ーーお母さん?

 長い廊下に、彼は独りで立っていた。
 声に出して呼ぶが、それに応える姿も返事もない。
 反射的に、彼は自分が夢を見ているのだと気付いた。
 だが自分の意志とは正反対に、体は勝手に廊下を進んでいく。
 あの扉の先に行きたくないと思った。
 だが映画を見ているかのように、自分の両腕は扉に手をかけ、開けていく。
 部屋の中央には、長方形のテーブルと四つの椅子があった。だが空っぽのはずのその一つに、座っている誰かの影がある。

 ーーお母さん?

 思わずそう呟いて駆け寄る。
 しかし彼の正面の席には、彼が求めた人ではなく、怪盗アルセーヌが座っていた。

 ーーなんで?

 思わずそう声に出すと、仮面姿のアルセーヌは微笑を浮かべた。

 ーー遅いですわよ。
 ーーそうだよ、はやく座りたまへっ。

 唐突に、アルセーヌに同意する声音が横から聞こえてくる。彼が慌ててそちらへと顔を向けると、自分の席の隣に、シルクハットを被った怪盗トゥエンティが腰を下ろしていた。

 ーーあれ?

 目をパチクリさせながら再びテーブルへと顔を向けると、いつも自分の席にしかないプレートが四つ並んでいる。しかもそのプレートからは、温かな湯気が立ち上っていた。

 ーー何をしている。

 急かすような低い声音に、彼は顔を上げた。
 空いていたはずのアルセーヌの隣の席には、いつの間にか怪盗ストーンリバーの姿が現れている。
 彼が呆然と佇んでいると、テーブルの脇から、探偵服姿の譲崎ネロがひょこっと顔を出した。

 ーー食べないのなら、僕にちょうだい!

 そして、彼の分のプレートに手を掛けた。
 一方、にこやかな笑みを浮かべるアルセーヌの背後から、探偵服のシャーロック・シェリンフォードとエルキュール・バートン、コーデリア・グラウカが顔を覗かせている。

 ーーわーい、これ僕の!
 
 プレートを左手で持ち上げ、満面の笑みを浮かべてフォークをオムレツに刺そうとするネロに、彼は慌てた。

 ーー違う、俺のだ!

 叫ぶと同時にプレートを掴み、二人で引っ張り合いとなる。だがその反動で、二人の手からプレートが離れた。
 黄色と赤、茶と緑、そして白の食器がゆっくりと宙に舞う。

 言葉にならない自分の呻き声で、彼は目を覚ました。

 

 眼前にあるのは見慣れた寮の天井で、あの夢の場所ではない。
「なんだ、今の……」
 根津は大きく息を吐き出すと、仰向けになったまま枕元へ手を伸ばした。最初にポプリを小分けに入れた袋が手に触れ、その横を手探りで探す。ようやく固く冷たい感触が手にあたり、掴んで眼前に翳すと、タイマーをセットした時間より少し早い時刻を指していた。
 根津は目覚まし時計を枕元に戻すと、再び天井を見上げた。
 妙に目が冴えて、二度寝する気分にはならない。
「スゲー変な夢、見た……」
 現実では絶対にありえない状況だった。
 だが、不快ではない。
 右手を眼前に翳すと、甘い香りが鼻孔をくすぐった。
 見上げた天井が、徐々に滲んでいく。
「はは、変なの」
 根津は口元を緩め、声に出して小さく笑った。


<了>


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