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エルキュールは混乱していた。 きょろきょろと周囲を見渡すが、石流が横になっている窓際のベッド以外は全て空いており、医務室の主は未だ戻ってくる様子がない。 エルキュールはどぎまぎしながら、正面の石流へと目を戻した。 穏やかに胸を上下させる石流の右腕には点滴の針が刺さり、細い管が伸びていた。その先はぶら下げられた透明なナイロン製の袋に繋がっており、袋の下にあるプラスティック製の小さな筒に、ぽたぽたと透明な液体が落ちている。 石流の瞼は深く閉じられていたが、穏やかな笑みを浮かべていた。いつも気難しそうな面もちの彼にしては珍しく目尻が緩められ、唇は軽く持ち上げられている。 喜色が強く浮き出た笑みを向けられ、エルキュールは意味もなく緊張した。頬が上気し、自分の鼓動が早鐘のように鳴っているのが分かる。 落ち着こうと、エルキュールは深く息を吸った。そしてゆっくりと吐き出していく。 唇を結んで、エルキュールは石流の額へと目をやった。 そこには新しい冷えピタが貼られていて、その上に自分の右手が載っていた。そしてそれを押さえるように、石流の左手が重ねられている。 自分の掌に触れる大人の男の掌の感触と重み、そして初めて見せる表情に、エルキュールは自分の頬がさらに熱くなるのを感じた。 誰かに見られたらどうしようという焦りと、もう少しだけこのままでいたいという相反した感情が、胸の奥で複雑に入り乱れている。 掌に触れる感触は軽かった。だからゆっくりと動かせば、目を覚まさせることなく自分の手を引き抜くことが出きるだろう。 しかし、安堵しきった笑みを浮かべる彼の顔を見ていると、ほんの僅かな間に見せた、彼の縋るような眼差しと声音が思い出された。 ーーもう少しだけでいいから、側に居て下さい。 あれは誰に言ったのだろう。 エルキュールは、眠り続ける石流の顔を見つめた。 ほんの一時だけ薄く開かれた瞳は、どこか遠くを見つめているかのように、焦点が合っていなかった。だから寝ぼけていたのだろうと思う。だがその目尻からこぼれた涙と初めて聞く柔らかな声音に、エルキュールは戸惑いながらも反射的に頷いてしまった。 どうして……と自問自答しても、答えは出てこない。 結局、エルキュールは石流の額に手を置いたまま、枕元に立ち続けている。 エルキュールは、石流の額の上に載せた自分の掌を見つめた。 エルキュールにとって石流漱石は、「いつもお世話になっている人」であり「怖くて厳しい人」だった。そして「たまに優しい人」でもある。 ミルキィホームズがトイズで次々と事件を解決していた頃でも、彼女たちが好き嫌いで食事を残したり、マナーが悪かったりすれば、容赦なく石流に睨まれた。だがそれは他の生徒も変わりないし、一部の大人達のように、感情の赴くまま理不尽に怒られたことはない。 トイズを無くしてダメダメになってからは態度が一変した生徒や教師が多い中、彼の態度はある意味一貫して変わらなかった。 それに、決して厳しいだけではない。 風邪を引いた時は食事を芋からお粥に変えてくれたし、氷も分けてくれた。エルキュールが他のクラスの生徒達に嫌がらせを受けた現場に偶然遭遇した時は、相手を一喝して庇ってくれたこともある。 相手が立ち去った後、人の気配がない校舎裏で二人きりになると、石流が低い声をこぼした。 「誰もが望んでトイズを持つわけではないし、自らが望むトイズを持つわけでもない」 まるで自分の事を言われているようで、エルキュールが顔を上げると、石流は箒を持ったまま、黄金色から紅に染まりつつある空へ目を向けていた。 「どう折り合いをつけ、使いこなすかは自分次第だ」 僅かに眉を寄せた横顔に、煌めく夕日が反射している。 石流は、切れ長の目をエルキュールへと向けた。 「だからこそ、お前はここにいるのではないのか」 淡々と告げられた言葉に、エルキュールは目を見開いた。彼の指摘は、ただ彼女の過去を見抜いているだけでなく、実感を伴っているようにも感じられる。 エルキュールは、自分を見下ろす琥珀の瞳を見返した。 金色の夕日を受けた瞳は、赤く染まった背後の空と重なりあって、宵の明星を連想させる。 いつもは怖いと感じる眼差しが、この時だけは何故か違って見えた。吸い込まれるようにエルキュールが見つめていると、石流は目をそらし、帽子を目深に被り直した。そして無言で背を向け、振り返ることなくそのまま立ち去った。 励まされたのではないかと気付いたのは、その後ろ姿が視界から消えた後だった。 顔にも態度にも出ないから分かりにくいが、根は優しい人なのだろう。淡々と告げられた言葉から、エルキュールはそう感じた。 だから女生徒に人気があるという話を聞いても、そうだろうな……と密かに納得した。 赤縁眼鏡のクラス委員長をはじめとして、何人かの女生徒が放課後に石流に会いに食堂に通っていたり、ラブレターを送ったという話を耳にしても、その行動力が羨ましいと思うくらいで、自分には関わりのない、どこか遠くの出来事のように思える。 エルキュールは、戸惑いながら石流へと視線を移した。 指先でそっと石流の黒髪に触れ、軽く持ち上げると、指先からさらさらと滑り落ちていく。 エルキュールは小さく溜め息を吐いた。 読んだことのある恋愛小説の主人公と比べてみても、自分が抱く感情と、恋に落ちたヒロインの感情は合致してこない。 エルキュールは、再び息を吐き出した。 医務室の入り口には、壊れた扉の代わりに紺色の長い暖簾が下げられていた。そして入り口から隠すように、ベッド前には白のカーテンが引かれている。 時折、その廊下を過ぎる足音が響いたが、立ち止まる気配はない。 エルキュールは、再び石流の顔を見つめた。 目が合うとすぐに自分から顔を伏せてしまうせいもあって、こうして彼の顔を間近で見つめるのは初めてだった。食堂以外では常に帽子を目深に被っているから分かりにくいが、思っていたよりもまつげが長い。 目尻から流れ落ちた水滴に目を留め、エルキュールは、スカートのポケットからハンカチを取り出した。軽く身を屈め、流れ落ちた跡をそっと拭き取る。 エルキュールの長い黒髪が、石流の頬に掛かった。 瞼が小さく揺れたが、目を覚ます様子はない。 よく見ると、瞼の下で眼球が微かに動いているようだった。こういう時、人は夢を見ているのだと何かの小説の主人公がパートナーに語っていた。 では彼は、どんな夢を見ているのだろう。 エルキュールが目尻からそっとハンカチを離すと、石流の頬から滑り落ちたエルキュールの黒髪が、石流の黒髪と重なった。 「石流さん……」 そっと彼の名を囁く。 窓からの陽射しに反射して、二つの黒髪が小さく煌めいていた。同じ黒髪でも、質感や色合いが全く違うのだと今更ながらに気付く。 「石流さん……」 エルキュールは石流の顔を覗き込んだまま、再び蚊の鳴くような小声で彼の名を呼んだ。しかし、彼は一向に目覚める気配はない。 その様子にエルキュールは安堵し、ごくりと唾を飲み込んだ。 「そ、漱石さん……」 普段なら決して呼ばない下の名前を口に出した。 声は上擦り、唇は震えている。 「漱石さん……」 もう一度、吐息を漏らすように囁いた。 彼が浮かべている表情が、まるで自分にだけ微笑みかけているかのように錯覚して、意味もなく頬が熱くなる。 再び唇を開きかけた時、不意にカーテンが開かれる音がして、柔らかな声が投げかけられた。 「エルキュールさん?」 「ひゃッ」 エルキュールは息を呑んだ。反射的に顔を上げると、反対側の枕元にアンリエットが顔を覗かせている。 「珍しいですわね、貴方一人だなんて」 そっとカーテンを閉じながら石流を見下ろすと、上半身を屈めて石流を覗き込むエルキュールと、石流の額に置かれた彼女の掌、そしてそれに重ねられた彼の手と表情に気付き、アンリエットは目をしばたたかせた。 「あ、あの、違うんです……っ」 エルキュールは慌てて半身を起こすと、彼の額に手を載せたまま、真っ赤になりながら小声で弁明した。 「あ、あの、新しい冷えピタに貼り替えたら、石流さんがちょっとだけ目を覚まして……、で、でも、誰かと間違えたみたいで……っ」 あわあわとハンカチを掴んだ手を振り、他意がないことを主張する。 しかし、石流の名前を呼んでいるのを聞かれたかもしれないという疑惑は、彼女をパニックに陥れた。 そもそも何故あんな事をしてしまったのか、我に返った今でもよく分からない。 「ど、ど、どうしましょう……?」 涙目で訴えるエルキュールに、アンリエットは苦笑を浮かべた。 「別にそのままで構いませんよ」 「はぅぅ……」 赤面したまま唸るエルキュールを横目に、アンリエットは近くの椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろしている。 「エルキュールさんも、石流さんみたいに顔が赤いですわよ」 アンリエットは、口元に小さな笑みを浮かべた。 「まるで熱がうつったみたいですね、ふふ」 そう微笑する彼女からは、不審がったり咎めたりするような様子は微塵も感じられない。 穏やかな笑みを浮かべるアンリエットに、動転したエルキュールも徐々に冷静さを取り戻した。何度か深呼吸を繰り返すと、高ぶった心地も落ち着いてくる。 エルキュールが手にしたハンカチをポケットに仕舞うと、アンリエットが口を開いた。 「先生は?」 「その、昼食を買いに出かけられて……」 エルキュールは、眉を八の字に寄せた。 「それでその間、石流さんを見張っていて欲しいと……」 「見張り、ですか」 アンリエットは苦笑した。 運び込まれた当初ならともかく、アンリエットに命令された以上、流石にもう脱走して仕事に戻ろうとはしないだろう。 エルキュールも、アンリエットに釣られたように笑みを浮かべた。 「なんだか気持ちよさそうですわね」 アンリエットは、穏やかな笑みを浮かべる石流を見つめている。 「多分……アンリエットさんと間違えたんだと思います……」 「私ですか?」 エルキュールが、一瞬だけ目を覚ました時の石流の様子を話すと、アンリエットは目を瞬かせた。 しかしすぐに、小さく首を横に振る。 「違うと思いますよ」 その返答に、エルキュールは思わずアンリエットの顔を見返した。 石流が温かな眼差しと笑みを向けるのは、この学院ではアンリエットだけだった。それなのに、違うと断言できるのは何故だろう。 エルキュールの視線に気付くと、アンリエットは柳眉を僅かに寄せ、唇の端を小さく持ち上げた。 「石流さんのこんな表情、初めて見ますから」 アンリエットは片手を伸ばすと、人差し指だけを伸ばして、石流の頬を軽くつついた。 「私の前では、こんな弱々しい顔には絶対になりませんからね」 ふふ、と小さく笑って、アンリエットは石流の頬に触れている。目を覚ますのではないかと思ったが、口を挟むのもはばかられ、エルキュールは無言で見つめた。 もしかしてーー怒っているのだろうか。 しかし、石流が体調を崩した事に怒っているとは思えない。だとしたら、何にだろう。 エルキュールが眉を寄せて思案していると、アンリエットは石流の頬を人差し指で軽く押したまま、微笑を浮かべた。 「石流さんは、自分には特に厳しい人ですから」 そして、穏やかな眼差しを向ける。 「どのような夢を見ているのでしょうね……」 その視線に一抹の寂しさを感じて、エルキュールは石流へと目を向けた。彼は未だに目を覚ます様子もなく、昏々と眠り続けている。 「あの……石流さんは、学院に来る前はどちらに?」 「さぁ……。そういえば、自分の事はあまり話さない人ですわね」 エルキュールが遠慮がちに尋ねると、アンリエットは軽く吐息を漏らした。 「日本だけでなく、香港や北京、シンガポールなど色々回っていたそうですよ」 「そうなんですか……」 断片的な情報だったが、エルキュールは小さく頷いた。 海外を回っていたという話は意外だったが、だからこそ色々と美味しい料理が作れるのかな、とも思う。もしかしたら、そういった各地のホテルの厨房で働いていたのかもしれない。 「そろそろ予鈴が鳴りますね」 アンリエットは石流をつつくのを止め、エルキュールへと顔を上げた。 「あとは私が見ていますから、もう教室に戻っても大丈夫ですよ」 「あ、はい……」 エルキュールは、石流の額から自分の手を離そうと、上に載った彼の手を片手でそっと触れた。それはあっさりと持ち上がり、自分の手をするりと引き抜く。 石流の手に両手で触れ、そのまま額に置くか、掛け布団の中に戻すかエルキュールが躊躇っていると、アンリエットは小さな笑みをこぼした。 「それとも、もう少しここに居ますか?」 「い、いえ、その……っ」 エルキュールは赤面して首を横に振った。 起こさないように石流の手をそろそろと身体の横に伸ばし、掛け布団の上に置いた。そして足音を立てないようにベッドの脇から離れ、そっとカーテンを開ける。 「失礼します……っ」 なるべく音を立てないようにカーテンを閉めると、壊れた扉の代わりに吊された、紺の暖簾を潜った。 廊下を数歩進み、足を止める。 頬に両手を当てると、指先に熱い肌が触れた。 ーーそんなに名残惜しそうな顔をしていたのだろうか。 エルキュールはぷるぷると大きく首を振ると、顔を赤くしたまま、教室へ向かって駆けだした。 |
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