第一章
1
柔らかな陽射しが注ぐ中、遠くから金属を叩くかのような仰々しい音が響いている。 シャーロック・シェリンフォードは、森の遙か先から覗くライトグリーンの鉄板を見上げた。鉄板は幾つも横に並べられ、建築中の校舎を箱のように囲っている。 ヨコハマ大樹海の麓に佇むホームズ探偵学園は、数ヶ月前にアルセーヌによって粉々に破壊され、戦闘機からの爆撃を受けたかのような更地と化していたが、目下再建中であった。 シャーロック達が漠然と進めていた学院再建も、長らく音信不通であった生徒会長、アンリエット・ミスティールが戻ってきてからは具体的に進められ、四月からの再開を目処に急ピッチで工事が進められている。 アンリエットの推薦状を手に世界各地の探偵学院へ散っていった生徒達も、彼女がヨコハマに戻ってきたことや学院が再建されるという話を聞いて、徐々に戻り始めていた。しかし、現在の仮教室がプレハブ小屋で、未だ寝泊まりする場所も不十分ということから、大半の生徒達は四月からの再開までは転入先で過ごすという方法を選択している。 それでも一部の生徒達は、外国の水や食生活が合わなかったという切羽詰まった事情や「アンリエットさんがいるから」といった私情で、ヨコハマ市内に部屋を借りて仮教室に通っていた。現在プレハブ製の仮教室で学んでいる生徒は十五名程で、ほぼシャーロック達の元クラスメイトで占められている。 仮教室のあるプレハブ小屋は、かつてミルキィホームズ達が作っていた農場跡に建てられていた。洗面所と三部屋で構成され、一つは教室、もう一つはアンリエットの執務室となっている。 教室の背後にある執務室の壁は透明で、シャーロック達の授業風景がアンリエットから丸見えになっていた。これは執務中も授業の様子が確認できるようアンリエットが希望した為だったが、逆にいえばアンリエットが執務をこなしている様子がシャーロック達にも丸見えで、学院の為に賢明に働いているアンリエットの姿は、彼女たちを奮起させる結果となった。 それでもミルキィホームズ達のトイズは未だ戻ってくる気配もなく、成績はダメダメなままである。だが、探偵として必要な技術や知識、心構えをごく緩やかに身に付けつつあった。 アンリエットの執務室の隣には調理室で、コックである石流漱石が生徒たちに提供する食事を作る場となっている。ただし食堂はないので、食べる場所は教室を代用していた。持ち運びのしやすさや節水のため、昼食は弁当のように折箱へ詰められるので、天気の良い日は外に持ち出して食べる生徒が多い。 シャロ達も他のクラスメイト達のように教室から出て、樹海の入り口にある池の畔に四人が座れるサイズのビニールシートを敷き、昼食の入った折箱を広げていた。 今日の昼食には、卵とレタス、チーズを挟んだサンドイッチとカツサンドが一口サイズに詰められ、ポテトサラダにミニトマトが添えられていた。そしてデザートとして、リンゴを兎形に切ったものが二切れ入っている。 シャロは顔を上げると、小さな口でカツサンドをかじった。 見上げる空は青く、薄く伸びた雲がゆっくりと流れている。 最初はシャーロック達ミルキィホームズしか居なかった学院跡も、アンリエットが戻ってきてからは根津次郎やブー太、阿部たち元クラスメイトが続々と戻ってきて、さらに教員の二十里海と用務員兼コックの石流漱石まで戻ってきた。それどころか校舎の建築工事も始まって、来月頭には完成する見込みになっている。 目標として描いていた学院生活が戻りつつあることを実感し、シャーロックは満面の笑みをこぼした。 「シャロ、どうしたのさ?そんなニヤニヤして」 隣のネロが、サンドイッチを口に運びながら小首を傾げている。 「いえ、学院がもうすぐ元通りになるなーと思って」 にぱっと笑みを浮かべるシャロに、コーデリアも小さく頷いた。 「そうね、大分工事も進んできたわよねぇ」 「長い……道のりでした……」 ネロの隣に座ったエリーは、遠くに見える建設現場を感慨深げに見上げている。 「でも学院が元に戻ってもさ、ボク達ってやっぱり屋根裏部屋になるのかな?」 サンドイッチ両手に持って頬張りながら、ネロは建設中の学院を見上げた。アンリエットの説明によると、校舎も寄宿舎も、以前と寸分違わず再建するという。 「当たり前だろ、お前等トイズないんだから」 彼女たちの後方で、ブー太や安部と一緒になって腰を下ろしていた根津次郎が、ネロの言葉に茶々を入れた。 「食事が俺たちと同じに戻っただけでも感謝しろよー?」 「なんだよ、根津の癖にえらそーにッ」 ネロがむっと頬を膨らませる。そして手にしたサンドイッチを口に押し込み、空になった自分の折箱を脇に退けると、根津に向かって徐々に膝を近づけた。 「な、なんだよ……?」 徐々ににじり寄ってくるネロに根津が怯むと、ネロは唇を大きく持ち上げた。 「お前のサンドイッチをよこせー!」 「ちょ、ふざけんな!」 根津は弁当を両手で頭上に持ち上げると、膝を立ててつかみかかってくるネロから後ずさった。 「お前、他人の弁当まで奪う気かよ!」 「あれっぽっちじゃカロリー足りないよー!」 「ならラードでも舐めてろ!」 「やなこった!」 喧々囂々と言い合う二人に、エリーはおろおろと狼狽えている。 「ラードに失礼な話だブゥ」 根津の隣に腰を下ろしていたブー太は、ラードの入った容器を吸いながら、呆れた表情で二人を眺めている。 「毎日飽きもせずによくやるわよねぇ……」 コーデリアは小さく溜息を吐くと、フォークでポテトサラダを口に運んでいる。 「でも、ネロも根津君も楽しそうですー」 「べ、別に楽しくなんかねーし!」 「そうだよ、シャロ!」 暢気に笑うシャロに、二人が同時に反論した。 「息……ぴったり……」 そう呟いて、エリーはフォークに刺した林檎をかじった。ブー太の横に腰を下ろした安部は我関せずといった風情で食事を続け、エリーの後方でネロと根津のやりとりを眺めていた眼帯のクラスメイトは、横にいるツインテールのクラスメイトと一緒になって小さな笑みをこぼしている。 さらに口喧嘩を続けるネロと根津に、昼食を済ませた二十里海が割って入った。 「きぃぃぃみ達は静かにランチすることも出来ないのかぁぁぁいッ?」 叫びながらおもむろにジャケットを脱ぎ、上半身を晒していく。そして根津とネロの襟首を掴むと、バレエのようにくるくると片足で回転し、二人を振り回した。 「ちょっ、なんで俺まで!」 「横暴だぁっ!」 「シャラーップっ!」 目を回しながら口答えする二人を、二十里は地べたに放り出した。 「美しい僕を見ろぉぉぉぉッ」 いつもの口上と共に上半身を反らせ、蒼い瞳を根津とネロへ向けた。 「ムチ・オブ・ラーブ?」 目を細めると同時に伸び始めた二十里の乳首に、根津は顔をひきつらせた。 「……す、すみませんでした」 「……ゴメンナサイ」 神妙になった根津につられるように、ネロも唇を尖らせて謝罪する。 「何ですか、騒々しい」 「あ、アンリエットさん!」 シャロが振り返ると、石流漱石を伴ったアンリエットが立っていた。アンリエットは制服姿だが、石流はコック姿で片手に盆を持っている。盆の上にはシャロ達と同じ折箱だけでなく、ティーカップとティーポッドが載っていた。 石流は左手に乗せたシートを片手で器用に広げると、それをシャロ達の傍らに敷いた。そして手にした盆をシートの上に載せ、瞬く間にアンリエットの席を作り上げる。 アンリエットは靴を脱いでシートに上がると、盆の前に腰を下ろした。正座した状態から足をずらし、楽な姿勢を取る。 その間に石流は、盆の上のティーポットを手に取り、カップに紅茶を注いだ。並々と注がれていくのにつれ、シャロ達の元にもイチゴの甘い香りがふわりと漂ってくる。 「会長、今日はストロベリーティーですか?」 瞳を輝かせるコーデリアに、アンリエットは小さく頷いた。 「ええ。暖かくなってきましたから、春っぽいブレンドにして貰いました」 口元を緩めてソーサーを手に取り、カップを口元へと運んだ。暫し香りを楽しみ、唇をつける。 そしてカップをソーサーの上に戻すと、二十里の前で地べたに正座させられているネロと根津へ顔を向けた。 「譲崎ネロ。足りないというのであれば私のを少し分けてあげますよ」 「えー、会長から貰うのは悪いから、別にいいよ」 珍しく遠慮するネロに、アンリエットは少しだけ目を丸くした。 「根津さんからはいいんですか?」 「もちろん!」 「なんでだよ?!」 横暴だと騒ぐ根津に、ネロはあかんべを返している。 二人のやりとりに苦笑を浮かべると、アンリエットは再びカップに口を付けた。そして盆の上にソーサーを戻し、背筋を伸ばした。 「皆さんにお知らせがあります」 少しだけ声を張り上げ、周囲に腰を下ろした生徒たちを見回す。皆の視線が自分に集まったのを確認すると、アンリエットは唇を開いた。 「工事の関係で、来週の木曜から日曜まで、仮教室と仮宿舎の電気と水が止まるとのことです」 「って、なんでですかー?!」 アンリエットの報告に、シャロは両手を頬にあてて悲鳴をあげた。他の生徒たちも皆、一様に目を丸くしている。 「教室だけならともかく、仮宿舎までだなんて困ります……!」 コーデリアは自分の折箱を押さえながら、あわあわと狼狽えた。 仮宿舎は、仮教室から池を挟んだ反対側に建設されており、ミルキィホームズたちが住む棟とアンリエット専用の棟、教員と男子生徒用の棟の三つが建っている。ミルキィホームズ達の住むプレハブ製の小屋は、屋根裏部屋のようにバストイレ以外は大部屋一つとなっていたが、教員と男子生徒用の仮宿舎は個室になっていた。こちらで寝泊まりしているのは、二十里と石流、根津にブー太である。 「根津や会長は市内のホテルに避難すればいいけどさ、ボクたちそんなお金ないし」 「随分急だブー?」 「その間、授業はどうなるんですか?」 戸惑いの声をあげる生徒たちに、アンリエットは微笑を浮かべた。 「ええ。ですのでその間、仮教室で勉強してきた皆さんに労いの意味も込めて、古都キョウトで研修旅行を行いたいと思います」 「研修……旅行?」 アンリエットの宣言に、シャロはエリー、コーデリアと顔を見合わせた。ネロは根津やブー太達と顔を見合わせ、二十里は僅かに首を傾げている。 「古都キョウトは、かつてこの国の首都でした。ですので偵都ヨコハマ以上に古い建築物や国宝があります。そういった場所を見学して見聞を広げながら、これまでの授業で培った技術や知識を用いる実技訓練を行います」 「つまり、ヨコハマ以外での実地訓練ということですか?」 コーデリアが小首を傾げると、アンリエットは小さく頷いた。 「実はキョウトは、他の都市と比べて一風変わった事情があるのですが……皆さんは、古都キョウトがどういう街かご存じですか?」 「はい、会長」 生徒達を見渡すアンリエットに、制服を狩衣のように改造させた安部が真っ直ぐに右手を挙げた。 「確か貴方はキョウト出身でしたね」 アンリエットが微笑を返すと、安部は頷いて立ち上がった。 「はい。偵都ヨコハマなど大抵の街は、探偵が怪盗から街や宝などを護っています。しかしキョウトでは、探偵や警察だけでなく、怪盗が怪盗から護っている街です」 「え?」 「どういう……意味……?」 安部の言葉に、ネロとエリーは目を瞬かせた。 「怪盗が怪盗から街を護るって、意味が分からねぇよ」 根津も足を崩して胡座を組み、訝しげな眼差しを安部に向けている。 「うむ。まぁ、皆の反応も最もだと思う」 安部は咳払いしていつもの砕けた口調に戻ると、大きく頷いた。 「大探偵時代になる遙か昔から、捨陰天狗党という怪盗一味が古都キョウトを縄張りにしていているのだ。党首は代々、石川五右衛門と名乗っている」 「石川五右衛門って……確か釜茹でにされたっていう?」 ネロの言葉に、安部は頷いた。 「うむ。戦国時代末期、京を支配していた天下人・秀吉のやり方に反発し、処刑されたのが当時の党首だと言われている」 「へぇ、そんな昔からいる怪盗なんですか?」 安部の説明に、シャロは大きな瞳をさらに大きくした。 「でも、その石川五右衛門という怪盗が捨陰天狗党という組織を率いているということは、怪盗帝国よりも先に組織化された怪盗チームってこと?」 それなのに聞いたことがないと首を傾げるコーデリアに、安部は頭をかいた。 「うーん、そこなんだが、怪盗帝国とはちょっと違うというか……」 丸い眉を大きく寄せ、両腕を組む。 「怪盗帝国は、元々バラバラで活動していた怪盗が、アルセーヌをリーダーとしてチームになったものだろう?逆に捨陰天狗党は、皆が皆、トイズを持っているわけじゃないんだ。私も一度だけ間近に目撃した事があるが、党員は皆カラス天狗のお面を被って忍者みたいな格好をしている。だからキョウトを裏から護る忍の団体みたいなもの、といった方が近いと思う」 「へぇ、忍ってニンジャの事ですよね?」 安部の言葉に、シャロは目を輝かせた。 「キョウトに行ったら本物のニンジャに会えるんですか?楽しみですー!」 「怪盗帝国の連中もニンジャと大差ないと思うけどねー」 のんきに笑うシャロに、ネロは頭の後ろで両腕を組むと、小さく溜め息を吐いた。 「ラッチョンマットとかストーンリバーとか、動きがすばしっこくてニンジャっぽいじゃん」 「確かに……」 そう言葉を交わすネロとエリーに「ラットだ、ラット!」と突っ込みたい衝動を呑み込みながら、根津は傍らに腰を下ろしている二十里へ目を向けた。 二十里は興味深げな表情で顎に手をやり、説明を続けている安部の顔を見上げている。その眼差しは生徒を見守る教師そのもので、根津は眉を寄せた。 「……センセーも知ってたの?」 「まぁね」 根津が声を潜めて尋ねると、二十里はウィンクを返した。 「活動範囲の広い怪盗の間では、キョウトだけは避けろって有名らしいヨ?」 まるで誰かから聞いたかのように囁きながら、二十里は石流へと視線を向けた。根津も石流へ目を向けると、彼はいつもの無表情のまま、アンリエットの背後で片膝をついた格好で控えている。自分だけが知らなかったという事実に、根津は唇を尖らせた。 「だから捨陰天狗党と警察だけでなく探偵とも協力関係にあって、キョウトで盗みに成功した怪盗はほぼゼロだそうです」 安部はアンリエットへと向き直ると、再び口調を改めた。だがその解説に、コーデリアが再び怪訝な眼差しを向けた。 「でもそれじゃぁ、怪盗じゃなくて探偵じゃないの?」 その疑問に答えるように、今度は眼帯にジャージ姿のクラスメイトが片手を小さく挙げた。 「捨陰天狗党はキョウトでは正義の味方でも、ニューオオサカなど他の都市では普通に怪盗として活動していたかと思います」 「確か、貴方もあの辺りの出身でしたね」 「はい、伊賀です」 アンリエットが促すと眼帯の少女は手を下ろし、座ったまま言葉を続けた。 「ただ、彼らの怪盗行為の大半は、他の怪盗の手で流出した仏像や古文書をコレクターから元の寺社に戻す為だったり、悪名高い資産家や政治家から、彼らの悪事の証拠となるような物を盗んだりするといったものばかりだったと思います」 「ははっ、義賊って奴かぁ?」 ラットが皮肉混じりの茶々を入れると、ネロが首を傾げた。 「なにそれ?喰えるの?」 「あー、もう。……説明めんどくせぇな」 根津は肩をすくめると、眉を寄せた。 「簡単に言えば、困ってる人の為に盗む良い泥棒ってことだよ」 「何だよそれ、泥棒は悪い奴なのに矛盾しまくりじゃん」 根津の説明に、ネロは眉を寄せて唇を尖らせている。 「要するに……怪盗でもあり、探偵でもあるってことでしょうか……?」 エリーは顎に手をやり、考え込むように目を伏せた。 「確かにトイズの定義からすると、自分の為ではなく他人の為に使っているから探偵っぽいわよね。でも行動的には法に反しているから、怪盗ってことになるのかしら?」 なんだか曖昧ねぇと、コーデリアは頬に手を当てた。 「かなり変わってますよね」 シャロも二人の言葉に頷いている。 「だから石川五右衛門には、IDO(国際探偵機構)の幹部という噂も出ているのさ」 補足するように、二十里が微笑を浮かべた。そしてゆっくりと立ち上がると、声を荒らげた。 「でもコウモリみたいな立ち位置で美しくなぁぁぁいッ!」 再びジャケットを脱ぎ捨て、上半身裸となる。 自分を見せつけるようなポーズを取る二十里を華麗にスルーし、アンリエットは生徒たちへと微笑を向けた。 「そういう特殊な街ですが、未来の探偵の為にと、キョウト市長がこの研修旅行にご協力下さるとのことです」 そう言葉を続けるアンリエットの傍らで、ガチャンと陶器が割れた音が響いた。シャロが音のした方へ目を向けると、彼女の傍らで紅茶を注ごうとした石流が手を滑らし、手にしたティーカップをソーサーごと地面に落としている。 幸いにも土の上だったので、シートに腰を下ろしたアンリエットにその飛沫はかかっていなかった。だが、石流は硬直したように、割れたティーカップとソーサーの上に紅茶を注ぎ続けている。 ネロは、近くにあったアンリエットの盆を慌てて持ち上げた。 「何してるんだよ、石流さん!」 こぼれた紅茶は地面に吸われてはいるものの、薄い湯気を立てながら周囲に広がっている。アンリエットの下に敷かれたシートにも届きそうになり、根津は慌ててアンリエットに駆け寄り、その手を引いた。一方で二十里がアンリエットの靴を手に取り、素早く差し出す。根津に引かれるまま立ち上がったアンリエットは、靴に足を入れてシートの上から退いた。 シャロとコーデリアは折箱をエリーに押しつけると、シートを両手で引っ張った。すぐに位置をずらしたおかげで、シートの端が僅かに濡れただけで済んでいる。 アンリエットは、石流の失態に両目をしばたかせた。 「おい、アンリエット様に掛かったらどうするんだよ!」 「あ、あぁ、すまない」 咎めるネロと根津の声でようやく我に返ったのか、石流は傾けたままだったポットを慌てて戻した。流れ落ちた紅茶は、紅い水たまりとなって乾いた土の上で暫し揺れていたが、ゆっくりと地面に吸い込まれていく。 「大丈夫ですか?」 気遣うアンリエットに、石流は顔を伏せた。 「申し訳ありません、アンリエット様」 「いえ、私よりも貴方の方が……」 アンリエットは、視線を落とした。石流の白いコック服には、地面に接したエプロンの裾と膝部分から薄紅色の染みが広がっている。 「熱くありませんか?先に着替えた方が」 「いえ、大丈夫です」 石流は短く答えると、ネロから盆だけを受け取り、地面に置いた。その上にポットを載せ、その脇に拾い集めた破片を寄せた。そしてアンリエットが座っていたシートも、破片が落ちているかもしれないからと、小さく折り畳んで回収した。 「すぐに取り替えて参ります」 強ばった顔でそう告げると、石流はシートと盆を持って立ち上がった。そして足早に調理室の方へと去っていく。 アンリエットは徐々に小さくなっていく石流の背を見送った。 「はい、会長のお弁当」 呼びかけるネロの声にアンリエットが振り返ると、ネロが折箱を両手で差し出している。 「有り難うございます」 アンリエットは笑みを返すと、両手で受け取った。 「アンリエットさん、こちらへどうぞ」 シャロはアンリエットの右手を両手で取ると、自分達の座るシートへと引っ張っていった。そしてエリーの方へ体を寄せて腰を下ろし、自分とコーデリアの間に空いたスペースを指し示す。 「遠慮しなくていいですよー」 「では、お邪魔しますね」 屈託のない笑みを浮かべるシャロに、アンリエットははにかみながら再び靴を脱ぐと、シャロの隣に腰を下ろした。 「ったく、石流さんも何やってんだか」 根津が眉を寄せて調理場へと目を向けると、コーデリアは頬に片手を当て、小さく首を傾げた。 「でも珍しいわよね、石流さんがあんなミスをするなんて」 「というか、初めて見ましたー」 「どうかしたんでしょうか……」 腰を下ろしながら心配げな表情を浮かべるシャロとエリーに、アンリエットは目元を緩めた。 「そうそう、今回の研修旅行には石流さんにも教員として同行して貰います」 アンリエットがそう告げると、数人の女生徒が顔を輝かせた。中には無言でガッツポーズを取る子もいる。 「え、なんでですか?」 これまで、遠足や実技訓練など学院から離れる場合があっても、石流がそれらに同行したことはなかった。戻った生徒達の食事の準備や学院の整備があるというのが最大の理由だったが、目を丸くするシャロに、アンリエットは切れ長の瞳を二十里へと向けた。 「一クラス分とはいえ、引率の先生が二十里先生だけで大丈夫だと思いますか?」 それに釣られるように、生徒達も二十里へと目を向ける。 「ふふっ、美しいボクがいればそれで充分じゃないか!」 二十里は皆からの視線を受け止めると、その場にするりと立ち上がった。そして衣類を全て脱ぎ捨てて黒パンツ一丁の姿となり、恍惚とした表情でくるくると回り始める。 生徒達は、深く息を吐き出した。 「デスヨネー」 「いつもの光景だから、すっかり忘れてました」 「キョウト警察に……捕まっちゃうかもしれません……」 肩を落とす生徒達に、アンリエットは取り繕うように咳払いをした。 「貴方達が将来探偵として活動するのは、何もこのヨコハマだけとは限りません。向かう土地の情報をいち早く入手し、把握する必要も出てくるでしょう。これはその為の訓練です」 そして生徒達をゆっくりと見渡した。 「ですので皆さん、急な話ですが準備を宜しくお願いしますね」 「はいですー!」 元気よく片手を挙げて返事するシャロに、アンリエットは目元を緩めた。 |