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ぱたぱたと小さな足音を響かせて、エルキュールが駆け去っていく。 アンリエットは小さく吐息を漏らした。 軽く眉を寄せて瞼を閉じ、先ほど耳にした微かな声音を思い出す。 エルキュールが、詩を口ずさむように石流の名前を呼んでいた。 しかも名字ではなく、下の名を。 もしかすると、彼女は石流に特別な感情を抱きつつあるのかもしれない。だがあの様子では、まだ自覚していない可能性が高いだろう。 アンリエットは瞼を開くと、石流へと視線を移した。 料理、掃除、洗濯を完璧にこなせて、性格も容姿も悪くない。だから女生徒に人気が出るのは最もなのだが、想定外の状況に陥りつつある。 アンリエットは、再び小さな溜め息を漏らした。 彼が意図してやっているのならば、まだマシだった。ところが彼の言動を省みるに、何故自分が女生徒に囲まれるのかよく分かっていない節がある。 「朴念仁にも程がありますわ……」 アンリエットは、静かな吐息を立てる石流を見つめた。 常に彼が自分に向ける笑みとは異なり、まるで子供が安堵したような表情を浮かべている。 アンリエットは手を伸ばし、石流の艶やかな黒髪に触れた。指先を絡めると、肩先まで伸びた長めの黒髪が滑り落ちていく。 「貴方のそういう真面目なところは、高く評価しているのですけどね……」 そのまま人差し指だけを伸ばし、すべすべした頬を軽くつついていると、昼休みの終了を告げる甲高い鐘の音が響いた。その音に石流の眉が軽く寄せられ、瞼が小さく動く。 アンリエットが慌てて手を戻すと、石流の瞼がゆっくりと開かれた。数度瞬きし、琥珀の瞳がアンリエットを捉えると、驚いたように見開かれる。 「……アンリエット様?」 反射的に身体を起こそうとする石流を制し、アンリエットは微笑を返した。 「大分顔色も良くなりましたね」 「あの……ずっとこちらに?」 申し訳なさそうに眉を寄せる石流に、アンリエットは軽く首を振った。 「いえ、私はつい先程、様子を見に来た来たばかりです」 そう返すと、石流は「そうでしたか」とほっと息を吐いた。アンリエットに余計な負担を掛けまいと懸念しているらしい。 そういう配慮はできるのに、何故自分の事に関しては鈍感なのか。 アンリエットは、小さく息を吐いた。そして僅かの間躊躇った後、エルキュールが側に居た事実を告げた。 「エルキュール・バートンが、ですか……?」 アンリエットの言葉に、石流は眉間に皺を寄せた。 「何故……?」 心当たりがなさげに訝しむ石流に、アンリエットは内心呆れた。これが他の生徒ならば「心配を掛けた」と感じるのだろうが、彼女に関しては、そういう方面へ意識が回らないらしい。 眼中にないと言えば聞こえはいいが、いわば敵である探偵として、ライバルとして強く意識しているということなのだろう。むしろ、そういう意味でしか意識していないのかもしれない。 「貴方の様子が気になったのではないですか?」 倒れた貴方を見つけたのは彼女ですからね、とアンリエットが言葉を続けると、石流はさらに困惑したような面もちを浮かべた。 おそらく彼は、エルキュールが自分達の正体を知らないということを完全に失念している。だから何故彼女が石流の異変に真っ先に気付いたのかも、そして彼女が抱きつつある感情にも思い至らないのだろう。 アンリエットは、口元に微笑を浮かべた。 「そういえば、エルキュールさんが居た時に、一瞬だけ貴方が目を覚ましたそうですが、覚えていますか?」 「いえ……」 エルキュールに向かって言ったという言葉や、石流が夢うつつの中で取ったという行動は伏せて口にすると、石流は思案するように目を伏せていたが、やがて低い声で呟いた。 「ですが、妙に触感のあるような夢を見ていたような気もします」 「どんな夢だったのですか」 好奇心に駆られてアンリエットが尋ねると、石流は口ごもった。 「その……子供の頃の夢です」 僅かに視線を揺らし、躊躇いながらもぽつぽつと口にする。 「子供の頃、今回のように熱を出して寝込んだ事がありまして、その時の事を夢で見ていました」 思い出したというべきでしょうか、と石流は目を細めた。 その言葉に思い当たる事があって、アンリエットは口元を緩めた。 「その夢の中に、誰か出てきたのですか?」 「……はい。とても懐かしい人でした」 石流は唇を結ぶと、目元を緩めて天井を見上げた。 曖昧な表現で濁してはいるが、エルキュールが言われたという言葉は、その人物に向けてのものだったのだろう。 アンリエットは眦を緩め、石流を見下ろした。 「それにしても、もう少しちゃんと自己管理をしていただかなくては困ります」 「申し訳ありません……」 アンリエットが小さく吐息を漏らすと、石流は首だけを動かして向き直り、面目なさそうに顔を伏せている。 「盗みすぎ、ですわよ」 「は?」 アンリエットが片目を瞑ると、石流は顔を上げ、大きく目をしばたたかせた。 <了> |
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