サーセン
 

 

白い柱に設置された電灯が、フロアを煌々と照らしていた。柱は等間隔に並んでいるものの、部屋ごとに区切る壁は無く、広々とした空間が広がっている。マンションといっても、まだ建設途中のものなのだろう。完成したあかつきには廊下になるであると思われる外壁には、黒縁の桟と硝子戸がはめ込まれてはいる。
 フロアには、番組スタッフの姿どころか、人の気配がなかった。イベント参加者は既にこの階を突破しているのか、遙か上の方から時折、掛け声や轟音が微かに響いている。
 ストーンリバーは柱の陰に身を潜めながら、静かに歩を進めた。
 人の気配が無いにも関わらず、このフロアにだけ、不穏な空気が漂っている。何かに呼ばれているかのような独特の感覚に、ストーンリバーは僅かに眉を寄せた。
 気配を辿るようにフロアの奥へと進むと、白い柱に小さな鏡が掛けられていた。正面に立てば顔から胸上が映る程の大きさで、楕円形になっている。鏡の縁は銀色に鈍く煌めき、幾何学的な文様が描かれていた。その頂上部分には月のような文様が施され、下部には兎と蓮の花が描かれている。
 ストーンリバーは鏡の装飾を確認すると、軽く両目を見開いた。そして鏡に己の姿が映らないように回り込み、無音で近付いていく。だが、己に向けられた鋭い視線と敵意にすっと跳び退くと、腰の刀に手を掛けて身構えた。
「あら、残念。そのまま近付いてくれれば攻撃できましたのに」
 静かな声音と共に、鏡が掛けられた柱の裏から、黒装束の女がふわりと現れた。
「誰も気にも留めなかったから大丈夫かと思っていたのですが……やはりTVに映ってしまったのは失敗でしたね」
 女はアルセーヌを彷彿とさせるような黒装束に身を包み、長い銀髪を大きな赤いリボンで束ねている。その長髪とリボンを小さく揺らしながら鏡の前に立ち塞がると、女は黒の仮面の奥で、真紅の瞳をすうっと細めた。
「やはり貴方が来ましたか、怪盗ストーンリバー」
 大きな黒マントを翻す女に名を呼ばれ、ストーンリバーは僅かに眉を寄せる。
「貴様は……」
「私は、怪盗ロストソング」
「そうか……貴様が最近噂になっている歌怪盗か」
 ストーンリバーに名を覚えられている事に、ロストソングは満足そうな微笑を湛えた。
「何故私が来ると?」
 ストーンリバーが金の瞳で見据えると、ロストソングは闇夜に浮かぶ月を仰ぐように、真紅の瞳を細めた。
「貴方は、怪盗帝国に参加するまでは、古刀や神器などを中心に狙う怪盗でしたでしょう?」
 骨董を狙う同業者としてその名と武勇伝を何度も耳にしたと、ロストソングは語った。
「それに貴方には、不思議な噂もありましたからね」
 ご存じかしら、と小さく首を傾げてみせる。
「貴方が予告し、探偵を倒して奪ったモノが、何故か日本の博物館に展示されていたり、本来宝があるべき寺社に戻っている、と」
 ストーンリバーの表情を伺うように、女は唇の端を持ち上げている。だが彼は無表情を保ったまま、淡々とした声音を発した。
「貴様は、その鏡がどういう代物なのか知っているのか」
「勿論ですよ」
 ロストソングは、仮面越しに微笑を浮かべると、言葉を続けた。
「これは私のコレクションのひとつ……人の姿だけでなく、その本心を炙り出す魔性の鏡、浄玻璃の鏡」
 喜びに打ち震えるかのような響きに、ストーンリバーは眉をひそめた。
「そこまで把握していて、それを所持しているのか」
「だからこそですよ」
 ロストソングが仮面越しに笑みを浮かべると、ストーンリバーは僅かに腰を落とした。
「それは、数年前に月宮神社から盗まれた社宝だ。……もしや貴様が盗んだのか」
「さぁ?」
 ロストソングは、ストーンリバーの問いに微笑を返している。
「それは回収命令が出ている。悪いが、こちらに渡してもらおう」
 そう告げると、ストーンリバーは腰の刀を抜いた。電灯の白い光を浴び、刃が銀色に煌めいている。
「面白い事を言いますね」
 ロストソングは右手で己の頬に触れると、唇の両端を持ち上げた。
「怪盗である貴方が、何故IDOが危険物に指定する『プレシャス』を回収しようとするんです?」
 興味深げな眼差しを送るロストロングを、ストーンリバーは鋭い視線で受け止めた。
「貴様、何を企んでいる」
 低い声音で発せられた問いに、ロストソングは答えない。ストーンリバーは抜いた刀を中断に構えると、刃の向きを逆にした。
「ここヨコハマがアルセーヌ様の……我ら怪盗帝国のテリトリーと知っての所業か」
「今はまだ、貴方達と敵対するつもりはありませんよ。今は……ね」
 彼女は頬に手をあてたまま、微笑を返した。
「でもこの鏡は私のモノです。誰にも渡しません」
「ならば、奪うまで」
 ストーンリバーは冷ややかに告げると、ロストソングへと踏み込んだ。一瞬で間合いを詰め、彼女のわき腹めがけて刀を叩き込む。だがその刃が届く寸前、彼女は指を鳴らした。その乾いた音が消えるよりも早く、ストーンリバーの足下に烈風が巻き起こる。それは竜巻のように彼を包むと、彼の身体を宙に浮かび上がらせ、一気に天井へと叩きつけた。
「ふふ……、実に怪盗らしいお答えです」
 とっさに受け身を取ったものの、天井に強かに背を叩きつけられ、ストーンリバーの唇から苦悶の声が漏れる。しかし落下しつつも素早く体勢を整え、床に着地すると同時に刀を下段に構え、ストーンリバーは身を低くしてロストソングへと飛びかかった。
 再び、ロストソングが指を鳴らす。
 足下で渦巻く烈風を、竜巻へと形が変わる前にストーンリバーは一刀両断した。そのまま一気に間合いを詰め、懐へと飛び込んでいく。
 攻撃が破られると思わなかったのだろう。見開かれたロストソングの紅の瞳には、トイズの煌めきが宿っている。
 ストーンリバーは、頬をひきつらせるロストソングに刃を振るった。しかし寸前でロストソングは身を翻し、ぎりぎりで交わされる。ストーンリバーは流れるような動きで二太刀目を浴びせようとしたが、彼女の背後から現れた鏡に、一瞬動きを止めた。
 鏡には、僅かに両目を見開く己の顔が映っている。
 ストーンリバーの意識がロストソングから反れた僅かな一瞬、彼女が起こした竜巻で足下をすくわれた。烈風で浮き上がった身体は、勢いを増したまま数メートル先の柱へと叩きつけられる。
「ぐ……っ」
 強かに打ちつけられた身体は、しかし床にずり落ちることなく、宙に浮いたまま、壁に埋め込まんとするかのように、両手両足を大の字で押さえつけられた。首元には締め付けるような風圧が加わり、ストーンリバーの唇からうめき声が漏れる。
「今のは流石にひやりとしましたよ……」
 未だ刀を手落とさず、抵抗を見せるストーンリバーに、ロストソングは薄い笑みを浮かべた。
「私のトイズは、神の指(デウス・エクス・マキナ)。貴方はもう指一つ動かす事は出来ません」
 小さく息を吐くロストソングに、ストーンリバーは切れ長の眼差しで睨みつけた。
「ギリシア悲劇からとは、随分と御大層だな……」
「あら、ご存じでしたか」
 ロストソングは、紅の瞳を大きく煌めかせている。
「武闘派ときいていましたが、随分と教養がおありなのですね」
 噂や評判というのはあてになりませんね……と笑うと、ロストソングは背を向け、壁に掛けられていた鏡を取り外した。そしてストーンリバーに見せつけるように、胸の下で抱き抱える。
「そろそろですよ」
 ロストソングの言葉に、ストーンリバーは目を見開いた。
 鏡を構えて立つ彼女の横に、影が立ち上がったかのような黒いもやが現れた。陽炎のようなそれはすぐに輪郭を取り始め、一瞬でストーンリバーの姿となる。
 容姿は瓜二つではあったが、その眼差しはどこか虚ろだった。そしてよくよく目を凝らすと、背後の柱や床が透けている。
「随分と薄い影ですね」
 これではすぐに消えてしまいます、とロストソングは肩をすくめた。鏡に映った時間が短すぎたのかしら……とこぼし、小さく首を捻っている。
 鏡が作り出したストーンリバーは、虚ろな金の瞳を、傍らのロストソングへと向けた。

 ーーわた、しは、

 ストーンリバーと同じ、低い声音が微かに響く。

 ーーあの方の、側に居たい。あの方の力になれれば、それで……。

 囁くように言葉を続けながら、ロストソングへと一歩踏み出す。

 ーーだが、あの方は私を必要として下さるだろうか……。

 虚ろでありながらもどこか遠くを見つめるような眼差しに、ロストソングは眉をひそめた。
「これが、貴方の本心なのですか……?」
 風圧で柱に張り付けられた状態のストーンリバーへ、確認するかのような目を向ける。だが答える義理はないと、ストーンリバーは唇を真一文字に結んだ。
 ロストソングは仮面の下で狼狽えたような面もちを浮かべ、二人のストーンリバーを見比べている。
 ストーンリバーの影は、彼女へとまた一歩踏み出した。

 ーー全ては、あの方の為に……。

 節くれだった右手が、ロストソングへと伸ばされる。しかし彼女の肩先に触れる寸前、ストーンリバーの影は、乾いた砂の城が強風で飛び散るように崩れ落ち、跡形もなく消えた。
「何なのですか、今のは……?!」
 ロストソングは胸下の鏡を抱きしめ、声を微かに震わせた。その頬は強ばり、軽く目が見開かれている。
「こんな事、今まで一度も……っ。でも、あれではまるで……」
「だから言っただろう。それは危険なモノだと」
 風圧に締め付けられながらも、ストーンリバーは静かに告げた。
「いずれ、貴様には扱いきれなくなる」
「……そうでしょうか」
 ロストソングは軽く目を閉じると、大きく息を吐いた。そして真紅の瞳で、ストーンリバーを睨み返す。
「もう一度試せば分かること」
 ロストソングは胸下で鏡を構えると、ストーンリバーへとゆっくりと歩み寄った。
「フフ、貴方の影を作り出すのと、貴方が闇化するのとでは、どちらが面白い事になるでしょうね……」
「なに……?」
 唇の端を大きく持ち上げるロストソングに、ストーンリバーは頭を巡らせた。
 最初、彼女のトイズは竜巻を起こすものだと判断した。だが今は、サイコキネシスのように四肢を拘束され、身動き一つ取れなくなっている。
 以前目にした歌怪盗に関する報告書では、手段は不明だが、歌を奪われると、歌っていた本人がその歌を歌えなくなるだけでなく、CDを再生しても無音で、機械からもその歌の存在が消えるとあった。つまり彼女のトイズは、それら複数の事が出来ると考えた方が自然だろう。
 それは一体どういうトイズなのか。
 そしてどういうからくりなのか。
 まさか彼女が告げたトイズ名のように、何でもできるわけではないはずだ。
 だが、ロストソングから発せられる禍々しい気配は、より大きくなっていた。このままではまずいと、頭の奥で警鐘が鳴り響いている。
 ストーンリバーは、鏡を構えて近寄ってくるロストソングを見据えた。
 歌怪盗の事件が広がるとほぼ同時に、闇化現象というものが都内の至る所で発生している事は、ストーンリバーもアンリエットから見せられたIDOからの報告書で把握していた。それによると、その闇化現象の中心にいる人物を倒すと歌怪盗に盗まれた歌を回収でき、再び歌を復活させる事ができるという。つまり、歌怪盗によって盗まれた歌で、闇化現象が起きているということになる。そして彼女の口振りは、それを裏付けている。
 その事から、彼女がこれから己に仕掛けようとする事はうっすらと見当がついていた。
 だが、相手が鏡を構えている以上、人形化のトイズを使うことも出来ない。いっその事、己が人形化するのを覚悟して一か八かでトイズを使うのも有りかとは思ったが、彼女がトイズを使って己にしようとしている事は、人形化していても防げるかどうか危うい。
 ストーンリバーの脳裏に『万事休す』という言葉が浮かんだ。ずっと足掻いてはいるものの、風圧による拘束を振り切れないでいる。
 ロストソングの紅いの瞳が、強く煌めいた。差し出された右の掌の上に、黒い球体のようなものがうっすらと現れている。より強く首を締め付けられる感触に、ストーンリバーの息が詰まった。全身を走る痛みと息苦しさに、眉間の皺が深くなる。
「せっかくですから、両方試してみましょうか……!」
 ロストソングは声高にそう宣言すると、紅の瞳を大きく見開き、右手を頭上へと掲げた。と、その指先をかすめるように何かが投げつけられる。
 ロストソングは腕を振り上げた姿勢のまま、投げつけられた物が落ちた先へと目をやった。
 床に、トランプが一枚刺さっている。
「これは……っ」
 ロストソングは両目を見開くと、慌てた様子で跳び退いた。しかしその行動を読みとっていたかのように、「それっ」という軽快なかけ声と共に、複数の爆弾が投げつけられる。
 柱の影から身を踊らせるように飛び出したのは、ラットだった。
「きゃっ」
 小さな悲鳴が上がると同時に、ストーンリバーの拘束が解ける。ストーンリバーは柱から滑り落ちるように床に膝を突くと、大きく咳込みながらも刀を構えた。
「何してんだよ、ストーンリバー!」
 ストーンリバーの傍らに駆け寄ったラットは、怒ったような声音をあげた。しかし軽く眉を寄せ、心配げな面もちで彼を見下ろしている。
「珍しいね、君がデートだなんて」
 近くの柱の奥から姿を見せたトゥエンティは「アルセーヌ様に言いつけちゃおうかな」と軽口を叩いているが、その蒼い瞳は爆風の奥のロストソングを見据え、トランプを構えている。
「油断するな、二人とも」
 ストーンリバーは喉元を押さえつつも立ち上がると、刀の先をロストソングへと向けた。ロストソングは全く傷を負っていないようだったが、長い銀の髪とマントが、爆風で大きく揺れている。
「そろそろ上も決着がつくでしょうし、今が潮時ですね」
 ロストソングは両手で鏡を抱きしめると、軽く息を吐いた。先ほどまでの激昂した様子は消え失せ、冷静さを取り戻している。そして己と対峙するスリーカードを見据えると、微笑を浮かべた。
「またどこかでお会いしましょう?」
 その言葉と同時に、突風が叩きつけられる。反射的に、ストーンリバーは腕で目元を庇った。風圧が収まると同時に腕を下ろすと、ロストソングの姿は跡形もなく消えている。
「……礼を言う」
 ストーンリバーは軽く息を吐くと、両脇にいるラットとトゥエンティへ目をやった。
「どうしてここに……アルセーヌ様のご指示か」
「分かってるじゃぁないか」
 疑問を推測へと変えたストーンリバーに、トゥエンティは大きく頷いた。
「でもさぁ、お前、こんなとこで何してたんだ?」
 頭の後ろで両手を組んで見上げるラットに、ストーンリバーは軽く眉を寄せた。ロストソングが鏡を持って立ち去ったせいか、フロアに充満していた不穏な空気は消えている。だがそれに反比例するかのように、人の気配が増えつつあった。
「なぁなぁ、せっかくだしさぁ、大探偵トーナメントやらに俺たちが乱入して優勝をかっさらうってのはどう?」
 身を乗り出すラットに、ストーンリバーは小さく息を吐き、刀を鞘に納めた。
「それはただの目立ちたがりがする事であって、怪盗のする事ではない」
「ちぇっ」
 諫められ、ラットは「つまんねぇ」と唇を尖らせている。
「とりあえず話は後だ。今はここを離れるぞ」

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