朝陽に照らされて乾いた風が、小林の頬をすうっと撫でた。周囲の木々を揺らし、ざわざわと枝が揺れている。
 小林は、頭上を仰いだ。
 旧校舎と新校舎を繋ぐ渡り廊下が視界に入り、その先には青い空が広がっている。新校舎の壁が陽射しを反射して白く輝き、その眩しさに小林は目を細めた。そして視線を落とし、再び渡り廊下へと視線を落とす。
 今思えば、ここが二人の出会いの場所でもある。
 小林は所存なさげに頭をかくと、左腕を軽く持ち上げ、腕時計へと目を向けた。待ち合わせの時間には、まだ若干早い。
 シャーロックとは、イシカワチョウ駅に近いこの裏口で待ち合わせることになっていた。イシカワチョウ駅から電車でオオフナ駅まで向かい、そこから湘南モノレールに乗ってエノシマに向かう算段にしている。
 昨夜ネットで調べた道順や評判の店を脳裏に描き、シミュレーションしていると、背後から駆け寄る小さな足音が耳に届いた。そして馴染みある、妙に間延びした朗らかな声が響く。
「小林せんせー!」
 うきうきとしたシャーロックの声に小林は振り向き、大きく目を見開いた。
 シャーロックは、桜色のワンピースに、白の薄いカーディガンを羽織っていた。そして花柄模様のポシェットを、肩から斜めに掛けている。しかし髪はいつものようにリング状には結ばず、いつもの黄色いリボンを使って、後頭部で一括りにしていた。
「どうしたんだい、その髪型」
「えへへ、似合ってますか?」
 初めて見るシャーロックのポニーテール姿に小林が目を瞬かせると、シャーロックは満面の笑みをこぼした。
「コーデリアさんが結んでくれたんです!」
 そして、その場でくるりと回ってみせる。
「へぇ。とても良く似合ってるよ」
 小林が素直に感想を口にすると、シャーロックは照れ笑いを浮かべた。
「ところで先生、今日はどこに行くんですか?」
 話の流れで行き先は小林に一任されていたので、シャーロックにはまだ、どこに向かうか説明していない。小林がエノシマ水族館に向かう事を告げると、シャーロックは丸い目をさらに丸くし、青い瞳を輝かせた。
「私、水族館は初めてです!」
「そういえば……僕も初めてかも」
「そうなんですか?」
 小首を傾げるシャーロックに、小林は小さく頷いた。物心ついた頃から探偵として活動していたせいか、両親に連れていって貰ったとか、友達と一緒に行ったという思い出自体があまりない。
「動物園なら、神津と回ったことはあるんだけど」
 並んで裏口の階段を下りながら、小林は学生時代の思い出を口にした。
「二人で遊びに行ったんですか?」
「いや、確か学校行事だったと思うよ」
 遠足だったかなぁ、と、二人で他愛のない会話を続けていく。
 石段を下り、坂道を進んでやがてイシカワチョウ駅に辿り着くと、小林は二人分の切符を買った。そしてシャーロックへと手渡し、改札を抜けてホームへと上がっていく。
「先生、これオオフナ駅までですよ?」
 ホームに立つと、シャーロックは不思議そうに小首を傾げた。
「フジサワ駅かカマクラ駅じゃないんですか?」
「いや、オオフナ駅で良いんだ」
 小林が微笑を返すと、シャーロックは、切符に記された行き先と小林を交互に見比べていたが、すぐににぱっと満面の笑みを浮かべた。それ以上は深く訊ねず、不安な様子もない。それが信頼から来ているのだと感じ、小林は頬が熱くなるのを感じた。
 ーーデートだから、手を繋いだ方が良いのかな。
 ふとそんな考えが浮かび、いや、でも……と躊躇う。
「先生、どうかしたんですか?」
「い、いや、何でもないよ」
 不思議そうに見上げるシャーロックに、小林は慌てて誤魔化した。冷静に考えると、女の子と手を繋いで出掛けるといった経験すらない。これなら探偵業の傍ら、ちゃんとした学生時代を過ごすべきだった……と密かに頭を抱えていると、ホームに電車が滑り込んできた。
 二人で連れ立って、車内へと乗り込んだ。土曜の午前中ではあったが、乗客は少なく、小林とシャーロックは並んで腰を下ろす。
 シャーロックが語る学院の出来事に耳を傾けているうちに、オオフナ駅に到着した。二人で改札を出て、有名な観音像がある表側とは逆の方へと進んでいく。
 駅と併設されたショッピングモールを抜けた頃には、シャーロックも小林が向かう先に感づいたようだった。
「湘南モノレール?」
 遙か頭上の案内板に目を向け、シャーロックは好奇心に満ちた声音で尋ねた。
「先生、モノレールって何ですか?」
「あ、やっぱり乗ったことなかったんだね」
 小林は、予測が当たったことに安堵した。
「チバやタチカワ方面にはあるんだけど、結構珍しいかもしれないね」
「へぇ〜。先生は乗ったことあるんですか?」
「うん。大分昔に、数回しかないけれど」
 シャーロックの言葉に頷きながら、小林は足を進めた。
 古人曰く、百聞は一見にしかず。 
 あれこれ説明するより先に見て貰った方が良いだろうと考え、敢えて説明はしないで乗り場へと向かう。そして到着すると、終点までの切符を購入して、一緒に改札を抜けた。
 ホームにはそれなりに人が集まっている。間もなくモノレールが入ってくるのだろう。
 シャーロックは、線路がないホームを不思議そうに見渡していたが、ゴトゴトと小さな音を響かせてモノレールが滑り込んでくると、目を見開いた。
「電車がぶら下がってますー!」
 車体は電車と大差ないが、屋根の上にはぶら下がるような大きな取っ手が伸び、線路代わりのレールをしっかりと握っている。
 扉が開くと、他の乗客に続いて二人は乗り込んだ。
「ほら、シャーロック」
 小林は、空いているボックス席にシャーロックを手招きすると、進行方向を向いた席に彼女を座らせた。そして自分は、その向かい側に腰を下ろす。
「なんだかドキドキします!」
 声を潜めながらも、シャーロックは興奮した面もちで車内を見渡した。それが何だか微笑ましくて、小林も釣られたように笑みを浮かべる。
 やがて扉が閉まり、発進音が響くと、モノレールがゆるゆると進み始めた。座席に座っていても、足下がぶらぶらと揺れて心許ない感触がある。
「思ってたよりも速くてビックリです!」
 シャーロックは窓へと顔を寄せた。
 モノレールは住宅街に挟まれた山間を進んでいるが、真下は車道になっている。
「これに乗ったら、乗り換えなしでエノシマまで行けるんだ」
 モノレールを追い越している自動車を見下ろしながら、シャーロックは小林の説明に耳を傾けている。なんだか遠足みたいです、と笑うシャーロックに、小林もそうだね、と頷いた。
 そうして幾つかの駅を過ぎ、終着駅の一つ手前で、小林は窓辺を指さした。
「見ていてごらん、シャーロック」
 そろそろだからと告げると、モノレールは真っ暗なトンネルへと入った。やがて滑るように抜けると、住宅街が広がる山間の向こうに水平線が広がっている。きらきらと陽射しを反射している水面には、白い三角帆が幾つも浮いていた。
「うわぁ、海です〜!」
 突如開けた景色に、シャーロックは目を輝かせている。
 やがてアナウンスが終着駅であることを告げると、車体は滑るようにホームに止まった。終点の湘南エノシマ駅は乗車と降車でホームが分かれていて、降車ホーム側の扉だけが開けられる。小林とシャーロックは連れ立ってモノレールから降りると、地上へと続く長い階段を下りた。出口へと辿り着くと、乾いた風がふわりと頬を撫でていく。
 小林はシャーロックと並んで、エノシマへと続く道を進んだ。駅前から海辺へと続く道は観光客で溢れており、エノデンのエノシマ駅を過ぎると、さらに人口密度が上がっていく。
 シャーロックは、落ち着きなく周囲を見渡しながら足を進めていた。だが小柄なせいもあって、すれ違う人や追い越していく人とぶつかりそうになっている。危なっかしいな、と小林は彼女の手を取ろうとしてーー触れる寸前で止めてしまった。
 どうということのない仕草のはずなのに、いざ行動に出ようとすると、どう握ればよいのか意識してしまい、頭の中で思考がぐるぐると回っている。
 指を交互に絡ませるような、いわゆる恋人繋ぎはまだ早いだろうか。けれど一応付き合っているのだし、彼女も今日のコレがデートだと認識しているのだから……と考え、いやいやと首を振る。
 そもそも人前で自分と手を繋ぐことを、シャーロックはどう思っているのだろう。それがたまらなく不安で、もし自分と手を繋いで歩いているところを誰かに写真にでも撮られて、あの小林オペラが教え子に手を出した、という噂が流れてしまっては、シャーロックが困るだろう。けれどやましいことは何もないのだから、堂々としていれば良いのではないかとも考えてしまう。
 小林は、急に周囲の人間の視線が気になってきた。と同時に、自分を観察するかのような鋭い眼差しを感じ、小林は何気なさを装って道の端に寄り、足を止めて振り返った。
 石畳の道は車一台分の幅しかなく、駅へと向かう人、エノシマ方面へ向かう観光客で賑わっていた。そして道の両側には、普通の住宅に混じって、観光客目当ての店が点在している。
 小さな子供を連れたり、ベビーカーを押す家族連れの姿が目立ったが、道行く人の大半は男女の二人連れだった。派手な柄のシャツを着た青年と、夏を先取りしたような薄着の女性が、昼食をどこで食べようか相談しながら小林の横を通り過ぎていく。一方で、正面のワッフル屋の軒先では、身長差のあるカップルが腕を組み、何を買おうか物色していた。その楽しげな様子に、手を繋ぐだけでなく腕を組むという選択肢があることを小林に思い出せる。
 彼らのように腕を組んで歩く自分とシャーロックを想像したが、手を繋ぐより難易度が高く感じられ、小林は内心溜め息を吐いた。
「先生、どうかしたんですか?」
 シャーロックも足を止め、小首を傾げながら振り返っている。
「あ、いや。なんでもないよ」
 小林は慌てて笑みを返すと、シャーロックの隣へ大股で歩み寄った。
 見知った顔も、不審そうな人物も見当たらない。不安が杞憂であることを確認し、小林は安堵の息を漏らした。
 二人並んで道を進んでいくと、名物のしらすを出す飲食店が目立つようになった。それはお洒落なイタリア料理店だったり、昔ながらの和風の店構えだったりで、まだまだ昼食には早いものの、看板の前で足を止めている人も見受けられる。
 シャーロックがそれらに目移りしていると、前方から子供達が数人駆けてきた。鞄を肩から斜めにたすき掛けにして、慌てた面もちで駅へと向かっている。
 シャーロックは、慌てて道の端へと寄った。が、石畳に足を取られ、転びそうによろめく。
 小林は反射的に手を伸ばし、彼女の手を握って自分の方へと抱き寄せた。
「大丈夫かい、シャーロック」
「あ、はいっ」
 シャーロックが満面の笑みを浮かべ、小林を見上げている。
 小林が来た道を振り返ると、少年達は人の間を縫うように走っていた。余程慌てていたのか、先頭の少年が、先ほどワッフル屋前で見かけた身長差のあるカップルにぶつかりそうになっている。が、男の方が連れの黒髪の少女を胸元に抱き寄せ、事なきを得ていた。すれ違いざま、後に続く少年の一人が、ワッフル片手に帽子を目深に被った黒髪の少女に向かって「ごめんなさいっ」と、拝むように片手を上げている。
「ビックリしました〜」
 シャーロックは駆け去った少年達の後ろ姿を見送ると、ほう、と息を吐いた。
「そうだね」
 小林も頷き返し、彼女の肩から手を離した。そしてすれ違う人の多い左側に立ち、彼女の左手を握る。
「先生?」
 シャーロックは大きく目を瞬かせ、小林の顔を覗き込んだ。その表情で、自分が今無意識に何をしたのか気付き、小林は密かに慌てた。
「えっと、その……こ、転んだら危ないから」
 すぐに手を離すべきかとも一瞬考えたが、それも不自然な気がして、逆に強くシャーロックの手を握ってしまう。
「これなら転ばないし、人が多いから、はぐれないようにっていうか」
 彼女の掌は小さく、柔らかく、温かい。
 心臓をバクバクさせながら小林がシャーロックを見下ろすと、シャーロックは緊張した面もちで、小林をじっと見返していた。しかし嫌がっている気配はなく、その頬はうっすらと赤い。その表情は、普段と違って少しだけ大人びて見え、小林は息を呑んだ。そして彼女の青い瞳を見下ろし、唇を開く。
「えっと、そうじゃなくて……ほら、その、デートだから……?」
 しっかり告げるつもりがしどろもどろの口調になり、最後には疑問系になってしまう。しかし「デート」という単語が小林の口からこぼれると、シャーロックは恥ずかしそうに唇の両端を大きく持ち上げた。
「私も、先生と手を繋ぎたいです」
「そ、そう?」
「はい!」
 シャーロックは照れ笑いを浮かべると、小林の手をしっかりと握り返してくる。彼女の明確な意思表示に、小林も眦を広げた。そして二人で手を繋ぎ、細い路地を進んでいく。
 エノシマ弁財天への道筋を示す昔の石碑を通り過ぎると、徐々に道幅が広くなった。ふわりと前髪を揺らす風に、微かな潮の香りが混じってくる。
 そして昔ながらの射的屋の前を通り、大きなコンビニを過ぎると、土産物屋が並ぶ広場へと出た。眼前には広々とした車道と、その下をくぐり抜ける地下道が伸びている。そして左右に伸びた車道の奥には、緑に包まれたエノシマへと続く車道が交差し、両側には青く煌めく海面が広がっていた。そのエノシマの木々から突き出るように、蝋燭の形のような細長い鉄骨の建物が姿を見せている。
「わぁ、海です〜」
 シャーロックは小林の手をぎゅっと握り、感嘆の声をあげた。顔を輝かせて見上げてくる彼女に、小林もつられたように笑った。
 上空へと目を向けると、カラスよりも大きな鳥が真っ直ぐに翼を広げ、弧を描いている。
「先生、あれってカモメ……じゃないですよね?」
「あれはトンビかな」
 小林は手を繋いだままシャーロックを先導し、地下通路へと足を向けた。ちょうど道路の真下は円形の広場となっており、周辺の観光情報や道案内が壁に描かれている。小林は真っ直ぐに進むと、三叉路になっている広場の先で右へと曲がった。そして階段を上がると、先ほど見えた車道の対岸へと出る。
 観光客を想定して広めに取られた歩道を歩きながら、二人はゆっくりと進んだ。片瀬橋を渡り、しばらく道なりに歩いていくと、ようやく水族館が見えてくる。
「先生、行きましょう!」
 はやくはやく、と急かすシャーロックに、小林も思わず笑みをこぼした。
「慌てなくても、別に水族館は逃げたりしないよ」
 それでもシャーロックに引っ張られるように、徐々に足早になってくる。
 水族館の入り口に立つと、シャーロックは物珍しそうに建物を見渡した。
 エノシマ水族館は、巨大な正方形と長方形の箱を二つ並べ、その上に円形の屋根を乗せたような外観をしていた。しかし奥にある箱の方は、かなり横長い。一階には軽食が食べられるレストランと水族館のグッズを取り扱うショップが入っていて、そちらが出口になっていた。一方、入り口は手前の正方形の建物の方にあって、建物の外側に多くの券売機が並んでいる。混雑する時期は、ここに長蛇の列ができるのだろう。
 そして、正方形と建物と長方形の建物を繋ぐ通路が頭上にあった。どうやら正方形の建物に入ってすぐに二階へと上がり、長方形の建物の二階へと移動するらしい。さらにその通路の下からは、正面の砂浜へと抜けられるようになっていた。階段を数段下がっただけで砂浜に出て、数メートル先には、寄せては返す波間が広がっている。
 シャーロックは、目を輝かせた。
「後で砂浜にも行きましょう! ねっ、先生!」
「そうだね」
 小林も頷き返し、まずは券売機へと向かう。ボタンを操作して二枚買うと、絵柄が違う入場券が出てきた。一つは水槽の中に潜ったペンギンの写真で、もう一つは球形の水槽の中に、小さな白いクラゲが何十匹も浮いている。
 その二つを見比べ、小林は、ペンギンの方のチケットをシャーロックに手渡した。
 そして入り口に入って半券を切って貰うと、エスカレーターを上がっていく。
 二階は、足元まで大きなガラス窓がはめられた通路になっていた。正面の砂浜が一望でき、海岸線が遙か先まで続いている。そこに設置された案内図によると、よく晴れていれば富士山が見えるようだった。しかし今は青空が広がっているものの、下の方は白く薄い霞のようなものが広がり、山の輪郭すら浮かんでいない。
 「見えないね」と二人で会話を交わしながら、道順に沿って通路を進んだ。通路は屋内からすぐに野外へと出て、先ほど下から見上げた通路へと続いている。そこを渡って長方形の建物へと入ると、まずは潮だまりや浅瀬の生物が特集されている展示室だった。岩場を再現したような浅い水辺にヒトデが張り付き、水の中のイソギンチャクがゆらゆらと揺れている。
 大勢の人に混じり、水槽を眺めながら進んでいくと、通路が急に薄暗くなった。照明は最小限に抑えられ、夜道を歩いているかのような雰囲気となる。
 シャーロックが、触れていた小林の掌をぎゅっと握った。それに応えるように小林もそっと握り返すと、シャーロックが小林を見上げ、えへへとはにかんでいる。その笑顔を見つめていると、デートしているんだな……という実感が、小林の胸中に沸き上がってくる。
 小林はそわそわしつつも、シャーロックの歩調に合わせて足を進めた。自分の頬が妙に熱く感じられ、小林は空いている片手で口元をそっと押さえる。
 おそらく今の自分は、知り合いに見られたら凄く恥ずかしい顔になっているに違いない。しかしこの薄暗さなら、隣のシャーロックにも分からないはずだと安堵する。
 人の流れに乗って角を曲がると、水面ぎりぎりをゆらゆらと泳ぐエイの姿が目に入った。水面との境がちょうど目の高さにあるが、水槽の下の方へ目を移すと、底が見えない。かなり大きな水槽のようだと感じながら緩やかな下り道を進むと、広々とした空間に出た。
 通路は緩やかなカーブを描き、下り道に沿って水槽が何個も並んでいる。しかしその反対側は吹き抜けになっており、巨大な水槽が設置されていた。学院の二階まで入る程の高さがあり、水槽の上部には、巨大なエイやウミガメ、小型のサメが悠々と泳いでいる。そして下の方では、多数の鰯が銀色の固まりとなり、蒼く輝く水中でくるくると旋回していた。
「すごい……」
 初めて見る光景に、小林は目を丸くした。
 水槽の前では、子供たちがガラス戸に手を突き、目を輝かせて巨大な水槽を見上げている。呆然と柵の前で見下ろしていると、シャーロックに手を引かれた。それに誘導されるように、小林はスロープを下って、水槽の近くへと寄る。
 青く照らされた巨大な水槽には、大小様々な魚が泳いていた。水槽の中は海中の様子が再現され、突き出た大岩の下部は、苔のような海草で覆われている。底にはベージュ色の砂が敷き詰められており、奥の岩場では、蛇のようにくねくねと蠢く褐色の紐のようなものが見えた。おそらくウツボだろう。
 水面の方を見上げると、上部の対岸辺りに水槽を覗く人々の上半身が見え、先程覗いていたのはこの水槽の上部だったのだと気付かされる。
 透明な板の前では、大きなフグがぷかぷかと漂っていた。その上を、ひとかたまりになった鰺がすっと通り過ぎていく。
 圧倒的な蒼の煌めき。
 それはシャーロックの瞳にも似ていて、でも彼女の青は海よりも空の青だ……と隣へ顔を向けると、シャーロックの青い眼差しとぶつかった。
「な、なんだい?」
 じっと見られていた事に気付き、気恥ずかしさに小林が密かに慌てていると、シャーロックはにぱっと笑い返した。
「先生が、すっごくキラキラした目をしてたので、見てましたー」
「そ、そうかな?」
「そうですよー」
 朗らかな声音で、シャーロックが声を潜める。
「いつもは大人っぽい先生が、ちょっと子供っぽかいかなーって」
 冗談めかして告げるシャーロックに、小林は苦笑いを浮かべた。
「そ、そうなんだ……?」
「先生の意外な一面が見られて、楽しいです!」
 囁くような声音で、シャーロックは大きく頷いた。そのきりりとした笑顔が妙に大人びて見え、小林は見入ってしまう。
 きっとこの少女は、やがて自分の横に並び立つどころか、さらなる高みへと飛び立つだろう。その時、自分は彼女にふさわしい男にーー探偵になれているだろうか。
 そんな取り留めのない思考が、脳裏をよぎっていく。
 無言で見下ろす小林を、シャーロックは不思議そうに見上げていた。が、そのまま視線を移さない小林に困惑した面もちを浮かべ、わたわたと焦った表情へと変わる。
「あの、先生……?」
 そんなに見られると恥ずかしいですぅ……と狼狽える彼女の声でようやく我に返り、小林は慌てて顔を背けた。
「え、えっと。あっちに大きなサメの水槽があるみたいだから、そっちにも行ってみようか」
 取り繕うように咳払いし、シャーロックの手をゆっくりと引くと、「はいですー」とトコトコとついてくる。
 巨大なサメが泳ぐ水槽や足が長いカニの水槽、熱帯魚でカラフルな水槽を過ぎると、一段と暗いエリアへと出た。周囲の水槽にはカラフルなクラゲがぷかぷかと浮かんでいる。どうやらクラゲを中心に集めたエリアらしい。
 エリアの反対側は広場になっており、天井がプロネタリウムのように淡く照らされている。その中央には、ボール形の水槽が置かれていた。中には、小さくて白いクラゲが無数に漂っている。
「うわぁ、すごくキレイです〜」
 目を輝かせるシャーロックに、小林も頷いた。入場券にあった写真はここのものだったのだと、一人納得する。
 水槽の前では、一緒に写真を撮るカップルも多かった。それを見つめるシャーロックの横顔がなんだかうらやましそうで、小林は思わず口を出してしまう。
「シャーロックもツーショットが撮りたいのかい?」
「えっ、いいんですか?!」
 シャーロックは声を弾ませた。瞳をきらきらとさせ、嬉しそうに小林を見上げている。小林は頬をかきながら、視線を揺らした。
「ほら、せっかくだし……」
「有り難うございます〜!」
 シャーロックは、肩から下げた鞄からいそいそとPDAを取り出した。
「ネロに教えて貰ったんです〜。ここをこうすると、自分撮りができるって」
 そしてPDAを構え、いそいそと小林に体を密着させる。
「先生、ほら、笑って笑って」
 シャーロックに促されるまま、小林も笑みを浮かべようとした。が、二人並んで写真を撮るのは妙に気恥ずかく、結局照れ笑いのような感じになってしまう。
 一方シャーロックは、PDAを両手に抱え、背後のクラゲのボールと自分たちが綺麗に納めようと奮戦していた。が、巧くいかないようで、悪戦苦闘している。おそらく身長差があるせいだろう。
「貸してごらん、シャーロック」
 小林はシャーロックからPDAを受け取ると、代わりにボタンを操作した。何度か撮影して彼女に返すと、満面の笑みと共に礼を告げられる。
「さすが先生です〜」
 よく分からない感心のされ方に、小林は苦笑を浮かべた。そしてボール型の水槽から離れ、壁際に寄ってからシャーロックの手元のPDAを覗き込んだ。
 何枚かはぶれていたが、蒼く輝く球体の前で肩を並べる二人が綺麗に写っている。小林は、PDAを操作していたせいか僅かに眉を寄せ、唇の両端を持ち上げただけの笑みになっていたが、その隣ではシャーロックがカメラ目線でにこにこと笑っている。
「ねぇ、シャーロック」
「なんですか?」
「あ、後でその写真、僕のPDAにも送って貰っても良いかな……?」
「もちろんですー!」
 シャーロックは手早くPDAを操作すると、小林のメールアドレスを呼び出し、ぶれていない写真を数枚添付して送信ボタンを押している。やがてピコンという小さな音と共に、「送信が終了しました」というメッセージが表示された。
「出来ましたー!」
「ありがとう」
 まさかその場で行動するとは思わず、小林は胸元から自分のPDAを取り出した。手早く操作すると、メールが到着した旨を知らせるテロップが表示されている。そのままメールソフトを機動させて確認すると、シャーロックからのメールが確かに届いていた。
 件名は、「小林先生へ」。
 そしてそれをクリックして本文を表示させると、クラゲの水槽前で撮影した写真が数枚並んでいる。そしてその一番下には「大好き」という文字と、大きなハートの絵文字が添えられていた。
 小林は、一気に頬が熱くなるのを感じた。
 いつの間に文字を打ち込んだのだろうという驚きだけでなく、あまりにも不意打ちすぎて、どう返せば良いのかわからない。
 小林は震える指先を必死に制御してPDAを再び胸元にしまうと、おそるおそるシャーロックへと視線を戻した。シャーロックは、いたずらを仕掛けた子供のようにはにかんでいたが、視線が合うと、急に恥ずかしそうに目を伏せている。
「あ……あのね、シャーロック」
 震えそうになる声音を懸命に押さえながら小林が囁くと、思っていたよりも低い声音となり、シャーロックはびくりと肩を震わせた。
 怒られると思ったのかもしれない。
 そう思うと、後頭部で結ばれたリボンも、心なしかしょんぼりと垂れているようにも見えてくる。
 小林は「かなわないなぁ」と苦笑いを浮かべると、彼女の耳元にそっと唇を寄せ、右手で口元を隠した。そして周囲に漏れないよう、聞こえるか聞こえないかの微かな声で、柔らかに告げる。
「僕もだよ」
 すると、シャーロックは足元を見下ろしたまま、顔がみるみると赤く染まっていく。何故かもの凄く恥ずかしい事をしたような気がして、小林は小さく咳払いをした。
「つ、次の部屋に行こうか」
 シャーロックの手を引き、壁際から出入り口へとゆっくりと足を進めていく。
 そのクラゲの展示室の出入り口で、見覚えのある顔とすれ違ったような気がして、小林は振り返った。部屋を見渡すと、カラフルなクラゲの水槽前で足を留めている黒縁眼鏡の青年と、帽子を目深に被った黒髪の少女が目に入る。
 ワッフル屋の前で見かけた、身長差のあるカップルだった。どうやら彼らも、小林達と同じように水族館が目的だったらしい。
 少女の方は興奮した面もちで、碧の眼差しをボール状の水槽へと注いでいた。指で指し、傍らの青年に向かって何か囁いている。
 だがその横顔が譲崎ネロを彷彿とさせて、小林は眉を寄せた。彼女がここにいるわけはないし、何しろ彼女の髪の色は亜麻色だ。ましてや見知らぬ青年と一緒なのだから、彼女のわけがない。
 そう結論づけ、小林は恋人らしき隣の青年へと視線を移した。ストライプ柄のシャツを身につけ、少し長めの黒髪が肩に届いていたが、さらさらとしていて不潔感は全くない。肩には少し大きめの白いトートバックを掛けているが、特に模様もないそれは、連れの少女のものではないかと思わせた。
 どこにでもいる大学生ぽい雰囲気だったが、黒縁眼鏡の奥から時折覗く金色の柔らかな瞳は、どこかで見覚えがある。しかしそれが誰なのか、とっさに出てこない。どこで会ったことがあるのだろう……と密かに記憶を辿っていると、「先生、こっちです〜」とシャーロックに強く腕を引かれ、中断された。
 腕を引かれるままエレベーターで上の階に上がると、真っ暗だった下とは違い、天井や壁のガラス戸から明るい陽射しが注いでいる。そのまま順路に従って通路を進むと、やがて広場へと出た。段差がついたホールのようになっており、その周囲には柵が巡らされている。そしてガラス戸の向こうには、多くのペンギンがトコトコと歩いたり、プールに潜って泳いだりしていた。
「わぁ、ペンギンがいっぱいいます〜!」
 シャーロックは、周囲の子供たちと一緒になってガラス戸手前の柵を握り、食い入るように見つめている。
「可愛いです〜!」
 頬を緩めるシャーロックの横顔を見下ろしながら、小林は水槽を見つめた。水槽の中に岩場が再現され、ペンギンはそこを歩いたり、水辺に飛び込めるようになっている。そして水辺は深いプールになっており、階段状になっているホールからは、ペンギンが水中で泳ぎ回っている様子が観察できるようになっていた。
 ペンギンは特に子供に人気がある為か、これまでの水槽の中で一番混雑している。小林は前へ前へと押し掛ける子供達に場所を譲って、後方の壁際へと寄った。そして周囲の掲示を見渡すと、水槽にいるペンギンの説明だけでなく、飼育員による餌やりを何時に行うといった告知もされている。
 小林は、ペンギンの餌やりショーの告知で目を留めた。そこにはイルカショーの案内も併記されており、腕時計で確認すると、十五分後に始まるようだった。一方で、ペンギンの餌やりはちょうど十分前に終わったらしく、次は二時間後となっている。
「シャーロック」
 小林は、シャーロックを手招きした。その声と所作に気付いたシャーロックは、柵前を抜け、小首を傾げながら小林の元へと寄ってくる。
「もうすぐイルカショーをやるみたいだけど、見に行ってみるかい?」
 小林の言葉に、シャーロックは顔を輝かせた。
「この通路の先に、イルカのプールがあるみたいなんだけど」
「行きます〜! 見たいです!」



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