、とても非現実的というか……」 細い眉を寄せるコーデリアに、二十里は頷いた。 「そうだね。それはボクもナーンセンスッだと思っているよ」 再び頬をひきつらせる彼女を安心させるように、二十里は穏やかな微笑を浮かべると、軽く肩をすくめた。 「でもね、死んだ人間が怨んでいると感じるのは、あくまでも生きている人間だとボクは思うのさ」 いつになく真面目な口調で、二十里は言葉を続けた。 「負い目や良心の痛みを感じているからこそ、天災や疫病や起こった時、死者の怒りだと怯えるんじゃないのかい?」 静かにそう告げると、二十里は生徒達を見回した。安部は二十里の言葉に小さく頷いているが、殆どの生徒は実感が伴わないようで、きょとんとした表情を浮かべている。 「そこで彼らは、怨みを残して死んだと思われる人を神様として奉り、その怒りを静めてもらおうとしたんだ」 二十里は赤のチョークを手に取ると、黒板に「御霊信仰」と書き綴った。 「その辺りはこの国の人の独特の宗教感だからね。外から来たボクらにはちょっと分かりにくい」 指先についたチョークの粉を払いながら、二十里は大げさに肩をすくめてみせた。 「それらを理解しやすくなるのが、この国の古人曰く「お天道さまがみてる」っていう言葉かな?」 そう口にした時、二十里の視界の端で、ネロが正面を向いたまま背後の席にいる根津へ、後ろ手で何かを渡しているのが見えた。根津はそれを受け取ると、机の下に隠すように広げ、怪訝そうに眉を寄せて見つめている。 二十里は僅かに眉を寄せながら、説明を続けた。 「お天道っていうのは太陽のことでね。つまり悪事をどんなに隠そうとしても、天にいるゴッドは常に見ている、全てお見通しって意味なのさ」 他人の目を意識しがちな国民性も出てるよねぇ、と二十里が苦笑を浮かべると、つられたように数人の生徒も笑みを浮かべた。幽霊が闊歩している意味ではないと分かったのか、コーデリアも安堵したように吐息を漏らしている。 「あとこの国の面白いところはね、神社に御霊として奉られている事は即ち、彼らは無罪であるという事を意味しているってことなのさ」 二十里は、教卓の上に置いたプリントに視線を落とした。 「確か他戸親王と井上内親王は、キョウトの上御霊神社に奉られているよね」 上御霊神社は平安京の中にあり、皇居から鬼門方面にある。平安遷都後すぐに建設された神社で、怨霊となった人々のみを奉り、やがて応仁の乱の勃発地ともなった。 「つまり当時の人々も、その二人が無実の罪ではめられたと知っていたってことさ」 「どうしてその二人が無実って分かるんですか?」 二十里の言葉に、シャーロックが右手を真っ直ぐに挙げた。 「うん?だって、動機がないだろう?」 「動機?」 二十里が笑みを湛えて見返すと、シャーロックは挙げた手を下ろし、青い瞳をしばたたかせている。 「だって、光仁帝は天皇になった時点で既に老齢なんだ。ただ待っていれば他戸親王はエンペラーになれるのに、どうして「帝が早く死にますように」って母子で呪う必要があるんだい?」 「あっ」 二十里の解説に、シャーロックはようやく気付いたという風に目を見張った。 「となると、この二人が居なくなって誰が得をしたんだろうね」 「えーと、それってつまり、桓武天皇ってことですか?」 二十里が目を細めると、シャーロックは細い眉を寄せた。 「まぁ、部下である藤原氏が、自らの利益の為に皇太子の首をすげ替えようと謀った事であっても、その庇護を受けていた桓武帝が、全く預かり知らぬわけじゃないだろうからね」 だが、彼がどこまで関わっていたか、そして関わっていなかったのか、それは当時の記録から推測するしかない。 「その一方で、天武帝の直系は絶えていても傍流はまだ残っているわけだし、平城京には天武系に助成する勢力も根強かったのさ」 現に、桓武天皇の弟である早良親王は出家して東大寺の僧侶となっていたが、父が天皇になった事で還俗し、次の皇太子となった。当然そのツテで、東大寺の僧侶たちの政治的発言力は強まっただろう。 「ま、それなら新しい家に引っ越して、心機一転したくなっても不思議じゃないよね」 そうして、まずは長岡京の建設が着手された。 「だけど多くの豪族達が新都には反対した。何故馴染んだ奈良から出ていくのかっていうのもあっただろうし、単純に派閥争いの一環ってのもあっただろうね」 ところがここで、大事件が起きる。 新都造営の責任者である藤原種継が、建設途中の長岡京で暗殺されたのだ。すぐさま犯人探しが行われ、藤原氏に敵対する多くの有力豪族が捕縛された。 「そしてその中に、血を分けたブラザーであり、皇太子である早良親王もいたってわけさ」 だが彼は、身に覚えのない事だと自ら食事を絶つことで主張した。そしてそのまま衰弱していき、長岡京の中にある乙訓寺で死亡する。だがその遺体はそのまま流刑地である淡路島へと流され、そこで埋葬された。 同様に万葉集で有名な大伴家持も、事件直前に病死して故人であったにも関わらず、この事件の主犯の一人とされた。そして官位を全て剥奪された上にその遺体をわざわざ掘り起こされ、流刑地へ送られている。 「ま、こういう死に方をすれば当然、怨霊になるって皆思うよね」 それから暫くして、桓武帝や藤原氏の縁者が相次いで死去し、長岡京には疫病が蔓延した。これらは全て早良親王の祟りだと恐れられた。 「そこで桓武帝は弟が死んだ地でもある長岡京を捨て、新たな都の建設に着手したのさ」 それが平安京である。当時の最先端科学であった風水をもって四神相応の地が探し出され、長岡京から少し離れた山背国葛野が選ばれた。 東に鴨川、西に山陽・山陰道、南にはーー今は埋め立てられて跡形もないが当時は存在した巨大な湖ーー巨ぐら池、そして北に船岡山。そこに四方を護る神獣ーー東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀を配置すると見立て、鬼門を封じるように寺社が配置された。 そうして張られた結界が功を奏したのか、万代宮(よろずのみや)ーー永遠の都と讃えられ、千年以上もの長きに渡り、この国の首都として栄えることとなる。 「新しい都の名前には、普通は長岡京のように地名をつけるのだけれど、この新都には「平安たれ」という願いを込めて、平安京と名付けられたんだ」 そこまで説明すると、二十里は横目でネロと根津の方を伺った。根津がネロの背をシャーペンでつつき、後ろ手に差し出された掌に何かを載せて渡している。しかし根津は二十里の視線にすぐに気付くと、取り繕うようにプリントを手にとって視線を落とした。 「だけどその平安京もね、結局は「平安」じゃなかったのさ」 皮肉だねぇと含み笑いを浮かべつつ、二十里は説明を続けた。 「政争の起きる場では当然無実の罪で陥れられた人々もいる。そういう人達は当然怨霊として奉られる。だから百年も経たないうちに、平安京の中は怨霊だらけになってしまったわけさ」 祟道神社、上御霊神社、下御霊神社、北野天満宮、藤森神社、今宮神社。これらは全て、疫病や怨霊を鎮めるために創建された神社である。 「研修旅行では、これらのうち北野天満宮に行くはずだよ」 「でも先生、北野天満宮って、学問の神様じゃないんですか?」 授業中でも制服ではなくジャージを身につけた眼帯の少女が、困惑した面もちで片手を小さく挙げた。 「今ではね。でも奉られているのは歴史的にも祟り神としても有名な、菅原道真だよ」 二十里は大きく頷くと、彼女へ目を向けた。それを合図に彼女は手を下ろし、真っ直ぐな瞳で二十里を見返している。 「菅原道真は死後怨霊となって、自分を讒言して太宰府へ流した藤原時平を祟り殺し、内裏に雷を落として自分を貶めた貴族達まで殺したと言われている。だから雷神として奉られているんだ」 だが、身分が低かったものの学業で左大臣にまで上り詰めた経歴から、徐々に学問の神として崇められていったと語る。 「でも、菅原道真は本当に藤原時平を怨んでいたのかな?」 二十里が微笑を向けると、眼帯の少女は僅かに首を傾かせた。ポニーテールに結んだ黒髪が、その弾みで小さく揺れている。 「道真は恨み言をこぼすでもなく、太宰府で穏やかに暮らしていたという資料もある。だから現実的に考えるなら、道真が大怨霊に祭り上げられたのは、都に残っていた道真派閥の学者達がその権威を高めたいという思惑や、道真の処遇に後ろめたさがあった貴族の悔恨が絡み合った結果じゃないかな?」 つまり怨霊とは、真実を知る人間の後ろめたさや、告発からくるものではないか。二十里は自分の考えを述べると、前髪を片手で払った。 「だから生きている人間が一番怖いってことだねっ」 そう結論づけ、二十里は教壇に両手を置いて教室内を見渡す。 「というわけで、石流君の言う「平安京はその成り立ちからして呪われている」とは、それだけ当時の政争争いが激しかったってことを意味してるのさ」 やらなければ自分がやられる。そういう時代だった。 されど、弟を陥れて殺した兄の心境や如何に。 そして、兄に陥れられて死んだ弟の心境や如何に。 だが、それらを断ずるのは生者であろう。 桓武帝は、外交では未だ朝廷に従わない東北の民を討伐し続け、内政では様々な改革を成し遂げた一方で、怨霊の魂鎮を何度も続けたという記録が残っている。 数々の革新を打ち立てて政治に邁進したとみるか、死なせた自分の弟達に怯えながら一生を終えたとみるか。それは歴史家や民俗学者が判断することだと二十里は結んだ。 「ところで」 二十里は素早くネロの席へ足を向けると、彼女が手元に広げていた紙切れを横から奪い取った。 「あっ!」 ネロが小さく抗議の声を挙げる。 「美しいボクを何故見なァい?」 二十里は、手にした紙切れを自分の眼前へとかざした。小さな折り目が幾重にも付いたノートの切れ端には、やや丸みを帯びた文字で「エリーが石流さんの様子が変って気にしてるみたいなんだけど、どう思う?」とあった。その下には根津の角張った筆跡で、素っ気なく「いつもと一緒だと思う」とある。さらにその下には「お前、石流さんとよく一緒にいるだろ?何か知らない?」「考えすぎじゃねーの?」「ホントに?」「嘘ついてどーすんだよ。つーか、先生がこっち気にしてるから回すのはやめろ」「だが断る」「てめー!」というやりとりが続いていた。 「ふむ?」 二十里は小さく息を吐き出すと、ネロと根津を見比べた。 「君たち二人は何をしてるんだい?」 二十里が眉を寄せると、根津は言葉を詰まらせて顔を伏せた。一方、ネロはバツが悪そうに目をそらせていたが、やがてぽつりと呟いた。 「根津のせいでーす」 「ちょっ、お前、俺のせいにするなよ!そもそもお前が最初に寄越したんだろーが!」 根津が慌てた様子で身を乗り出し、抗議の声をあげる。だが二十里がじろりと睨むと、二人共押し黙った。 二十里は再び、手にした紙切れに目を移した。 確かにここ数日、石流は表向きはいつもと大差ないものの、一人でいる時は物思いに耽っているような様子が伺えた。彼にしては珍しく眉間に迷いを滲ませ、溜め息を漏らしている。うわの空という程ではないが、掃除をしながら時折どこか遠くを見ているような眼差しに、石流は何かを隠していると二十里は確信していた。それが何かはまだ掴めていないが、先日のアンリエットとの会話から、かつて彼が捨陰天狗党に居たことがあるのは間違いないと推測している。 生真面目な人間ほど、内に抱え込む事が多い。 しかし彼の微妙な違いは、普段から注意深く彼を観察していなければ分からないだろう。それ程小さな違和感にエルキュールが気付いているというのが、二十里には意外だった。 「対象をじっくり観察して普段との相違を探すというのは、探偵として必要な素養だけどねェ」 二十里はエルキュールの方へ顔を向けると、彼女のプリントの上に、手にした紙切れをそっと置いた。細い指をメモの上に置き、ネロと彼女にだけ二人のやりとりが目に入るようにする。エルキュールに暴露した事にネロが講義の眼差しを向けたが、二十里は鋭い眼差しを返してそれを牽制した。 「気になるなら直接本人に聞いてみたまえ」 エルキュールは二十里から差し出された文面に目をやって、気まずそうに唇を尖らせてふてくされるネロと、微笑を浮かべて見下ろす二十里を見比べた。戸惑った面もちだったが、すぐに状況と意図を察して頬を朱に染め、顔を伏せた。 「はい……」 黒髪から僅かに覗く耳の先まで真っ赤に染まっている。 だが彼女の性格からして、それだけの為に直接尋ねに行くというのは無理だと二十里には予測できた。自分だけがそう感じているのではないかと不安に思っているだろうし、石流は絶対に「気のせいだ」の一言で否定するだろう。だからこそ、彼女から相談されたであろうネロが、石流と親しい根津に尋ねたに違いない。 ならば、それ以外のきっかけなり話題が必要となる。 「ふむ?」 二十里は顎に手をやると、思案するように小さく首を傾げた。エルキュールの心情はさておき、彼女に訊かれた時の石流の言動と、彼がそこまで思案している内容には非常に興味がある。 「そういや石流君が、古今和歌集は輪のように繋がるとか、百人一首は呪いの歌集だって事も言ってたね」 「はぁ?何それ?また呪い?」 ネロが両眉を軽く寄せた。二十里が告げた言葉の内容よりも、小言や説教なしに授業を再開した事を訝しんでいるようだった。 「他にも優秀な歌人がいたり、採用されている歌人でも他にもっとエクセレントな歌があるのに、何故か百人一首には駄作と評される歌が多いそうだよ。あと採用されている歌人の殆どが生涯不遇だったり、死後怨霊になった人ばかりだとも言ってたね」 「そうなんですか……?」 二十里が説明を続けると、予想通り読書好きなエルキュールが興味を示した。顔を上げて眉を寄せるエルキュールを横目で伺い、二十里は教壇へ足を向けた。 「百人一首といえば、六歌仙が有名だよね」 「それじゃ、もしかして小野小町や在原業平も……?」 エルキュールの問いに、二十里は肩をすくめてみせた。 「それこそ不遇だった人達の筆頭じゃないか」 二十里はゆっくりと教壇へ戻ると、生徒たちを見渡した。 「確か在原業平は桓武天皇のひ孫だよ。だから天皇になってもおかしくない血筋さ。ところが祖父の平城天皇、つまり桓武天皇の息子だね、彼が上皇になった後に平城京で乱を起こしてね。……えーと、何だっけ?」 腕を組み、左の人差し指でこめかみを軽く叩く二十里に、安部が小さく挙手をした。 「薬子の乱です、先生」 「そうそう、それそれ」 二十里は大きく頷くと、苦笑を浮かべた。 「寵愛していた藤原薬子にそそのかされて、せっかく遷都した平安京から、再び平城京に戻そうとしたのさ。結局その反乱は数日で収まったんだけどね。で、平城上皇は罪には問われなかったものの、出家した。当時の出家は、二度と政治には関わりませんという意思表示だったからね。一方で息子の阿保親王、つまり業平の父は太宰府へ流されて、以降も不遇の人生を送ったんだ。そして業平ら子供たちは、在原の姓を賜って臣下に下ろされて、皇位継承からは外されたってわけ。ま、これは業平が生まれる前に起きた話だけど」 「あれ、でも平城天皇の次の天皇って、平城天皇の子供じゃないんですか?」 シャーロックが大きく首を傾げた。同じ疑問を持った生徒は他にもいたらしく、彼女の発言に小さく頷いている。 「確か平城天皇の次は嵯峨天皇で、彼は平城天皇の弟だったはずだよ」 「何で子供が居るのに弟が跡を継いでいるんですか?」 「確か禅譲がどうとかこうとか言ってたような……?まぁここまでくると完全にボクの専門外だから、気になるなら石流君に訊くか自分で調べたまえ」 二十里が降参するように両手を軽く挙げると、生徒たちは不満げな表情を浮かべた。 「って、なんでですかー」 「仕方ないでしょ、ボクの専門は美術とトイズ学なんだから」 不満げに眉を寄せるシャーロックを見下ろし、二十里は拗ねるように唇を尖らせた。そして横目でそっとエルキュールを伺うと、彼女は顔を伏せたまま、こくりと小さく頷いている。 文学が好きな彼女のことだから、おそらくこれで動くきっかけとなるだろう。石流本人には自覚がないようだが、彼は妙に彼女を気にしているところがある。それに仲間である自分達とは立ち位置が異なる彼女と会話することで、彼に何かしらの心境の変化をもたらすかもしれない。 「それに平城天皇には、幼少時から早良親王の怨霊に祟られていたという話があってね。しかも一緒に乱を起こした藤原薬子は、長岡京建設時に暗殺されたあの藤原種継の子供なんだ。なかなか因縁めいてるとは思わないかい?」 そう苦笑を浮かべると、二十里はネロと根津へ顔を向けた。二人とも怒られなくて済んだと安堵した表情を浮かべている。しかし、二十里が唇の両端を大きく持ち上げると、二人は目を見開き、びくりと肩を振るわせた。 友情は美しい。 だが授業中というのはいただけない。 「キョウト関係の授業は教科書がない分、資料を探したり、石流君から延々と話を聞かされたりして、準備がかなり大変だったんだよね……」 二十里は軽く眉を寄せると、黄緑色のジャケットをばさりと脱ぎ捨てた。そしてうろんな眼差しを二人へと向ける。 「せ、せんせー、乳首すっごく伸びてますよ……?」 根津が怯えた声を漏らした。ネロは椅子から半ば立ち上がり、根津と手を取り合ってカタカタと小さく震え始めている。 シャーロックとコーデリアがそっと目をそらしたまま木製の椅子を引き、ネロの横でおろおろと狼狽えているエルキュールの手を取って、椅子ごと彼女を避難させた。根津の隣に腰掛けた安部も、シャーロック達のように椅子に座ったまま、そっと机の横側へと回り込んでいる。その一方で、根津の背後にいた赤縁眼鏡の女生徒は妙に目を輝かせ、二人と二十里の様子を見守っていた。 「さぁ、美しい僕を存分に、そしてしっかりと見たまえ!」 二十里が教壇から足を一歩踏み出すと、ネロと根津が声を震わせた。 「うわぁぁぁ、伸びすぎて気持ち悪りぃぃぃ!」 「こっちくんなぁぁぁ!」 しかし、皆の注目が自分に集まっていることに、二十里は恍惚とした表情を浮かべている。 そして二人の悲鳴が教室中に響き渡った。 |