第一章
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窓の外から、梟の鳴き声が小さく響いた。 アンリエットはデスクから離れて部屋の電灯を消すと、窓辺へと近付いた。ベージュの厚いカーテンを引くと、細い三日月が闇に沈んだ森を淡く照らしている。 何か大事なことを忘れているような気がして、アンリエットは眉を寄せた。だが、自分が何を見落としているのかが分からない。 彼女は深く息を吐くと、向かいにあるミルキィホームズ達の仮宿舎へと目をやった。消灯時間を過ぎているにも関わらず、カーテンの隙間から光りが漏れている。 夕食時、図書館に行ってヨコハマ警察に寄ったとシャロは楽しそうに話していた。「キョウトについて予め勉強しておくように」と告げはしたが、彼女たちの話によると、どうやら自主的に図書館に行って、キョウトに関連して自主的に勉強し始めたらしい。 といっても彼女たちのことだから、キョウトの美味しい店や土産の本かもしれないのだが。 アンリエットは、口元を僅かに緩めた。 これまでのダメダメ振りから考えると、自習をするようになっただけでもかなりの進歩といえるだろう。 アンリエットは丁寧にカーテンを閉めると、部屋の電灯を再び点けた。そしてデスクへと戻り、肘付きの椅子に深く腰掛ける。 デスクの上には、メールで添付された企画書をプリントアウトした紙が載せられていた。右上をクリップで綴じてはいるが、十枚程度の薄いものだ。 アンリエットはその表紙に目を落とした。表紙には「研修旅行日程案」と縦書きで仰々しく記されている。筆の流れがそのまま現れていることから察するに、PCの書体ではなく、わざわざ筆と墨で書かれたもののように思えた。 しかし、最近は筆の質感をそっくりそのまま再現できるソフトもある。わざわざ半紙に書いたものをPCでスキャンするよりも、そちらで作成したと考える方が自然だろう。何より、そこまでの手間をかける意味と必要性が感じられない。 そんなとりとめのない事を考えていると、扉を軽く叩く音の後、畏まった石流漱石の低い声が室内に届いた。 「失礼します」 「どうぞ」 促すと、扉を開けた石流を先頭に、二十里海、根津次郎が静かに入室してくる。 「お呼びでしょうか」 根津が静かに扉を閉めると、石流が切り出した。 デスクの前で横並びに佇む三人を見渡すと、アンリエットは小さく頷いた。 「ええ、今度の研修旅行の件です」 そしてデスクの上に置いた書類に手を伸ばし、それを彼らに差し出した。ちょうど正面に立つ石流が一歩踏みだし、それを両手で受け取る。表紙へ視線を落とすと、ぎょっとしたように細い両目を見開いた。だがそれは一瞬の事で、再び無表情へと戻る。二十里と根津がそれぞれ石流の左右から書類を覗き込むと、彼は二人にも見やすいように書類を構えた。 「これは?」 石流がゆっくりと表紙をめくると、次のページには研修旅行全体の流れが表記されていた。さらにその次へとめくっていくと、それぞれの日程ごとに、どこで食事を取るか等のタイムスケジュールが記されている。 「貴方達には先に詳細を知らせようと思いまして」 「もうこんなに決まってるんだ?」 根津は目を丸くして、研修旅行のスケジュールをしげしげと眺めた。 一日目の午前中は、新幹線でヨコハマからキョウトに移動、その中で早めの昼食と記されていた。そして駅からバスで三十三間堂へ移動し、正面にあるキョウト国立博物館と合わせて見学。その後バスで六波羅密寺へ移動、見学した後に徒歩で六道珍皇寺に寄って清水寺へ移動となっていた。それからさらに徒歩で八坂神社へ移動しつつ観光し、バスで南禅寺に移動、見学後、キョウト市役所で市長の講話というスケジュールが記されている。 二日目は嵐山からトロッコ電車に乗って川下りのボートでまた嵐山に戻り、そこからバスで大覚寺に移動。それから仁和寺、竜安寺、金閣寺を廻る計画になっている。 三日目は自由行動と記されて丸々白紙となっており、四日目は銀閣寺、二条城、東寺という順でバスで巡り、午後の新幹線で帰る予定になっていた。 「まだ本決まりというわけではありませんが」 アンリエットは、キョウト市長から斡旋されたキョウトの旅行会社から提案された案なのだと説明した。 「やっぱり、殆どがテンプル巡りだねぇ」 二十里は小さく唇を尖らせると、ひゅっと鳴らした。そして萌葱色のジャケットをはだけさせながら、顔を輝かせている。 「でもキョウトのテンプルはビューティフォー!な場所が多いらしいから、美しいこのボクにとてもよく栄えるだろうね!」 「ねぇねぇアンリエット様、ここにあるキョウト市長の講習って何?」 根津が、一日目の日程表の最後に記された部分を指さした。 「キョウトの特殊な事情やその歴史について、市長自ら講義して下さるそうですよ」 アンリエットが根津へ微笑を向けると、石流が眉を寄せた。 「何故、キョウト市長が?」 「探偵学園というものにご興味があるようです」 IDOにより、ここ数年の間に探偵学院が世界各地で創立された。だがIDO主導の為、その数は極めて少ない。その中でも、偵都ヨコハマにあるホームズ探偵学院は日本で唯一の探偵学院であり、かつ世界で最初に創立された学院でもあった。故に偉大なる探偵・ホームズの名を冠しているのだが、探偵学院に興味を持つ自治体は多い。 「それでキョウト市長自ら、我々に直接会ってみたいとのことでした」 アンリエットが説明すると、石流は眉間の皺をさらに深くした。 「それはミルキィホームズだけでなく、アンリエット様にも、ということでしょうか」 「そうなるでしょうね」 アンリエットの返事に、石流は唇を堅く結んだ。暫し目を伏せ、再び口を開く。 「この研修旅行は、アンリエット様の発案なのですか?」 「いえ、ヨコハマ市長経由でキョウト市長からの申し出を受けた形になります」 アンリエットは小さく頷き、言葉を続けた。 「ヨコハマ市長から当学院の状況を聞いて、是非にとの話でした」 アンリエットが正面に佇むスリーカードを見渡すと、興味深げな眼差しを書類に向けている他の二人と異なり、彼だけが唇を真一文字に結んでいた。まるで仇敵に会ったかのように、手にした書類を睨みつけている。 「それが何か?」 「……いえ」 アンリエットが尋ね返すと、石流は眉間に皺を寄せたまま言葉を濁した。 「どうです?他に何か気になる点はありますか?」 アンリエットが石流を見上げると、彼は「そうですね」と僅かに眉を緩めた。 「二日目ですが、嵐山の川下りの後に大覚寺へバスで移動となっていますが、ここは徒歩で二尊院や清涼寺を見学し、清涼寺からバスに乗った方が、渋滞に巻き込まれずに移動しやすいかと思います」 立て板に水ということわざの通り、彼はすらすらと言葉を続けた。 「それにその辺りは、風光明媚な場所で百人一首にも詠まれた土地ですから、勉学にも良いかと」 「君、キョウトの地理に随分詳しいね?」 土地に明るくなければ、そこまで言及することは出来ない。追及するような二十里の眼差しに、石流は目を伏せた。 「行ったことあんの?」 興味津々に尋ねる根津に、石流は「……少しばかり」と返している。 「それとあと一つ、気になった点が」 「何でしょう?」 アンリエットが尋ねると、石流は顔を上げ、眉間の皺をさらに深くした。 「他の日程の密度に比べると、二日目は丸々一日あるにも関わらず、随分余裕を持たせています。これではまるで……」 「まるで?」 「この日の夕方に、何かを起こそうという意図を感じます」 アンリエットは、「何かが起きる」のではなく「起こす」という言い回しを石流が使った事に、小さな違和感を覚えた。 「何か、とは?」 「……そこまでは」 「そうですか」 石流は言葉短く答えると、再び目を伏せた。二十里は、石流の横顔に訝しげな視線を送っている。 「ところで、この三日目のフリー行動って何?」 石流の様子におかまいなく、根津は日程表の中で唯一空白になっている部分を指さした。 「オプションです」 「オプション?」 「ええ。捨陰天狗党の全面協力で、生徒たちの実地訓練を行ってくれる事になっています。ですから、先に貴方達には説明しておこうと思いまして」 「危険すぎます!」 アンリエットの言葉が終わるや否や、石流が目を剥いて 反対した。 「何故です?」 怪盗アルセーヌにならともかく、ホームズ学院生徒会長のアンリエット・ミスティールに、彼らが危害を加える理由がない。それに万が一襲われたとしても、彼女には返り討ちどころか完璧に叩き潰す自信がある。 アンリエットが自信に満ちた表情で柳眉を僅かに寄せると、二十里が口を挟んだ。 「もしかして君は、捨陰天狗党が何か企んでいると危惧してるのかい?」 隣で身体をくねらせる二十里に、石流は肯定するように口を噤んだ。 「確かに、街の特殊な事情から鑑みても、キョウト市長と捨陰天狗党には、何らかのパイプがあると考える方が自然でしょうね」 アンリエット自身も、彼同様に研修旅行を持ちかけられた事にきな臭さを感じてはいた。そもそも仮宿舎と仮校舎で電気と水が使えなくなる事自体、計画にない唐突なハプニングだったのだ。しかもそれに合わせるように、相手から研修旅行を持ちかけられた。 つまり、こちらの状況を知っていたかのようにセッティングしてくれた状況となっている。 あまりにも明け透けすぎて、潔い程だった。 「でもさ、実地訓練って具体的に何をするんだ?」 根津が再び首を傾げると、アンリエットは微笑を浮かべた。 「当日まで私にも秘密だそうですよ」 そして推論を口にする。 「おそらく、私を誘拐して生徒達に探させようとするのではないでしょうか」 「でしたら尚更……!」 石流は大きく両目を見開くと、書類を手にしたままアンリエットのデスクに手を突き、身を乗り出した。 ドン、と低い音が室内に響く。 「留守を預かる身としては、私は今回のキョウト行きには反対です!」 その剣幕に、根津と二十里は目を丸くした。 アンリエットは目をしばたかせ、せめてキョウト以外に変更した方がと進言する石流を見つめた。 「でも何か企みがあるのだとしたら、敢えてその誘いに乗るのも面白いではありませんか。それに……」 アンリエットは口元に笑みを浮かべると、「貴方にはまだ伝えていませんでしたね」と言葉を続けた。 「二十里先生や根津さんだけでなく、貴方にも教員として同行して貰います」 そう告げると、石流は、アルセーヌが学院を破壊しようとした時に見せた、絶望と驚愕が入り交じったような表情を浮かべた。しかしそれはほんの一瞬で、いつもの無表情へと戻る。 「……何故、ですか」 身を乗り出したまま顔を伏せる石流に、アンリエットは僅かな違和感を受け、小さく眉を寄せた。絞り出すような声から察するに、彼は何かを危惧しているようだが、アンリエットにはそれが何かまでは分からない。 「何故とは?」 「それは……その……」 彼にしては珍しく、歯切れが悪かった。デスクから手を離して数歩下がり、何事もなかったかのように再び直立した姿勢へと戻る。 「誰かに言われたとか、頼まれたわけではありませんよ」 アンリエットは率直に事実を告げると、僅かに言い澱んだ。 「その……あの時のお詫びみたいなものです」 「あの時」という言い回しに、根津は心当たりがなさげに大きな瞳を瞬かせた。二十里と石流は何を指しているのかすぐに把握したようで、石流は床へと視線を落とし、二十里は小さく肩をすくめている。 ちゃんと彼らには謝らなければいけないと頭では分かっているものの、どう切り出せばいいのかアンリエットには分からなかった。今にして思えば、壊れたホームズ像前で再会した時に口にすれば良かったのだが、先にスリーカードに受け入れられたことによってうやむやになり、結局そのまま現在に至っている。 「あなた達も学院再建によく協力してくれていますし、それを労いたいというのもありますから」 アンリエットは頬が僅かに上気するのを感じながら、小さく咳払いをした。 「あぁん、アンリエット様!そのお心遣いだけでビューティホー!」 二十里はジャケットを脱ぎ捨てると両手を大きく広げ、その場でくるくると回った。一方で根津は、アンリエットの言葉を額面通りに受け取り、照れたような笑みを浮かべている。 「俺、キョウト初めてだからちょっと楽しみー」 はしゃぐ二人とは対照的に、石流は帽子のつばに手をかけ、目元を隠した。 「申し訳ありませんが、私は同行できません」 まさか断られると思わず、アンリエットは目をしばたかせた。二十里と根津もぎょっとした表情を浮かべ、石流の横顔を食い入るように見つめている。 「お前、さっきまでアンリエット様が心配だって言っていたじゃねーか!」 目を剥いて反論する根津に、石流は僅かに視線を揺らした。 「君にしては珍しいね。何で嫌がるんだい?」 二十里は怪訝そうに眉を寄せ、石流の顔を覗き込んでいる。露骨に彼から視線を反らせる石流に、根津は小さく舌打ちした。 「お前、昼の時といい、何かおかしくねぇ?」 根津の指摘に、石流は押し黙った。だが、意を決したように彼は顔を上げると、アンリエットへと向き直った。 「……その、キョウトには少々因縁がありまして」 「もしかして、昔何かヘマでもしたのかい?」 敢えて軽口を叩くように尋ねる二十里に、石流は曖昧に言葉を濁した。 彼は怪盗帝国に入るまでは、アジアを中心に活動していた。だからその頃にキョウトで何かあったとしても不思議ではない。だが、彼の怪盗名を単純に漢字で表すと「石川」となる。アンリエットにはそれが偶然の一致とはとても思えなかった。 「へぇ、もしかして捨陰天狗党に見つかるとヤバいの?」 「……そういうわけではないが」 からかう口調の根津に、石流は自信なさげに眉を寄せている。 おそらく彼は何かを隠しているのだろう。だがそれが何なのか、自分から明かすまでは問い糺すつもりはない。 アンリエットは椅子から腰を上げると、両腕を組んだ。 「何か起きるのだとしたら、貴方がヨコハマに残ったとしても同じではありませんか?」 そして真っ直ぐに石流を見据えた。目が合うと、彼は戸惑ったような眼差しで彼女の視線を受け止めている。 「それに、万が一私に何かあったとしたら、貴方はヨコハマからでもすぐに駆けつけてくれるのでしょう?」 「勿論です」 強く断言すると共に覇気に満ちた眼差しを返す彼に、アンリエットは目元を緩めた。 「でしたら、最初から私達と一緒にいればいいじゃありませんか」 アンリエットはそう結論づけ、微笑を浮かべた。 「それにもし何かあっても、貴方達が守ってくださるのでしょう?」 アンリエットが正面に佇む三人を見渡すと、彼らは互いに顔を見合わせ、小さく頷いた。 「オフコース!」 「勿論だぜ、アンリエット様!」 「期待してますよ」 「はっ」 アンリエットの穏やかな言葉に、石流は頭を垂れている。 話がひと段落ついたところで、アンリエットは二十里へと顔を向けた。 「二十里先生、これからの授業で毎日一時間程、キョウトの歴史や見学予定の寺社について取り上げて下さい」 「イエース!」 次に根津へと目を向ける。 「根津さん、この三日目の実地訓練は抜き打ちで行いますので、ミルキィホームズ達を含め、他の生徒達には内密にお願いします」 「はーい」 そして最後に、正面に立つ石流と向かい合った。 「石流さんはキョウトに詳しそうですから、私の代わりにその日程表の見直しと修正案の作成をお願いします」 「はっ」 「話は以上です。では皆さん、宜しくお願いします」 アンリエットがそう締めくくると、三人は恭しく一礼して退出した。 再び室内に静寂が訪れる。 今回の研修旅行に、相手の思惑を感じないわけではなかった。むしろ自分の身が危険に晒される事で、ミルキィホームズ達のトイズが戻るかもしれないという期待の方が大きい。 だが、一抹の不安を感じないではいられなかった。何か忘れているような気がするのに、それが何なのか思い出せない。忘れた何かはとても重要な要素のような気がして、アンリエットは目を閉じ、思考の海へと飛び込んだ。 だが、何も手掛かりを見出だせない。 アンリエットは目を開けて小さく息を吐き出すと、浴室へと足を向けた。 |