Platinum Smile

「……あ、あれ?」
 ベッドはびくりとも動かない。懸命に腕を震わせるエルキュールに、女医は彼女の顔を横から覗き込み、首を捻った。
「あら?さっきは確かに目にトイズの光が宿っていたのだけれど」
 どうしてかしら、と腕を組む。
 そこに小さな電子音が鳴り響き、エルキュールはベッドの端から手を離した。振り返ると、女医が石流の右脇から体温計を取り出している。
 女医は表示された数字を確認すると、片眉をひそめた。
「我慢強いにも程があるでしょう」
 そして呆れた眼差しを石流へと落とした。
「これだけ熱があれば、かなり苦しいはずですが」
 石流は、無言で女医から顔を背けている。しかし、女医が「今日は一日、保健室で休んでもらいます」と宣言すると、両目を見開いて抗議した。
「確か注射なら、即効性の解熱剤があるはずです。それを頂ければ問題ありません」
 ベッドに肘を突き、再び半身を起こそうとする石流に、女医は冷ややかな笑みを浮かべた。
「よくご存じですねェ、石流さん」
 そしてベッドから浮かんだ石流の両肩を押さえ、押し戻そうとした。しかし石流は女医の手首を掴み、抵抗している。
「ドクターストップって言ってるのが分かんないかな……っ?!」
「かといって、ここで寝ているわけにはいかないと言っているッ」
 乱雑な口調へと変わり、険しい表情で睨み合う二人にエルキュールは狼狽えた。
「あ、あの……先生も、石流さんも止めて下さい……!」
 しかし均衡はすぐに崩れ、石流の肩がベッドへと沈んだ。小さな呻き声と共に、女医の手首から石流の指が滑り落ち、力が抜けたようにベッドへと投げ出される。
「……ッ」
 石流は強く瞼を閉じると、眉間に深い皺を寄せた。何かに耐えるように唇を真一文字に結び、目元を片手で押さえている。
「あの、先生……っ?!」
「大丈夫。この様子だと多分、目を回しているだけだから」
 女医は石流の両肩を軽く押さえた姿勢のまま、大きく息を吐き出した。
「バートンさん、冷蔵庫から冷えピタ持ってきてくれる?」
 エルキュールはベッドから離れ、薬品が並ぶ棚の横にある冷蔵庫へと足を向けた。一人暮らしで使うような小振りの冷蔵庫で、高さはエルキュールの胸元までしかない。
 上側にある縦長の扉を開くと、ペットボトルなどの私物に混じって、目的の物が一番上の棚で冷やされていた。箱からは取り出され、輪ゴムで一括りにされている。
 エルキュールはそこから一袋取り出すと、冷蔵庫の扉を閉めた。そして再びベッドの脇に戻って女医へと差し出したとき、大勢が駆けるような足音が耳に届いた。それらは医務室前でぱたぱたと止まり、「うわっ、何これ」と驚く男子生徒の声が響いている。
 エルキュールが医務室の入り口へと顔を向けると、部屋の入り口に倒れたままの扉を避けるように越えて、アンリエットが足を踏み入れていた。その背後では、根津たち男子生徒が、二十里海の指示に従って倒れた扉を持ち上げ、入り口に立てかけている。
「石流さんがエルキュールさんに運ばれたと聞いて来たのですが」
 アンリエットの後から二十里海と根津次郎が続き、さらに扉が外れた入り口からは、赤縁眼鏡の女生徒や他のクラスメイト達が心配そうな表情を浮かべ、ぼそぼそと囁きながら遠巻きに覗き込んでいる。
 その人混みから押し出されるように、シャーロックとネロ、そしてコーデリアが姿を見せた。
「あ、エリーさーん!」
「エリー、大丈夫?」
「石流さんをお姫様抱っこして運んでたって聞いたんだけど」
 口々に喋りながら医務室に足を踏み入れようとするが、入り口で二十里に押し止められた。
「君たちはこの先に入ってきちゃダーメ」
 病人がいるからね、と唇に人差し指を当てた二十里のジェスチャーに、ミルキィホームズだけでなく他のクラスメイトも慌てて口を噤んでいる。
 医務室奥に設置されたベッドに歩み寄ったアンリエットは、その傍らでおろおろと狼狽えるエルキュールを一瞥した。そして窓際のベッドに視線を移し、軽く眉をひそめた。
 ぐったたりと横になった石流の額には、女医が張り付けた冷えピタが載っている。だが、コック服のボタンは全て外され、上半身が剥き出しになっていた。そして露出した白い両肩を女医が押さえ、ベッドに押し倒している格好になっている。
「あの……これはどういう状況なのですか」
「すみません、ちょっと触診したばかりでしたので」
 しれっとした表情で女医が石流の肩から両手を離すと、石流はアンリエットの声と気配に、弾かれたように両目を見開いた。
「アンリエット様……?!」
「ご気分は如何ですか、石流さん」
 アンリエットの気遣う声音に、石流は慌てて身を起こそうとする。
「申し訳ございません……。すぐに仕事に戻りますので」
「だから、まだ起きあがらない方が良いと言っているでしょう」
 先ほどまでの乱暴な口調は形を潜め、女医は元の丁寧な口調に戻っていた。しかしその声音は厳しく、再び両腕で石流を押し止めている。
 その様子を眺めながら、根津はアンリエットの背後から回り込み、そっとエルキュールの傍らに近寄った。
「なぁなぁ、お前、トイズ戻ったの?」
 エルキュールが声を潜める根津へ顔を向けると、眉を軽く寄せた根津と目が合った。
「あの扉、お前のせいなんだろ?」
 指さす方へと視線を向けると、こちらを伺うクラスメイト達の背後に、立てかけられた扉があった。そして好奇心に満ちたクラスメイト達の視線が自分へと注がれている。
 エルキュールは赤面すると、慌てて顔を正面に戻し、両手で覆った。
「それが……その……一時的だったみたいで……」
 また消えたみたいです……と呟く。
 それを横目で伺いながら、アンリエットは女医に尋ねた。
「それで、先生。石流さんの容態は如何なのですか?」
「熱は高めですが、喉は腫れていませんし、インフルエンザではないと思います」
 女医は、石流のはだけた上着を整えながら説明を続けた。
「触診した感じだと腹部には異常は感じませんでしたし、呼吸器も正常でした」
 そしてアンリエットへと目をやると、軽く眉を寄せた。
「おそらく過労だと思われます」
 女医の下した診断に、アンリエットは大きく目を瞬かせた。
「過労……ですか?」
 信じられないと言いたげに、目を丸くしている。
「元々仕事量が大変なのはあるでしょうが、最近、かなり忙しかったのでは?それに、あまり眠れていないようにも見受けられますが」
 睡眠不足による過労と結論付けた女医に、アンリエットは石流へと目を落とした。
「心当たりはありますか、石流さん」
 柳眉を寄せたアンリエットに、石流は気まずそうに顔を背けている。その様子に、アンリエットは軽い溜め息を漏らした。
「あるのですね?」
 アンリエットが問いつめると、石流は観念したようにゆっくりと唇を開いた。
「その、二十里先生に……駄目だとは分かっているのですが、つい、続きをせがんでしまいまして」
 ぽつぽつと紡がれた石流の言葉の中に自分の名が出てきて、アンリエット達とは反対側の枕元から石流を覗き込んでいた二十里は、垂れ目がちの瞳を見開いた。
「それで、寝不足のまま朝を迎える事が、少々……」
「えっ、もしかして、アレの事かい?」
 石流の頬が赤いのは、熱のせいだけではなく羞恥も混じっているのだろう。強く眉を寄せ、目を伏せて押し黙っている。
 二十里はアンリエットに鋭い眼差しを向けられると、軽く肩をすくめた。その様子を眺めていた根津は、隣のエルキュールへ顔を向け、不思議そうに首を傾げている。
「どうしたんだ?お前、すっごく顔が赤いぞ?」
「な、なんでもないです……」
 耳元まで真っ赤にしながら両手で頬を押さえ、顔を伏せているエルキュールを一瞥すると、女医は二十里へと顔を向けた。
「もしかして職員室で流行中のアレ、今は石流さんの所にまで回っているんですか」
「おや、ドクターもご存じで?」
 二十里が目を輝かせて唇の端を持ち上げると、女医は小さく頷いた。
「私の学生時代にもクラスで流行った事がありますし。ものすごく長いですからね、アレ」
 気が付いたら朝になってた事があります、と女医は笑った。そして小さく咳払いすると、アンリエットへと向き直った。
「今年は残暑も厳しかったですし、日頃の疲れも溜まっていたんじゃないですか?そこにここ数日の寝不足が引き金になって、発熱したのではないかと」
 このまま今日一日休んでいれば夕方には熱も下がるでしょうと、女医は語った。
「とりあえずブドウ糖の点滴もしておきますから」
「しかし、それでは……」
 なおも食い下がる石流に、女医はアンリエットを見やった。その視線の意味に気付いたアンリエットが、小さく息を吐く。
「これは命令です。今日は一日、医務室で休むように」
 心配と呆れが半々に混じったかのようなアンリエットの眼差しに、石流もついに諦めたようだった。
「……申し訳ありません」
 うなだれる石流に軽く吐息を漏らすと、アンリエットはエルキュールに微笑を向け、それから医務室の入り口へと向き直った。
「エルキュールさん、それに他の皆さんも、もう教室に戻って頂いて結構です。一限目は自習にします」
 そして根津の方を向き、石流の部屋から着替えを持ってくるようにと指示した。
「それは別にいいけど……何で自習?」
 根津が首を傾げると、アンリエットは唇の端を大きく持ち上げた。
「一限目は二十里先生の授業でしょう?ですが、二十里先生には少々お話がありますので」
「ふーん?」
 根津は納得したような、しきってないような曖昧な表情を浮かべている。一方で、アンリエットはにこやかな笑みを湛えているが、目は笑っていない。
 エルキュールは不穏なものを感じながらも、再び石流へと目を向けた。彼は顔をアンリエットから背け、うなだれた表情で大きく息を吐き出している。
 が、熱で潤んだ瞳が、不意にエルキュールを捉えた。
 暫し無言で見つめ合う。
「……どうやら借りを作ったようだな」
「いえ、その……」
 戸惑いが含まれた低い声音に、エルキュールは口ごもった。
 こういう時、どう返せばいいのか分からない。
 真っ直ぐに自分を見つめ返す琥珀の瞳に、エルキュールは反射的に目をそらせた。


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「さて、二十里先生。……説明して頂きましょうか?」
 二十里と連れ立って生徒会長室に戻ると、アンリエットは事務机に腰を下ろし、深い溜め息を吐いた。
「ボクは別に何もしてまセーン!」
 二十里は瞳を潤ませ、身を乗り出している。
 アンリエットは机に両手を置き、二十里を見上げた。
「ですが、石流さんがここ数日寝不足なのは貴方のせいなのでしょう?」
「まぁ、その。あんなに積極的に強請る石流君は初めてだったから、つい……」
 二十里はしおらしく目を伏せると、きりっとした表情で顔を上げた。
「だってェ、まさか貸した本を朝までずっと読んでるなんて思わないじゃないですかぁ!」
 ボクのせいじゃなーいと身をくねらせる二十里に、アンリエットは小さく溜め息を吐いた。
「いつからです?」
「ええっと……五日くらい前?」
 二十里は軽く首を傾げ、指を折って数えた。
「プロファイリングの先生からの借り物でしたけど、石流君が読んだことないって言うものだから、勿体ないと思いまして」
 珍しく石流君も興味を持ってたし……と二十里は言葉を続けている。
「やはり貴方のせいではないですか」
 アンリエットは再び溜め息を吐いた。
 ちょうど一週間前に、二日前に盗んだ美術品の予告状を出していた。その為の下見や準備を、石流はいつも通りに手分けしてこなし、潜入時も無駄のない動きで警察を返り討ちにしていたが、その時の彼に不審な様子はなかった。
 だが女医の診断によると、この熱ならば数日前から体調を崩していてもおかしくないという。
 アンリエットは、細い眉を大きく寄せた。
「ちなみに何の本です?」
「ガ×スの仮面でェっす」
 アンリエット様も読まれます?と懐から単行本を取り出した二十里に、アンリエットはにっこりと笑みを返しーー紫水晶のような瞳を大きく煌めかせた。


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