エルキュール・バートンは、程良く冷ましたふかし芋を両手で口元に運びながら、テーブルの間を縫うようにして生徒達の皿にパンを載せてまわる石流漱石を目で追った。 白いコック服に身を包み、時折生徒の談笑に応えながら、僅かな微笑を浮かべている。だがその横顔が、いつもより白く見えた。化粧をしているはずがないから、体調でも悪いのかと一瞬思ったが、機敏な動きで給仕を続ける様子からは、そのような気配は微塵も伺えない。 彼の姿が壁の先に隠れて見えなくなると、エリーは手元のふかし芋へと視線を落とした。 しっとり且つふかふかに蒸かされた芋には、胡椒が振りかけられていた。味付けは塩だけだったりバターだったりと毎回異なるが、調理具合はいつもと変わらない。 気のせいかな……と思い直し、エルキュールはもぐもぐと芋を飲み込んだ。 寮から出た生徒達が、続々と校舎へと向かっている。 ミルキィホームズ達も、遅刻しないように教室へと足を進めていた。池の端の煉瓦道を談笑しながら通り過ぎ、校舎前の掲示板を通過する。いつもならそこで掃き掃除をしている石流とすれ違うのだが、今日はその姿がない。 あれ、とエルキュールが眉を寄せていると、赤縁眼鏡の女生徒が、周囲をきょろきょろと見渡しているのが目に入った。掲示板の裏まで覗き込む様子に、先頭を歩くシャーロックが足を止める。 「おはようございます、ミルホーンさん」 何してるんですかー?とシャーロックが言葉を続けると、彼女はゆっくりと振り返った。 「おはよう、シェリンフォードさん」 穏やかな口調で挨拶を返し、それから小さく首を傾げる。 「いえ、石流さんがいないな、と思って」 「確かに……いつもなら、この時間はここで掃除をしています……」 エルキュールが同意すると、ネロは鞄を手にしたまま、頭の後ろで両腕を組んだ。 「今日は別の場所を掃除してるか、食器洗いがまだ終わってないんじゃないの?」 たまに居ない時だってあるじゃん、と笑っている。 「それは貴方達がしょっちゅう遅刻しているからじゃないの?」 赤縁眼鏡の女生徒は呆れたように肩を落とすと、コーデリアは小首を傾げた。 「んー、でも、遅刻した時間にもよるけれど、大体この辺りでは見かけているような……?」 顎に人差し指をあて、思いだそうとするかのように頭上を仰いでいる。しかしすぐに赤縁眼鏡の女生徒に視線を戻すと、コーデリアは小さな笑みをこぼした。 「考えすぎじゃないの?」 石流は学院内の雑用を一手に引き受けている。だからある程度行動時間帯は決まっていても、例外が生じることもある。 赤縁眼鏡の女生徒はそれに思い至ったのか、コーデリアの言葉に苦笑を返した。 「眼鏡のフレームを新しくしたから、石流さんに見て欲しかったんだけどな」 「あら、それなら朝食の時に見て貰えば良かったじゃない」 コーデリアが柔らかな眼差しを向けると、女生徒は僅かに眉を寄せた。 「だって……何だかいつもより怖い顔になってて、忙しそうだったから」 はぁ、と小さな溜め息を吐くと、小さく肩を落とした。 「じゃぁグラウカさん、シェリンフォードさんに譲崎さんにバートンさんも、また教室でね」 今日は遅刻しないでね、と釘を差して、彼女は小走りに校舎へと駆け出した。その後ろ姿を見つめながら、ミルキィホームズも校舎へと向かっていく。 ネロは両手を後ろ手に組み、後ろ向きに歩きながらコーデリアへと顔を向けた。 「もしかしてさぁ、委員長って、石流さんが好きだったりするの?」 まさかねぇ、と眉を強く寄せるネロに、コーデリアは大きく頷いた。 「そうよ、結構有名だと思ったけど。知らなかった?」 「えー、そうなんですかー?」 コーデリアが頷くと、シャーロックは目を丸くした。エルキュールは大きな瞳を瞬かせ、視線を足下へと落としている。一方でネロは、呆れたように顔をしかめた。 「うっわぁ、趣味悪いなー。っていうか見る目なくない?」 「そんな事は……ないと思います……」 明け透けな感想を漏らすネロに、エルキュールが小声で反論した。 「私達には特に厳しいですけど……他の生徒には基本優しいですし……」 「だからミルホーンさん以外にも、ラブレターを送ったっていう女の子、結構いるみたいよ?」 全部断られているみたいだけど、と話すコーデリアに、ネロは「うわぁ……」と肩をすくめた。そして身体を反転させ、正面へとくるりと向き直った。 「でもさ、なんでコーデリアがそういう事に詳しいのさ?」 ネロが小さく首を傾げると、コーデリアは自慢げに胸を反らせている。 「だって、ミルホーンさんに相談されたことがあるもの」 「へぇー、凄いですー」 素直に感心するシャーロックとは対比的に、ネロは苦笑いを浮かべた。 「やっぱ委員長は人を見る目がないよ。よりによってコーデリアに相談するなんてさ」 「ちょっと、それどういう意味よ!」 声を荒らげるコーデリアに、ネロは小さな笑い声を上げた。 「そういう意味だってば」 そして振り上げられたコーデリアの腕から逃げるように、校舎に向けて一目散に駆け出した。 「ネーロー、待ちなさーいッ」 その後を、目尻を釣り上げたコーデリアが追いかけていく。 二人の様子に苦笑しつつ、エルキュールはシャーロックと並んで歩いていたが、不意に足を止めた。 赤縁眼鏡のクラスメイトの「何だかいつもより怖い顔になってて」という言葉が、妙に気にかかってくる。 「どうしたんですか、エリーさん?」 急に立ち止まったエルキュールを、シャーロックは不思議そうに振り返った。エルキュールは曖昧に言葉を返し、目を伏せる。 人が怖い表情になるのはどういう状況か、先日読んだ小説の中で主人公が色々と語っていた。まずは、怒っている時。それから正気を無くした時や、良からぬ企みをしている時。そしてーー何かに耐えている時。 そのシーンを思い出すと同時に、いつもより白いと感じた石流の横顔が、エルキュールの脳裏に甦った。 気のせいだったらそれでいいが、もしそうでなかったら。 「あの、先に教室に行ってて下さい……」 「え?」 エルキュールは意を決したように顔をあげた。 予鈴がなるまで、まだ若干余裕がある。 「すぐ戻りますから……っ」 そう言い残し、きびすを返す。元来た道を逆走し、エルキュールは食堂へと向かった。 校舎と繋がっている渡り廊下側から入ると、食堂はがらんと静まり返っている。人が動いている気配はなく、食器洗い機の音が、厨房から低く響いていた。 各テーブルの上には、汚れたままの白いテーブルクロスが敷かれたままになっている。そして、床掃除がされた形跡もない。 変だな、とエルキュールは感じた。いつもなら食事後すぐに床掃除が行われ、テーブルクロスが替えられている。 余程急ぎの用事がなければ、石流がそのままにしておくはずがない。 エルキュールは不安な眼差しで、人影のない食堂を見渡した。カウンターから厨房を覗き込むが、厨房奥に設置された食器洗い機が小刻みに振動しているだけで、石流の姿はどこにもない。 銀色の箱のような形をした大きな食器洗い機の前には、鼠色のプラスティック製の器具に汚れた皿が綺麗に並べられていた。おそらく次に洗う分だろう。 食器洗いの最中に席を外しているのか、石流の姿は食堂のどこにも見当たらない。 やっぱり気のせいだったのかな……とカウンターから離れかけて、エルキュールは視界の片隅に入った白い布に目を留めた。 厨房と食堂を繋ぐ扉近くの床に、石流が食堂で被っている白いコック帽が落ちていた。カウンターからは冷蔵庫や棚の影になって死角になっているが、丸みを帯びた帽子の端が僅かに覗いている。 何故あんなところに落ちているのだろうと不審に感じたエルキュールは、足音を潜めてその扉へと静かに回った。 観音開きの大きな扉をそっと手前に開くと、棚に隠れるようにして石流がうずくまっている。体育座りのように両膝を曲げ、壁にもたれ掛かるように頭を寄せていた。目は閉じられているが、肩が大きく上下し、荒い呼吸を漏らしている。 「石流さん……?!」 エルキュールが駆け寄ると、彼は薄く瞼を開いた。 「エルキュール・バートン……?」 戸惑いと驚きで向けられた瞳は、焦点が合っていなかった。まるで酔っぱらっているかのように、頬に赤みが差している。その頬を、汗が一筋流れ落ちた。 「何故、ここに……」 石流は上半身を起こすと、背後の壁に背を預けた。 口調はしっかりしているものの、切れ長の眼差しからはいつもの鋭さが消えている。 少しばかり躊躇した後、エルキュールは石流の傍らに膝を付いた。そして彼の額に指先を伸ばす。触れてみると予想以上に熱く、思わず指を離した。しかしすぐに指先を滑らせるようにして掌で額を覆うと、かなりの熱を感じる。 「ひどい熱です……!」 「大したことではない。少し休んでいれば治る」 石流はエルキュールの手を払うと、後ろ手で壁に手を突き、背を寄せて腰を上げた。しかしすぐに、壁にもたれ掛かったままずるずると滑り落ちていく。 「で、でも……ッ」 「もうすぐ予鈴が鳴るはずだ。お前は、早く授業に戻れ」 再び腰を下ろし、壁に背を預けた格好で目を閉じる石流に、エルキュールは慌てた。 まずは、教師か保険医を呼んでくるべきだろう。しかし職員室も医務室も、食堂からは遠く離れていた。それに呼んできても、そこから再び医務室に運ぶとなると二度手間になってしまう。 それなら自分が直接医務室に担いだ方が早いと考え、エルキュールは手にした鞄を脇に置いて、揃えられた石流の両膝の下に左腕を差し入れた。そして右腕を彼の背中に回し、両足に力を込めてぐっと持ち上げた。 石流の体格からかなりの重量を覚悟していたが、吃驚する程に軽い。 腕の中で、石流はぐったりとしていた。苦しそうに胸を上下させ、抵抗もしなければ、瞼を開けようともしない。 エルキュールは石流を揺らさないよう気を付けながら、医務室へと走った。渡り廊下を過ぎ、途中で誰かに呼び止められたような気がしたが、一目散に廊下を急ぐ。 そして目的地に辿り着くと、扉を肩で押し開いたーーつもりだったが、扉は戸口からぱかっと外れ、甲高い音を響かせながら、部屋の内側に向かって倒れた。 医務室の中では、正面に位置する事務机に腰掛けた赤毛の女医が、コーヒーカップを口元に運んだ姿勢のまま、入り口に立つ彼女をぽかんと見つめている。 「エルキュール・バートンさん?」 女医はコーヒーカップを机上に置いて椅子から腰を上げると、彼女と彼女の腕に抱かれた石流を見比べ、目を見開いた。 「貴方、トイズが戻ったの……?」 しかしその言葉に構わず、エルキュールは外れた扉を避けて医務室へと足を踏み入れ、女医へと駆け寄った。 「先生、石流さんが……ッ」 腕の中の石流を見せるように、女医に詰め寄る。 「あの、登校時間にいつもの場所に居なくて、おかしいなって思って食堂を見に行ったら床に座り込んでいて、それで熱が酷くて……っ」 小声でまくし立てるエルキュールに、女医は目をしばたたかせた。しかしすぐに我に返り、エルキュールの頭を軽く撫でる。 「落ち着きなさい、バートンさん」 そして白衣を翻すと、部屋の奥に並ぶ白いベッドを顎で指し示した。 「とりあえず、一番窓際のベッドに石流さんを」 「は、はい」 その指示に従って、エルキュールは敷き布団だけ敷かれたベッドの上にそっと石流を横たえた。すると女医は、石流の腰の白エプロンと首元のスカーフを手早く外し、後頭部で結ばれた髪を解き始めた。 「あの、先生、何を……?!」 「何って……このままじゃ寝かせられないし、診察できないでしょう?」 そして胸元のボタンを全て外し、上着をはだけさせると、白衣のポケットから聴診器を取り出した。 「エルキュールさんは、靴を脱がせて」 「は、はいっ」 エルキュールは、石流の片足を軽く持ち上げると、長靴のような黒ブーツに手をかけ、そっと脱がせた。もう片方も同様に脱がせ、白い靴下を履いた長い脚を布団の上に戻した。脱がしたブーツをベッドの下に置き、この後どうすればいいのか狼狽えていると、棚にある体温計を持ってくるように女医から指示され、慌ててベッドから離れる。 薬品の並ぶ棚の引き出しから電子体温計を取り出し、エルキュールがベッドの傍らに戻ってくると、女医は石流の胸元に聴診器をあてていた。 石流は荒い呼吸を繰り返していたが、軽く眉を寄せるとうっすらと瞼を開いた。 「ここは……?」 「医務室です」 女医の端的な答えに、石流はベッドに腕を突き、半身を捻って起きあがろうとした。 「まだ起きあがらない方がいいですよ」 女医は背中を見せる石流の肩を押さえ、白い上着の隙間から背中へと聴診器を滑り込ませた。「大きく息を吸ってみて下さい」と幾つか指示を出しながら、聴診器を動かしていく。石流はぼうっとした面もちで素直に従っていたが、聴診器が背から離れると、ベッドの上に両手を突き、のろのろと上半身を起こした。そして膝を寄せてベッドから足を下ろそうとする。しかし女医はその動きを押し止めると、片手を伸ばして彼の顎を捉えた。 「バートンさん、石流さんの肩を支えて」 「あ、はい」 言われるがまま、エルキュールは体温計を隣のベッドの上に置いて、石流の両肩に触れた。思っていたよりもコック服の手触りは柔らかい。 倒れないように背後から支えると、女医は石流の顎を持ち上げ、「口を大きく開けて下さい」と指示した。石流が虚ろな眼差しでゆっくりと唇を開くと、女医は棒アイスを食べた後のような木製のへらを白衣の右ポケットから取り出し、透明な包装紙を破って、彼の舌の上に載せた。暫しその奥へと目を凝らしていたが、ゆっくりと抜く。そして破った包装紙と一緒に、白衣の左ポケットへと放り込んだ。 「はい、もういいですよ」 女医の言葉に、石流はゆっくりと口を閉じた。うっすらと開かれた唇から、熱のこもった息を短く吐き出している。 女医が石流の背に腕を回すのを見て、エルキュールは彼の肩から手を離した。石流は身じろぎ、「まだ仕事が」とうわ言のように漏らしたが、彼の身体はゆっくりとベッドに押し戻されていく。 エルキュールは、隣のベッドに置いた電子体温計を再び手に取った。ケースから取り出して女医に差し出すと、女医は「ありがとう」と笑みを返し、石流の腕を持ち上げ、右脇に挟んだ。そして露わになった胸元や腹部に触れながら、「頭痛はありますか?」「ここを押さえると痛いですか?」「寒気はありますか?」といった質問を繰り出している。 エルキュールは、ぽつぽつと答える石流に目を向けた。 石流の長い黒髪が、白い枕に広がっている。 髪を解いた彼を見るのは初めてだった。眉間に皺を寄せているものの、後頭部で髪をひとまとめにしている時よりも柔らかな印象を受ける。 そのまま視線を落とすと、露わになった上半身が目に入った。胸元にはしっかりと筋肉が付いていて、肋骨の下は窪み、そこから腹部にかけてうっすらと縦に割れている。 しょっちゅう肌を露出させる二十里と比べるとかなり筋肉質だったが、背後から抱きつけば両手首が交差できそうな程に腰が細かった。そこそこ厚い胸板を目にしても線が細い印象を受けるのは、そのせいなのだろう。 二十里がモデル体型なら、石流はスポーツ選手のような肉付きだった。当然といえば当然だが、女の子の体つきとは全く違っている。エルキュールは、石流の上半身を触診する女医の手を目で追いながらしげしげとその身体を見つめていたが、やがて我に返った。 真っ赤になりながら、露わになった上半身から顔を背けると、薄く瞳を開いた石流と目が合う。彼はそれでようやく彼女の存在に気付いたらしく、「何故、お前が」と不思議そうな声音をこぼした。 「バートンさんがここまで運んできてくれたんですよ」 代わりに答えた女医に、石流は「どうやって」と言いたげに眉を寄せた。 「トイズが戻ったみたいですね」 「え?」 言われて初めてエルキュールもその事実に気が付き、紅の瞳を見開いた。 無我夢中だったが、冷静になって考えれば、トイズのない自分が体格差の大きな石流を担げるはずがない。 エルキュールは、胸元まで持ち上げた自分の両の掌を見つめた。 「入り口の扉が綺麗に外されましたから、間違いないでしょうね」 苦笑した女医に、エルキュールは縮こまった。恥ずかしさのあまり頬が熱くなり、両手で顔を覆い隠す。 「本当に、戻ったのか……?」 石流の掠れた声に、エルキュールは僅かに顔を上げた。 掌を少し下ろして顔を向けると、石流は熱で頬を上気させ、強く眉を寄せて見上げている。熱で潤んだような、それでいて心配そうにもみえる石流の視線に、エルキュールは頬から両手を離した。 背後にあるベッドへと向き直り、端に手を掛ける。大きく息を吸い、吐き出した。そして持ち上げようとしてーー唸った。 |