ふたりの約束
「何故私に?」
「それが、その……他に相談できそうな人がいなくて」
 大きく眉を寄せ、やや俯き加減に視線をさまよわせる小林を一瞥すると、石流は蛇口を捻り、勢いよく水を出し始めた。
「何も私でなくても……そうですね、例えば二十里先生とか」
 そう口にし、しかしすぐさま顔を曇らせる。
「いえ、アレに相談する方が無謀でしたね」
 鍋についた洗剤の泡を洗い落としながら、深い溜め息を吐く。その言葉を否定すべきか肯定すべきか迷い、しかし石流に相談を持ちかけた時点でそれを肯定しているようなものだったので、小林は取り繕うように力なく笑った。
 二十里海は、脱ぎたがりのナルシストという一面さえ覗けば、決して悪い教員ではない。むしろ遠慮がちな他の職員に比べ、小林には同年代の気さくさで話しかけ、何かと世話を焼いてくれている。そのおかげで取っつきやすくはあったが、きらびやかな己の容姿を誇る奇抜な言動には、流石の小林も気後れしていた。むしろ、感情をあまり表に出さないものの、口数が少ない石流の方が落ち着ける感じがする。
「すみません……」
 カウンター越しに小林が頭を軽く下げると、石流は蛇口を捻って水を止めた。そして鍋を逆さにし、流しの上の棚へと置く。
 夕食が済んだ食堂には、小林以外には、翌日の仕込みの準備をする石流の姿があるだけだった。昼間は生徒達で賑わうテーブル席も今は電灯が消され、大きなガラス窓からは淡い月光が射し込み、染み一つ無いテーブルクロスを白く浮かび上がらせている。その中で唯一、厨房付近だけが煌々と照らされていた。鍋が煮立つ音や、パン生地をこねているであろう機械の音が、定期的に低く唸っている。
「いえ。私で宜しければ」
 別に迷惑ではないと言いたげに、石流は僅かに目元を緩めた。そして腰元のエプロンで濡れた掌を拭うと、小林にカウンターチェアを勧める。小林がそれに腰掛けると、銀色の巨大な冷蔵庫へと向かった。中から、液体が半分程詰まった細長い瓶を取り出し、カウンター前の作業場へと置く。そして棚からグラスを二つ取り出して並べると、それを手早く注いでいった。
 小林がその動きを目で追っていると、石流はグラスの一つを手に取り、ストローを添えて小林の前へと差し出しす。グラスからは、仄かに珈琲独特の香ばしさが漂っていた。どうやらカフェオレらしい。
「作り置きで申し訳ありませんが」
 どうぞ、とストローと共に置かれたグラスを、小林は軽く頭を下げながら受け取った。
「あ、有り難うございます」
 ストローの袋を破ってグラスに差し込み、小林はカフェオレに口をつけた。珈琲独特の苦みは抑え目で、牛乳の柔らかな口当たりと、仄かな甘さが口の中に広がっていく。
「美味しいです、すごく」
 ストローから唇を話すと、小林は目を瞬かせた。
「もしかして、豆から挽いて作ってるんですか?」
「気が向いた時にだけですが」
 やはり分かりますか、と石流は苦笑を浮かべている。彼の話によれば、学院がある丘の下の商店街で、良い豆を見つけた時にだけ、気まぐれに煎れるという事だった。
「カフェで出せるレベルですよ」
 率直な感想を口にすると、石流は僅かに眉を寄せてはいるものの、唇の端を軽く持ち上げている。
「それで、話とは」
 石流はストローを差さず、カフェオレを注いだ自分のグラスに直接口を付けた。背後の作業台に軽くもたれ掛かり、休憩がてら話を聞く体勢になっている。
 小林は申し訳ないと眉を寄せながら、グラスを両手で包み込んだ。そして、グラスの中身を見つめながら、戸惑いがちに口を開く。
「実は、明日、ある子……じゃなかった、女性と二人で出掛ける事になりまして」
「シャーロック・シェリンフォードですか」
 間髪入れず返された人名に、小林は両目を見開き、顔を上げた。
「ど、どうしてそれを……?!」
 これまでの己の言動にシャーロックだと特定されるような要素があっただろうかと、必死に頭を回転させる。だが石流は、どこか哀れみを含んだような瞳で小林を見返した。
「本人が、食堂で歌っていました」
「えっ」
「明日は小林先生とデートです、どこに行こうかな、どこに行こうかな、先生が決めてくれます……みたいなことを」
「あああああ、シャーロックぅぅぅ……!」
 流石に口調は再現されなかったものの、淡々と紡ぎ出された言葉に、小林はカウンターに突っ伏した。石流が耳にしたということは、おそらく食事が始まる直前の給仕中の出来事だったのだろう。
「ですので、教員と生徒の不純異性交遊の片棒を担ぐのは、ちょっと」
「ひ、酷い誤解です、それは!」
 軽く眉をひそめる石流に、小林は身を乗り出した。そして必死に弁明する。
「そ、そりゃぁシャーロックとは付き合っていますけど、メールや電話でやりとりするくらいで、その、まだまだそういうトコロまでは……っ」
 石流は、見定めるように無言で小林を見返している。小林は耳まで真っ赤になりながら、口をもごもごと動かした。
「そ、そういう事はシャーロックが卒業してからというか、僕がちゃんと探偵としてシャーロックを迎えに来られるようになってからというか、別にそういう関係になりたいわけじゃなくて、ええと……」
 段々と、自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。小林があたふたしていると、石流は微かに苦笑を浮かべた。
「それで、二人で出掛ける事に何か問題でも?」
 話を戻し、先を促してくる。小林は椅子に腰掛け直すと、「順を追って説明します」と息を吐いた。
 そもそも小林が今回帰国したのは、IDOの命令である。何やら日本のヨコハマで、怪盗帝国以来の組織化された怪盗集団が現れた上に、探偵ライセンスを持っていない謎の探偵チームまで現れたらしい。その為、現状視察して報告せよ、とのことだった。故に、かつて偵都ヨコハマでミルキィホームズの指揮官だった小林に白羽の矢が当たったのだが、小林がヨコハマに着いた時には、幸か不幸か、ちょうど一連の事件が解決した直後だった。我ながら間が悪いと小林は思ったが、ミルキィホームズ達から話を聞いて大体の全貌を把握してからは、IDOの名目で自分が介入せずに済んで良かったかもしれないと、内心密かに思っている。
 結果、IDOへの報告に関しては、フェザーズの件をアンリエットと相談した上で作成し、既にメールで送信していた。
「というわけで、明後日の夕方の便で英国に戻るんですが、明日の予定が丸々空いたので、土曜だし、皆で出掛けることにしたんです」
 小林は一息吐くと、カフェオレに口を付けた。そしてストローから口を離し、軽く眉を寄せる。
「でも、ネロとエルキュールとコーデリアが、急に別の用事が入ったらしくて。それで、仕方ないというか、折角というか、二人で出掛ける事にしたんですが……」
 小林は、ばつが悪そうに頬を指先でかいた。
「実はその……僕、いわゆるデートというのは、初めてでして……」
「そうなんですか?」
 意外そうに、石流は切れ長の瞳を軽く見開いた。
「依頼で女性と二人きりというのはよくありましたが、こう……す、好きな子とどこかに出掛けるというのは、実は初めてで……」
 普通に学生生活を送っていれば、そういう事もあったかもしれない。だが十三歳の頃から探偵として第一線で活動していた小林には、そういった経験を得る機会がなかった。むしろそういった事に興味がなく、トイズを無くしてからは特に、他人事だと思っていた節もある。それなのにーー己の心を占めるのは、よりにもよって年下の教え子だったのだ。
 古人曰く、恋とはするものではなく、落ちるもの。
 小林はカフェオレの注がれたグラスを見つめながら、深い溜め息を吐いた。
「それで、石流さんならそういうことに詳しいらしいとネロから聞いたので、何かアドバイスを戴けないかな……と」
 縋るように小林が視線を上げると、石流は眉間に深く皺を寄せた。
「私は別に「そういう事」に詳しくはないですよ」
 謙遜よりも戸惑いの混じった声音に、小林は小さく首を傾げた。
「でも、エルキュールと一緒に美術館に出掛けた事があるんでしょう?」
 小林が何気なしに返した言葉に、石流は顔を強ばらせた。切れ長の瞳がより鋭さを増していくが、それは眼前の自分にではなく彼自身に向けられているかのようで、小林は怪訝に感じながら説明を続けた。
「あの、エルキュールやネロからのメールに、その時の話が書かれてたんです」
 ネロからは、二人が一緒に出かけてまるでデートみたいだと書かれていた事、エルキュールからは、和歌や源氏物語が描かれた絵巻を見に行った時の感想と、石流に世話になった事が綴られていたと説明すると、石流は睨み付けるような視線を足下へと落とした。しかしすぐに顔を上げ、きっぱりと否定した。
「違います。あれはデートなどではありません」
「ええ、それはまぁ……」
 ネロはメールでデートだとはやし立ててはいたが、エルキュールからのメールでは、ただ単に世話になった事実が添えられていただけだった。だから二人にそれ以上の関係はないだろうと推測していたが、人一倍人見知りだったエルキュールが、小林以外の男性と、ましてや二人きりで出かける事ができるようになっていたのは、かなり喜ばしい結果だろう。まるで父親か兄の目線ではあったが、自分も頑張ろうと温かな活力が沸いてくる。
 睨み付けるような石流の視線に小林は苦笑を返すと、カウンターチェアに座ったまま、ぺこりと頭を下げた。
「いつもあの子達がお世話になっているようで。有り難うござます」
「はぁ……」
 礼を述べる小林に勢いを削がれたのか、石流は困惑した面もちへと変わると、顔を背けた。
「生徒の面倒をみるのは、職員として当然のことですから」
 そして、手にしたグラスに口をつける。
 保護者同士のような会話に、小林は照れ笑いを浮かべた。
「それで、ネロが、石流さんが校内で一番モテてると話していたので、何か的確なアドバイスが戴けるかと思いまして……」
「そうですか」
 小林が話を戻すと、石流は再び床を睨み付けた。そして顔を上げ、僅かに眉を寄せる。
「デートなら、映画館や遊園地に行くのが鉄壁でしょう。シャーロックなら、みなとみらいの遊園地にでも連れていけば良いのでは」
「それが、その……それは前に一度やっているというか……」
 その辺りの事情をもごもごと小林が説明すると、石流は片眉を寄せた。
「でしたら、またそこでやり直せば良いのでは」
「その……あそこの絶叫マシーンは激しくて……」
 シャーロックに連れ回された事を思い出し、小林の頬が僅かにひきつった。
「それと、もしそこでまた事件に巻き込まれでもしたら、彼女にとって遊園地が、というか……そこが嫌な思い出の象徴になりそうで、そうなったら申し訳ないというか」
「そうですか」
 杞憂というか、やや後ろ向きな思考だった。だが石流は否定も肯定もせず、ただ軽く頷いている。そして手にしたグラスを口元へと運び、カフェオレで唇を濡らした。再び足下へと目を向け、しばらく考え込むように床を見つめている。やがて、その細い眉が軽く開かれた。
「それならば、水族館はどうですか」
 石流は顔を上げると、穏やかな眼差しを小林へと向けた。
「エノシマの入り口近くにあるでしょう? あそこなら電車で少しかかりますが、知り合いにも出くわさないでしょうし、二人で羽を伸ばすならちょうど良いのではないでしょうか」
 郊外へ足を伸ばすという提案に、小林は目を瞬かせた。
 ヨコハマからエノシマまで、電車で30分ばかり。十分日帰りできる距離である。
「確か、水族館から砂浜に出られたはずです。天気が良ければ富士山も見えるでしょう」
 石流は、金色の瞳を僅かに細めた。
「エノシマには猫も多いらしいですからね。シャーロックには丁度良いのではないでしょうか」
 そう告げて石流が唇の端を持ち上げると、小林は目を輝かせた。
 かつてエノシマのホテルに滞在した時、小林は、島内のあちこちで猫が寝そべっていたのを見た覚えがある。それに島の頂上にはシーキャンドルと呼ばれる展望台があった。そこからの見晴らしは素晴らしいだろうし、その麓は、花が咲き誇る庭園になっていた覚えがある。さらに島の反対側にまで足を伸ばせば小さな洞穴があったから、好奇心旺盛なシャーロックには、冒険みたいで楽しんでもらえるだろう。
「有り難うございます、石流さん!」
 郊外に足を伸ばすという発想は、自分一人で考え込んでいたら絶対に思い浮かばなかったに違いない。小林は、眼前の料理長に尊敬の眼差しを向けた。そして何度も礼を口にすると、石流は軽く眉を寄せ、苦笑いを浮かべている。
 小林は、グラスに残ったカフェオレを一気に飲み干した。
 エノシマに向かうには、フジサワ駅かカマクラ駅のどちらかで、エノデン電鉄に乗り換えなくてはならない。だが、他にも路線もあったような覚えがある。
 まずはどういうルートでエノシマに向かうか、確認した方が良いだろう。それから水族館のサイトを確認して、周辺の良さそうなお店をチェックする必要もある。
 これから取るべき行動を脳裏に組み立てながら、小林の胸は高鳴っていた。柄でもないと内心毒吐きつつも、妙にそわそわとして落ち着かない。
 シャーロックは喜んでくれるだろうか。いや、喜ばせてあげなくては。
 小林は何度も礼を口にすると、食堂を後にした。その後ろ姿を見つめ、彼の姿が完全に見えなくなったところで、石流がぽつりと低い声音を漏らす。
「あの小林オペラでも、浮かれる事はあるのだな……」
 そして、足下へと視線を向けた。
「もう出てきても大丈夫だぞ」
 すると、厨房のカウンター下から、のそのそとネロが起きあがってきた。石流の隣に立ち上がり、黒の制服姿を軽く両手で払っている。そして小さく息を吐き出すと、抗議の眼差しを石流へと向けた。
「なんだよ、せっかくボクが動物園ってメモ書きでアドバイスしてあげてるのにさぁ」
 ネロは胸元で腕を組み、細い眉を強く寄せた。だが石流は、それを冷ややかに見下ろしている。
「まさかとは思うが、三人であの二人を尾行するつもりなのか」
「え? そりゃぁ、まぁ……せっかくだし……?」
 歯切れの悪い少女の返事に、石流は大きく息を吐いた。
 みなとみらいの入り口にあるサクラギチョウ駅から、海辺ではなく山の方へと歩くと、山の斜面を利用した小さな動物園がある。すぐ側には市営図書館があり、学院にもほど近いので、二人がそこに向かえば色々と都合が良かったのだろう。だからこそ、石流はわざと遠方の水族館を小林に提案したのだが、それは敢えて口には出さない。
「お前達程度の尾行では、小林オペラにはすぐに見つかるぞ」
「えー、そんなことないでしょ。……たぶん」
 最初は自信満々だったものの、石流の言葉を完全に否定しきれず、ネロは目をそらせた。
「尾行するくらいなら、最初から五人で出掛ければ良かろう」
「そりゃそうだけどさぁ」
 ネロは両腕を頭の後ろで組むと、唇を尖らせた。
「久々に一緒に居られるんだから、二人きりにさせてあげたいじゃん?」
 だが、二人の様子を観察したいという好奇心も抑えきれないのだろう。ネロはそわそわとした面もちで、石流を見上げた。
「だからさ、僕と石流さん、エリーと根津で、カップルぽく偽装したら良くない?」
「馬鹿は休み休み言え」
 石流はネロの提案を一蹴すると、その額を指先で軽く小突いた。
「いたっ。何するんだよー!」
「さっさとここから出ろ。急に中に匿えとやって来るから、何事かと思えば……」
「えー、別にいいじゃんかー!」
 頬を膨らませるネロに、石流はあきれた眼差しを送った。子供じみているというよりも年相応な反応なのかもしれないが、彼女達の計画が実行されたらどういう結果になるかは目に見えている。
「アンリエット様と二十里先生に頼んで、お前達にはみっしりと補習を受けて貰う」
「えーっ、そんなぁ!」
 溜め息と共に吐き出された言葉に、ネロは盛大に抗議の声を挙げた。
「私は出歯亀する趣味はない。それに……」
 カフェオレを物欲しそうに見上げるネロを後目に、石流はグラスを一気に呷った。そして空になったグラスから口を離し、唇の端を大きく持ち上げる。
「馬に蹴られるのは御免だからな」


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