第二章
バスの駐車場の左端の一番手前に、シャーロック達が乗ってきたヤサカ観光のバスが停まっている。そのバスの出入り口の扉前に、運転手と着物姿の女がいた。 女は運転手と同じ二四、五歳くらいの風貌で、陽に当たると栗色に煌めく髪は長く、肩の下でゆったりと結んでいる。薄い桜色の着物には、水紋と桜の柄が描かれていた。その上に白の羽織をまとい、右腕に長方形に包んだ風呂敷を載せ、その上に新聞紙で包装された桜の小枝を抱えている。 少しだけ眉を八の字に寄せた運転手となにやら話しているようだったが、声は微かに届くものの、会話は聞き取れない。 「運転手さんの知り合いでしょうか……?」 小首を傾げるシャーロックを見て、根津がバスの方へと顔を向けた。途端「げっ」と顔をしかめる。その声に気付いたのか、着物姿の女がこちらへと顔を向けた。シャーロック達を一瞥して根津に目を留め、にこやかな笑みを浮かべる。 「次郎君、久しぶり」 のんびりとした口調で左手を持ち上げ、小さく降りながら歩み寄ってくる。 「元気そうですねぇ」 「見りゃわかんだろ。って、何でアンタがここにいるんだよ?!」 側に寄ってきた彼女に、根津は狼狽えた。 「桜が咲く季節にまたおいでとは言ったものの、学生の次郎君には難しいかなって思ったので、私が桜を持って会いに来ました」 「はぁ? 意味わかんねぇよ……」 おっとりした口調に、根津は呆れた面もちで溜め息を吐いている。ネロは、二人の親しげなやりとりに眉を寄せると、根津を肘で小突いた。 「おい根津、誰だよこの人」 「え? えっと……学院が無くなった頃にお世話になった人っていうか、その……」 「平たく言うと、居候先の娘といったところですねぇ」 言いよどむ根津に、着物姿の女が口を挟む。 「柏木胡蝶と申します」 奈良の葛城から参りましたと、荷物を手にしたまま軽く頭を下げた。 「石流さんの紹介で、この人の家っていうか、道場っていうの? てか神社……? にお世話になってたっていうか」 「ふーん?」 疑問混じりの説明をする根津に、ネロは訝しげな眼差しを向けている。そして微笑を浮かべる胡蝶の頭の先から草履の先まで見つめると、石流へと振り返った。 「つまり石流さんの知り合い?」 「そうだ」 根津達の側まで歩み寄ってきた石流に、胡蝶は濃藍の瞳を向けた。 「戸隠に行っていたそうですね」 眩しそうに目を細める彼女に、石流は僅かに眉を寄せた。 「仲間が世話になったのに、直接礼を言えず不義理で申し訳ないと思っている」 丁寧に返された言葉に、胡蝶は微笑を浮かべた。 「いえいえ、父も別に気にしていませんよ。わざわざ礼状まで頂きましたし」 ヨコハマのシュウマイ詰め合わせセットを有り難うござました……と軽く頭を下げている。 「え? お前、そんな事してたの?」 「当然だろう」 根津は初耳なのか、一礼する胡蝶と石流を見比べ、目を大きく瞬かせている。彼女がゆっくりと顔を上げると、石流は口を開いた。 「何故貴方がここに」 「呼ばれましたので」 誰に、とは口にしなかった。だがその一言で全てを察したのか、石流は僅かに目を見張っている。 「そのついでに、この時間にここに寄れば、貴方や根津君に会えそうな気がしたものですから」 そう告げると、胡蝶は唇の両端を小さく持ち上げた。 「直に会うのはあの時以来ですが……大きくなりましたね」 濃藍の瞳を少しだけ細め、まるで教師が教え子を見るかのような眼差しで石流を見上げている。そして、彼の後ろで二人のやりとりを覗いているシャーロック達へと顔を向けると、ゆっくりと視線を巡らし、アンリエットで目を留めた。 「そちらの方が、貴方の?」 僅かに躊躇いを見せる石流を横目に、アンリエットが一歩前に歩み出た。 「ホームズ探偵学院の生徒会長を勤めます、アンリエット・ミステールと申します」 そして微笑と共に、単刀直入に尋ねた返した。 「石流さんとは、どういうご関係で?」 「一方的にお世話になっている身です。この子のお父様だけでなく、叔父様にもお世話になりまして」 おっとりとした口調ではあったが、曖昧な表現で、家族ぐるみの付き合いなのだとほのめかしている。胡蝶は小さく笑うと、手にした桜の枝をアンリエットへと差し出した。 「ウチの神社の桜です。荷物になるでしょうけど、宜しければお土産にどうぞ」 「はぁ……」 アンリエットは紫の瞳に困惑を浮かべたものの、反射的にそれを受け取っている。 シャーロックは、横からその包みを覗き込んだ。新聞紙に包まれた枝は人差し指と中指を足したくらいの太さで、小さな花瓶に挿すには程良い長さになっている。しかし枝に点在する蕾はまだ爪くらいの大きさで、堅く閉じられていた。 「早く咲くと良いですね〜」 シャーロックが桜の枝からアンリエットへと視線をあげると、アンリエットは微笑を浮かべ、同意するように小さく頷き返している。 「あら、お願いすればいいじゃないですか」 「え?」 さらりと吐き出された言葉に、シャーロックは大きく目を瞬かせ、左腕に載せていた風呂敷包みを持ち直している胡蝶を見上げた。ネロや根津も、不思議そうに小枝から胡蝶へと視線を向けている。 「では桜にお願いしておきましょうか。今日の夕方までに花開きますように、と」 胡蝶は右の袖口で口元を隠し、ふふふと小さく笑っている。 「こちらの桜はヨコハマの比ではないですからね。機会がありましたら、是非一度いらしてみて下さい」 周辺の山々が全てピンク色に染まると説明する胡蝶に、アンリエットが唇を開いた。 「ヨコハマにもいらしたことが?」 「ええ、とても昔……ちょうど皆さんの年頃に」 記憶を辿るように目を細め、僅かに目を伏せる。 「では私はこれで。お邪魔いたしました」 胡蝶はそう結ぶと一礼し、きびすを返した。そして足早に出口へと向かうと、一度だけ振り返り、根津に小さく手を振っている。 その姿が白壁の向こうに消えると、建物の方から生徒達がわらわらと吐き出されてきた。土産物を入れた小袋を下げている者もいて、それぞれ談笑を続けながら、シャーロックやアンリエット達のいるバス付近へと歩み寄ってくる。生徒達を促して歩み出てきた二十里の後ろで、ガイドはアンリエットが手にした桜の小枝の包みに目を留め、僅かに眉を開いた。 「ねぇねぇアンリエットちゃん、その桜は僕が預かっておこうか」 運転手は、アンリエットが抱き抱えた桜の小枝に目を落とすと、気さくな調子で提案した。 「これから博物館だし、持ったままだと邪魔でしょ? バスに置いておくから、宿に着いたら漱ちゃんに花瓶に生けて貰いなよ」 「アンリエット……」 「ちゃん?」 耳慣れない響きに、シャーロック達だけでなく、アンリエット本人も呆気に取られていた。彼女をそう呼ぶ者はヨコハマにはまずおらず、アンリエットも戸惑いを見せている。 「アンリエット様に何て口の聞き方を……!」 声を潜めて詰め寄る石流に、運転手は大きく目を瞬かせた。 「え? そりゃぁ漱ちゃんの上司だけど、僕の上司ってわけじゃないし、年下の女の子だし?」 不思議そうに小首を傾げる様に、石流は小さく息を吐いた。そして眉間に皺を寄せる。 「一応言っておくが、ホームズ探偵学院の生徒会長は、学院長より上の立場だ」 その説明に、運転手は大きく目を見開いた。 「え? じゃぁ漱ちゃんの雇い主って学院長じゃないの?!」 「違う。書類上でもアンリエット様だ」 「ええー、そうなんだ?!」 ふつうの学校の生徒会とは違うんだねぇ、すごいねぇと松葉色の瞳を瞬かせ、石流とアンリエットを何度も見比べている。 「でも、可愛いからアンリエットちゃんでも良いよね?」 「良いわけないだろう」 悪びれた様子がない運転手に石流は強く眉を寄せたが、アンリエットは小さな吐息を漏らした。 「別に構いませんよ」 軽く眉を寄せ、口角を小さく持ち上げる。 「呼び方なんて、別にどうでもいいじゃないですか」 「やったぁ」 アンリエットは呆れたような眼差しを向けたが、運転手は両手を軽く上げて喜色を浮かべている。そして彼女から桜の枝を受け取ると、バスの扉を開け、車中へと階段を昇った。その後ろ姿に、ガイドが扉の前から声をかける。 「はじめ君、ついでに旗取ってくれる?」 棚の引き出しの中にあるから、と言葉を続けると、運転手は「へーい」と間延びた返事を返し、小さな物音を立てている。 ガイドは軽く眉を寄せると、すぐ側にいる石流に紅い眼差しを向けた。 「もしや胡蝶様ですか」 囁くような声音が、微かにシャーロックの耳元にも届いてくる。石流は紅い視線を受け止めると、微かに唇を開いた。 「呼び出されたと言っていたが」 「聞いてませんよ」 端的に吐き出された言葉に、ガイドは柳眉を寄せている。そこに軽い足音を立てながら、運転手が小さな布を巻き付けた白い棒を手にし、階段を降りてきた。 「これだっけ?」 「そうそう」 ガイドが例を告げながらそれを受け取ると、棒の部分を伸ばし、巻き付けられた白布を解いた。それは小さな旗で、バスやバッチと同じヤサカ観光のマークが入っている。 「では、博物館に移動しましょうか」 手にした小旗が目印になるように、ガイドは頭上に掲げた。そして小さく振って、生徒達を先導していく。 シャーロックはアンリエットと共に、その後に続いた。さらにその後ろに根津やネロ、エルキュールとコーデリアが並び、最後尾に石流と二十里が続いている。 シャーロックが肩越しにバスへと振り返ると、生徒達を見送るように、運転手が小さく手を振っていた。 <続く> |