僅かに潮の香りを含んだ夜風が吹き抜け、アルセーヌのマントを大きくはためかせた。
 眼下には、街灯やビルの灯り、そして色とりどりの看板で煌めくヨコハマ市街が広がっている。
 営業時間を過ぎたヨコハマタワーの展望室は闇に沈んでいた。その頂上付近に潜む彼ら以外の気配はない。
「今日も楽勝だったなー!」
 追撃してくる警察とミルキィホームズを振り切り、ラットは大きく伸びをした。その隣でストーンリバーは口元を僅かに緩め、トゥエンティは鼻歌交じりにくるくると回っている。
 アルセーヌは三者三様な彼らに小さく笑みをこぼすと、手にした宝物を胸元へ仕舞った。
「では、学院に戻りましょうか」
「はっ」
 アルセーヌの言葉に、ストーンリバーが頭を垂れる。
「でもその前に」
 アルセーヌはくるりと振り返ると、両腕を腰の後ろへと回した。
「ちょっと小腹が空きません?」
「はい?」
 小首を傾げるアルセーヌを真似るように、トゥエンティ小さく首を傾げ、目を瞬かせた。
「最近、市内から学院へと入る道の手前に屋台が出てますわよね」
「えぇ、見かけますね」
 アルセーヌの言葉に、ストーンリバーが小さく頷く。
 ヨコハマ市内からグランドヨコハマ渓谷へと続く道の途中にホームズ探偵学院があるが、その道へ入る市街地の外れに赤提灯を下げた屋台が出ているのを、ラットも時々見かけていた。
 トゥエンティが用意したグライダーで空路から学園へ戻っていると、その赤い光は街灯の白い光しか点在しない闇の中でよく目立っている。
「気になるので、ちょっと寄っていきません?」
 アルセーヌは楽しそうに微笑を浮かべると、ラットへと目を向けた。
「どうですか?」
「え?お、俺は別にいいけど……」
 ラットは腹の空き具合を確認するように、片手でヘソ辺りを触った。
 夕食は学院で済ませてはいるが、食べられないことはない。
 アルセーヌがこうして皆を外食に誘う事など滅多になく、もしかして、とラットが顔を上げると、柔らかな笑みを浮かべるアルセーヌと目が合った。
 今日が自分の誕生日で、一ヶ月程前にトゥエンティに話した事がアルセーヌに伝わってしまったのではと思うと、顔が熱くなってくる。
 ラットは慌ててアルセーヌから視線をそらせた。
 それでも気になり、心臓をばくばくさせてアルセーヌの顔を盗み見ると、アルセーヌはラットの横にいるトゥエンティとストーンリバーへ目を向けている。
「貴方達はどうです?」
「美しいアルセーヌ様となら何処とでも!」
 トゥエンティはそう叫ぶと、上着をはだけさせた。それを横目で睨み、ストーンリバーは小さく息を吐いている。
「持ち合わせは用意してありますので、問題ありません」
「では決まりですね」
 二人の言葉に頷くと、アルセーヌはくるりと背を向け、タワーから飛び降りた。
 スリーカードもその後へと続いていく。
 ビル街を屋根づたいに駆け抜け、住宅街へと進んだ。
 やがて地上に降り立った時には、彼らは怪盗の姿から学院での服装に一転していた。二十里は素肌に鮮やかな黄緑色のジャケットを羽織り、石流は用務員時の碧のタートルネック姿だったが、アンリエットと根津は制服を身につけている。
「消灯時間が過ぎての外出になりますが、宜しいので?」
 生真面目な石流の言葉に、アンリエットは小さく笑った。
「それはミルキィホームズも同様ですし、私たちは別の公用で外出していた事にしましょう」
 あとで書類でも偽装しておきましょうか、と白い街灯が点在する暗い夜道を進んでいく。
 やがてその先に、赤い提灯が見えてきた。「らぁめん」と筆で書かれた長い暖簾の先に、四本足の椅子が四つ見える。
 近寄ると、他の客の姿はなかった。石流が率先して暖簾をくぐると、長袖の白シャツに黒エプロン姿の男に声を掛けた。
「主、まだやってるか」
「ええ、大丈夫ですよ」
 屋台の店主にしては若い顔立ちの男だったが、石流が片手で持ち上げた暖簾の下から現れたアンリエットと根津を見て、少しばかり目を丸くした。どうしてこんな時間に子供が、と言いたげな表情を浮かべたが、すぐに愛想の良い笑みへと変わる。そしてお冷やを四つ用意すると、テーブルの上に並べた。
 石流は暖簾から手を離すと、屋台の足場に掛けられた四つ足の椅子を引き出した。そしてアンリエットと根津を促すと、アンリエットはそれに腰を下ろし、屋台の天井付近に掲げられたメニューを見上げた。
「何にします?」
 店主の陽気な声音に、アンリエットは小さく頷いた。
「では、醤油ラーメンを」
「じゃぁ俺も同じで」
 アンリエットの隣に腰掛け、根津も同様に注文する。
 根津の隣に腰掛けた石流は、おでんのはんぺんとジャガイモ、厚揚げ、大根、そして牛筋を注文した。
「んー、ボクはどうしようかな」
 二十里は一番左端の椅子に腰を下ろし、屋台の台に肘をついてメニューを見渡している。
「ワインはないのかい?」
「すいやせん、置いてないんですよぉ」
 店主が申し訳なさそうに苦笑すると、石流が深い溜め息を吐いて二十里を睨み付けた。
「無茶を言うな。こんな所でワインを注文するバカがいるわけないだろう」
「うーん、でもジャパニーズライスワインや瓶ビールはちょっとねェ」
 二十里は肘をついたまま横目で石流を見やると、小さく首を傾げた。
「君、ボクが注文したら一緒に飲むかい?」
「いや。まだ仕事中だから止めておく」
 アンリエット様を部屋に送り届けるまでが仕事だと語る石流に、二十里は肩をすくめた。
「君は相変わらず真面目だよねぇ。じゃぁ、ボクはおでんの大根で」
「まいどー」
 店主は、正方形に区切られたおでん鍋から注文された串を取り出すと、小皿に並べて石流と二十里の前に置いた。
「主、小皿を二つ頼む」
「はいよ」
 店主から差し出された小皿を受け取ると、石流は近くの箸入れから割り箸を取り出し、両手で綺麗に割った。そして割り箸を器用に使って大根と厚揚げを半分に割り、牛筋は串から引き抜いた。そしてそれを半分ずつ小皿に盛り、根津へと差し出す。
「これも喰え」
「あ、うん」
 根津はそれを受け取ると、近くの箸入れに手を伸ばした。
「アンリエット様も如何ですか」
「ええ、でははんぺんを少しだけお願いします」
 石流ははんぺんに箸を入れると、器用に切り分けて小皿へと取り分けた。
「どうぞ」
 石流から差し出された小皿を根津が受け取り、隣のアンリエットへと手渡していく。
「有り難う」
 アンリエットは割り箸を手に取ると、はんぺんを口元へと運んだ。
 根津も自分の皿に取り分けられた大根を箸で掴み、口の中へと放り込む。
 少し甘みのあるそれは、汁が染み込んでいて美味しかった。
 口を動かしながら根津が横目でアンリエットを盗み見ると、アンリエットは満足げな笑みを浮かべて咀嚼している。
 あの時とは違う場所で違う屋台だが、根津は口の中の大根を呑み込むと、そわそわとした面もちで尋ねた。
「でもアンリエット様、どうして急に屋台に寄ろうなんて……?」
 もしかしてこれが誕生日祝いなんだろうかと思うと、胸が高鳴って顔が赤くなってくる。
「たまには良いではありませんか」
 そう言ってアンリエットは箸を置くと、根津へと向き直った。
「遅くなりましたが、根津さん」
 アンリエットは根津の目を真っ直ぐに見返し、微笑を浮かべている。
「誕生日おめでとう」
 そしてスカートのポケットから、掌サイズの小箱を取り出した。ベージュの紙でラッピングされた箱には、青のリボンが巻かれている。
「これは、私たちからです」
 根津は手にした箸を小皿の上に置くと、両手を制服の上着で拭って、アンリエットが両手で差し出した小箱を受け取った。
「あ、有り難うございます、アンリエット様!」
 上擦った声になりながらも頭を下げると、背後から二十里の拗ねたような声が耳に届いた。
「ボク達にはないのかい?」
 根津が二十里と石流の方へ顔を向けると、二人とも小皿に箸を置き、穏やかな眼差しを向けている。
「え、あ、うん……有り難う」
 教室でミルキィホームズ達に貰った時と同様、なんとなく気恥ずかしくなって、根津は目を伏せた。
 誕生日プレゼントを貰うのは初めてではない。だが、こうして直接手渡されるのは初めてだと気付き、根津は頬が熱くなるのを感じた。
「開けてみてもいいですか?」
 根津が上目がちにアンリエットを伺うと、彼女は小さく頷いている。
 根津は内心焦りながらリボンを外し、包装紙を開いた。
 中には白い小さな箱が入っている。
 蓋を開けると、シルバー製のネクタイピンが入っていた。やや左寄りに円形で蒼の飾りが付き、薄く盛り上がっている。その飾り部分は七宝焼きのようで、カッティングされたダイヤのような文様が入っていた。電灯の光を浴びて、蒼色に小さく煌めいている。
 根津は銀色のネクタイピンを摘むと、制服のネクタイに付けてみた。アンリエットの方へ上半身を向けると、彼女は嬉しそうな笑みをこぼしている。
「とてもよく似合っていますわ」
「どうだい?シンプルだけどボクの瞳みたいに美しいだろう?」
「それなら制服に付けても、校則違反にはならんだろうしな」
 石流はコップに入った水を一口飲むと、切れ長の瞳を根津へと向けた。
「ラーメンの汁で汚さないように仕舞っておけ」
「うん」
 根津は素直に頷くと、ネクタイピンを丁寧に箱に戻した。そして制服のポケットに滑り込ませる。
 そこへ、店主が根津とアンリエットの前にラーメンどんぶりを並べた。
「お待たせ、醤油ラーメン二つ」
 湯気が出るそれからは、醤油の香ばしい香りが漂ってくる。
「いただきまーす」
 根津がずるずるとラーメンを啜っていると、静かにラーメンを口へ運んでいたアンリエットが箸を止めた。石流も厚揚げを口に運ぶのを途中で止め、眉間に皺を寄せている。二十里は皿に残った大根の最後の一欠片を口元へ運ぶと、「おや」と苦笑を浮かべた。
 根津が耳を澄ませると、市街地へ続く方向から小さな足音が響いている。それは徐々に近づいてきて、一度近くで立ち止まると、一気に駆け足へと変わった。
 その足音には根津も聞き覚えがある。根津が「あ」と思った次の瞬間には、背後に垂れていた暖簾が大きく揺れた。
「アンリエットさーん!」
 ピンクの探偵服のシャロが、アンリエットに後ろから抱きついている。
「あら、シャーロック」
 アンリエットは少し驚いた表情で、肩越しにシャロを見上げた。シャロの背後には、探偵服に身を包んだコーデリア、エリー、ネロが、目を丸くして根津達を見つめている。
「会長、どうしてここに?」
 コーデリアが尤もな疑問を口にすると、アンリエットは「別件で外出していましたので」と短く答えた。
「ですがその様子では、また怪盗帝国を捕まえ損ねたようですわね」
 アンリエットが柳眉を寄せると、ミルキィホームズ達は申し訳なさそうにうなだれた。
「うぅ、また逃げられましたー」
「すみません……」
 頭を下げるコーデリアの横で、エリーは顔を伏せている。
「でもさ、なんで根津がアンリエット会長と一緒にこんなトコにいるんだよ?」
「お前等と違って優秀だからに決まってるだろ」
 根津がそう返すと、ネロは根津の肩越しにテーブルの上を覗き込んだ。
「いいなー。根津、それ一口くれよ!」
「お前、一口って言いながら全部喰う気だろーが!」
 横取りされそうな危機感に、根津はラーメンどんぶりを両手で掴んだ。だがその隙に、ネロはその脇にある小皿から牛筋を掴み、そのまま自分の口へと放り込んでいく。
「へへ、もーらい!」
「ちょ、おま、それ俺の!」
「別にいいじゃーん」
 牛筋を掴んだ指先を舐め、もぐもぐと口を動かすネロに、根津は肩越しに冷ややかな視線を送った。
「……太るぞ」
「いいんだよ、普段カロリーが全然足りてないんだから!」
 そう反論すると、ネロは恨みがましそうに隣の石流を見下ろした。だが、石流はそれを無表情に受け止め、平然と厚揚げを口に運んでいる。
「こんなに可愛い僕たちがお腹を空かせているんだから、奢ってもバチは当たらないと思うなぁ」
 ネロは瞳をきらきらとさせ、胸元で両手を合わせて懇願するようなポーズを取った。だが猫を被ったその仕草を、石流は鼻先で笑った。
「断る」
「石流さんのケチー!」
 全く動じない石流にネロは唇を尖らせ、拳を握りしめた。そして店主へと身を乗り出していく。
「おじさんも何か言ってやってよ。可愛い女の子がこんなにお願いしてるのに、冷酷無慈悲だと思わない?」
「いやぁ、おじさん、お客さんの話には口を挟まない主義だからさぁ」
 店主は眉を寄せると、からからと笑った。
「冷酷無慈悲だなんて、ミルキィホームズにしては難しい言葉を知ってるねぇ」
 既に食事を終えた二十里は根津達の方へと向き直り、ネロが口にした言葉に肩をすくめている。
「ネロも……それ以上はダメ……」
 エリーもネロの探偵服の裾を引っ張って、身を乗り出す彼女を制止した。
「ちぇっ」
 ネロは小さく息を吐くと、再び根津の背後へと張り付いた。
「な、なんだよ……」
「じーっ」
「や、やらねーぞ」
 その隣では、シャロがアンリエットの手元を無言で見つめている。
「シャーロック、涎が垂れていますよ」
「すびばせん」
 慌てて口元を拭うシャロに笑みをこぼすと、アンリエットは手にしたラーメンどんぶりをシャロの方へと差し出した。
「……ふふ、私には少し多いですから、食べるのを手伝って貰えますか?」
「わぁぁい、アンリエットさん有り難うございます!」
 シャロは新しい割り箸を手にとり、ラーメンどんぶりにかぶりついた。
「美味しいですぅ!」
「独り占めしてはダメですよ。皆にも順番に手伝って貰わないと」
 アンリエットの言葉に、ネロは諸手を挙げている。
「わーい、流石僕達の会長だね!」
「有り難うございます、会長!」
 コーデリアは胸元で両手を組むと、感激した表情でシャロの後ろへと並んだ。
「あ、有り難うござます……」
 ネロはアンリエットの言葉ですぐさま根津の背後から離れ、彼女の傍らへと寄っていたが、エリーは根津と石流の間で足を止めていた。そして、石流の皿に残っているおでんのジャガイモと、コップの水を飲む石流の横顔を交互に眺めている。
 石流もその視線に気付いて箸を止めたままだったが、やがて小さく息を吐き出した。
「……何故こちらを見る、エルキュール・バートン」
「す、すみません……お芋があったので、つい……」
 そう言い終わると同時に、ぐぅ、とエリーのお腹が鳴った。
 石流は小さく舌打ちし、顔を正面に向けたまま、ジャガイモが残った皿を彼女へと突きだした。
「ほれ、芋だ。まだ箸をつけてないから、欲しいのならくれてやる」
「あ、有り難うござます……」
「あーっ、僕も食べる!」
「分けましょう!」
 まだラーメンどんぶりに口を付けているシャロを除いた三人でジャガイモ争奪戦が始まり、根津の牛筋を口にしながらそれに参戦するネロに、根津は呆れた眼差しを向けた。
「お前さぁ、俺の牛筋を喰っておいて、さらに芋にもいくのかよ」
「しょうがないじゃん、お腹空いているんだからさぁ」
「せめてそこは他の二人に譲れよ。『譲崎』って名前のくせに」
「ならお前のラーメン、僕にも一口くれよ」
「これ、俺の食べかけだぞ?」
「根津だから別にいいし、僕は気にしないよ?」
「え?」
 ネロの言葉でさらに赤くなるエリーが視界に入り、やがて根津もその言葉の意味に気付いた。
 途端、真っ赤になって声を荒らげる。
「な、なにバカな事言ってんだよ!や、やるわきゃねーだろ!」
 だが、ネロは自分の発言の意味に気付いていないのか、反論する根津に眦を立てた。
「なんだよ、別にいいじゃん。根津のケーチ、ケーチ!」
「い、いいわけないだろ!」
「そうだ、ラーメンよりもボクを見ろぉぉぉ!」
「いやああ、おまわりさーん!」
 ジャケットだけでなく白のパンツまで脱ぎ捨て、全裸に近い格好になった二十里にコーデリアが悲鳴を上げている。
「騒々しいですわよ、貴方たち」
 深く溜め息を吐き、すみませんと頭を下げるアンリエットに、店主は苦笑を浮かべた。
「構いませんよ。どうせお客さん達の後は店仕舞いする時間ですし」
 そしてアンリエットの傍らで芋を四等分に取り分けているミルキィホームズ達を眺めながら、笑みをこぼした。
「賑やかなのはいいことです」


****************



戻る
戻る 戻る