サーセン
 

  潮の香りを含んだ柔らかな風が、月光に煌めく銀の髪を棚引かせた。黒のマントを大きく揺らし、ホームズ探偵学院がある小山の方へと吹き抜けていく。
 アルセーヌが背後のマリンタワーを見上げると、白い照明に巨体が照らされ、星の見えない夜空にうっすらと浮かび上がっていた。遙か上空の展望室は消灯され、マリンタワーの下部にあるビルも、既に営業を終了している。
 アルセーヌは、マリンタワー横のビルの屋上から、下部へと視線を落とした。街灯に照らされた車道には多くの自動車が行き交っていたが、人影はまばらだ。
 寝るにはまだ早く、しかし出歩くのには遅い時間帯。
 アルセーヌはマントを翻すと、みなとみらい方面へと顔を戻した。
 昼間であればくっきりと見えるランドマークタワーも、今はその白い巨体を夜の帳に沈めている。その手前では、遊園地の観覧車が色鮮やかに輝いていた。緑色に煌めいていたかと思うと、白い光に包まれ、青色へとゆるやかに色を変えていく。アルセーヌは観覧車を眺め、その上空へと目を移した。
 夜空にとけ込むように駆ける黒グライダーが、三つ。
 それは真っ直ぐにこちらを目指している。
 アルセーヌが腕を組んで暫し待つと、それらグライダーは鴉が翼を畳んで舞い降りるかのように、彼女の前へとふわりと降り立った。
「アルセーヌ様ァ、御自らお出ましにならなくてもぅ!」
 大げさな身振りと共に告げるトゥエンティに、アルセーヌは微笑を返した。
「夜風が心地良かったので、散歩がてら迎えに来ました」
 そしてマントをはためかせ、トゥエンティの横に立つストーンリバーへと目を向ける。彼はいつもの無表情を保っていたが、その金の双眸がアルセーヌを捉えると、気まずそうに目を伏せた。
「珍しいですね、貴方が単独行動だなんて」
「……申し訳ございません」
 ストーンリバーはアルセーヌへと目を向けると、深々と頭を下げた。
「貴方のことですから何か理由があるのでしょうが……詳しく訊かせてもらえるかしら?」
 アルセーヌが問い糺すと、ストーンリバーはアルセーヌを見つめ返し、深く息を吐き出した。
「きっかけは、大探偵トーナメントとかいう、イベント現場を中継していたTV番組です」
 そして僅かに眉を寄せると、言葉を続けた。
「そこに、人混みに紛れてはいたものの、タクト・レナードが確かに二人いました」
 ストーンリバーの説明に、アルセーヌは、エルキュールが同様の事を口にしていたのを思い出した。アルセーヌ自身はTVから目を離していた為、その決定的瞬間を目にはしていなかったが、おそらく二人して同じ光景を目撃したのだろう。
「誰だっけ、それ」
 ストーンリバーが口にした人名に、ラットが首を傾げている。アルセーヌが簡単に補足を入れると、思い出したかのように小さく頷き返した。
「そしてレポーターの背後に、数年前、月宮(つきのみや)神社から盗まれた社宝と覚しき鏡がありました」
 故に、確認しに行ったのだと言う。
「タクト・レナードが二人いた事と、その社宝の鏡には何か関係があるのですか?」
 アルセーヌが尋ねると、ストーンリバーは大きく頷いた。
「あの鏡には、トイズが宿っているのです」
 予想外の説明に、アルセーヌだけでなく、トゥエンティもラットも眉をひそめた。
「どういうことだい、それは」
「そんなものがあるの?」
 不思議そうに目を瞬かせるラットに、ストーンリバーは、希にトイズが宿った骨董品が現れると説明した。
「呪われたダイヤとか、魂が宿った人形とかあるけど、それはそういった類のものなのかい?」
「全く違う」
 大きく首を傾げるトゥエンティに、ストーンリバーは軽く首を振った。
「そういうオカルトじみた物ではなくてだな……。『ホームズの壷』といえば分かりやすいだろうか」
 ストーンリバーが例として挙げたものに、アルセーヌは頷いた。
 『ホームズの壷』は、かつての名探偵が、戦った怪盗のトイズを封じたものだった。資料でしかアルセーヌは目にした事はなかったが、ミルキィホームズ達の話によれば、学院の地下に封印されていたという。もっとも、見つけた直後に割れてしまったそうなのだが。
 どういう仕組みで相手のトイズを吸い取っていたのかは不明だが、壷そのものにトイズが宿っていたとすれば納得がいく。
「あの鏡は、写った人間を複製する危険な物なのです」
 そう結ぶストーンリバーに、トゥエンティが片眉を持ち上げた。
「それのどこが危険なんだい?」
 不思議そうな面もちで腕を組み、右の指先を顎へとあてている。
「もう一人のボクが現れるって事だよネ? 素晴らしいじゃないか!」
 欲しいなぁと目を輝かせるトゥエンティに、ストーンリバーは深く溜め息を吐いた。
「貴様ならそう言うだろうとは思ったが……」
 そんな良いものではないぞ、と口にする。
「伝え聞いた話によれば、あの鏡で作り出されたもう一人の自分は、本人に向かって秘めた本音を告げるという」
 心に秘めている本心をもう一人の自分にわざわざ指摘されるのは、あまり気持ちの良い事ではない。そう結ぶストーンリバーに、トゥエンティは軽く肩をすくめた。
「あぁ、それは確かに……ちょっとイヤだね」
 軽く口笛を吹き、苦笑を浮かべている。それを一瞥し、ストーンリバーはアルセーヌへと向き直った。
「故に、浄玻璃の鏡と呼ばれています」
「なるほど」
 アルセーヌは小さく頷き返す。
 仏教において、冥府の閻魔が浄玻璃の鏡を用い、死者の生前の行いを写すと言われている。おそらくそれに由来して名付けられたのだろう。
「そしてもう一つ、トイズを持つ者があの鏡に写った場合、トイズごと複製されてしまうのです」
「それは、どういう……?」
 思わず尋ね返し、しかしすぐその答えに至り、アルセーヌは軽く息を呑んだ。
「もし、隠した本心がトイズを使って思う存分暴れたいとなると……」
「トイズを駆使して暴れるでしょう」
 ストーンリバーは、軽く眉をひそめた。
「その場合、どうすれば……?」
「鏡で複製された者は、倒せば消えると聞いています」
 だが、己の本心を見透かしているだけでなく、同じトイズを使える以上、生半可な相手ではない。
「文字通り、もう一人の自分と戦うことになるわけですね……」
 アルセーヌの出した結論に、ストーンリバーは小さく頷いた。
「それで回収に向かったのですが……」
 推測通り探していた社宝ではあったが、現在の鏡の所有者である怪盗ロストソングに阻まれたのだという。
 ストーンリバーの「回収」という言い回しに、アルセーヌは仮面の下で柳眉を寄せた。
 何故「盗む」や「奪う」ではなく「回収」なのか。おそらく、怪盗帝国に参加する前の彼の過去に関わる事なのだろう。それを追求すべきか僅かに迷い、しかしアルセーヌは唇を結んだ。
「でもさぁ、ロストソングだっけ? その鏡を使って何をしてたんだ?」
「さぁ。私にはわからん」
 両手を頭の後ろで組むラットに、ストーンリバーは、小さく息を吐いている。部下達の会話に耳を傾けながら、アルセーヌは胸の下で腕を組んだ。
 レナード探偵事務所の新所長は、怪盗ロストソングとライバル関係だったときく。とすると、まさか己のように、目を付けた探偵をライバルとして鍛え上げようとしているのだろうか。
 まさか、とアルセーヌは胸の内で否定すると、仮面の下で苦笑いを浮かべた。
「そうえいば、怪盗ロストソングはどのようなトイズを?」
 尋ねると、ストーンリバーが口を開いた。その端的な説明によれば、ただ竜巻を起こすだけではないらしい。
 彼女が自らのトイズを「神の指(デウス・エクス・マキナ)」と呼んだ事に、アルセーヌは軽く目を見開いた。
「それはまた、随分と仰々しいネーミングですわね……」
「ねぇねぇアルセーヌ様、そのデウス何とかって、何?」
 大きく目を瞬かせるラットに、トゥエンティは大きく肩をすくめてみせた。
「おや、君はそんな事も知らないのかい?」
「なんだとっ」
 小さな笑い声をあげるトゥエンティに、ラットはくってかかっている。二人のやりとりに、ストーンリバーは右の指先でこめかみを押さえた。
「古代ギリシア悲劇で用いられた、演出技法の一つだ」
 ストーンリバーはこめかみを押さえたまま深く息を吐き出すと、言葉を続けた。
「訳すと『機械仕掛けから出てくる神』だな。大きな機械仕掛けの装置……今で言うクレーンみたいなものに乗って『神』が舞台に現れ、こじれた物語を一気に収束させる技法だ」
「へぇ……?」
 今でいう「夢落ち」や「超展開」みたいなものだとトゥエンティが補足すると、ラットは、納得したようなそうでないような、曖昧な表情を浮かべている。
「それってつまり、何でもありなトイズってこと?」
「さぁ……どうだろうな」
 ストーンリバーは顔をしかめた。
 そんな便利で強大なトイズは、アルセーヌも聞いたことがない。だが、判断するにはファクターが足りなさすぎる。
「用心するに越したことはありません」
 アルセーヌは微笑を浮かべた。
 怪盗ロストソングが何を計画し、闇化事件にどう関わっているのかは不明ではあるが、怪盗としての自分達の行動や信条が変わるわけではない。
「では、そろそろ帰りましょうか」
 アルセーヌがマントを大きく翻すと、三人の部下はそれぞれ頷いた。

<了>


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