ーーお母さん?

 長い廊下に、彼は独りで立っていた。
 声に出して呼ぶが、それに応える姿も返事もない。
 仕方なく彼は廊下を独りで進み、突き当たりにある木製の扉に手をかけた。
 両手で開けると、部屋の中央には長方形のテーブルと四つの椅子があった。だがどれも空席で、自分にあてがわれた子供用の小さな椅子の前にだけ、オムライスとハンバーグ、そして茹でた人参とブロッコリーが載ったプレートがある。

 ーーお母さん?

 彼は声に出して呼んだ。
 しかし、そこにも彼が求める姿はない。
 彼以外の気配はなく、部屋は静まり返っていて、彼はテーブルへと歩み寄った。
 プレートは既に冷めており、料理の横には、見慣れた文面がプリントアウトされた紙が置かれている。
 彼は右手を降り挙げると、プレートを横に薙ぎ払った。
 黄色と赤、茶と緑、そして白の食器がゆっくりと宙に舞う。

 ーーお母さん!

 彼はもう一度、声に出して呼んだ。
 だが自分の声が響くだけで、再び無音に戻る。
 彼は自分の椅子を両手で掴むと、頭上へと振り上げ、テーブルに叩きつけた。

 そして言葉にならない自分の呻き声で、彼は目を覚ました。

****************



 欠伸をかみ殺しながら根津次郎が食堂へと足を踏み入れると、女生徒が談笑する声が耳に入った。
 そちらへ目を向けると、入り口から遠く離れた奥の方で、コック姿の石流漱石がテーブルに敷かれた白い布を新しいものへと取り替えている。そして彼から少し距離を取って、雛が親鳥の後をついて歩くように、数人の女生徒がまとわりついていた。彼の仕事を邪魔しないよう、けれど気を引こうとするかのように話しかけている。しかし石流は無表情に短く相づちを返すだけで、淡々と自分の仕事を続けていた。会話するというよりは黙々と話を聞いているだけのような風情だったが、それでも彼女たちは嬉々とした様子で石流の後をついて歩き、その一挙一動を見つめている。
 その一団の中に見知ったクラスメイトの姿を二人見つけ、根津は眉を顰めた。石流のような朴念仁を相手にして何が楽しいのか分からないが、女子の集団を相手にするのが面倒なのは、根津もミルキィホームズ達を相手にしてよく分かっている。
 根津は彼女たちに気付かれないようそっと足音を忍ばせると、食事時に自分へとあてがわれたテーブルへと足を進めた。自分の椅子を静かに引き、腰を下ろす。そして手にした通学鞄をテーブルの上に載せてその上に両腕を置き、枕代わりにして顔を伏せた。
 窓辺から離れてはいるものの、天井近くまで広がった大きなガラス窓からは暖かな陽射しが降り注ぎ、予想通りに心地よい。
 うつらうつらと微睡んでいると、歩幅の大きな足音が微かに耳に入った。そしてそれを追う複数の軽い足音と、女生徒の談笑が徐々に大きくなってくる。
 それらは彼の正面でぴたりと止まった。
「ここは寝る場所じゃない」
 石流の溜め息混じりの声が、頭上から投げかけられた。
「仮眠したいなら寮へ戻ったらどうだ」
 呆れた口調の石流の周囲から、好奇心が入り交じった視線と覗き込むような気配を感じる。
「いいじゃん、別に」
 根津は瞼を開くと、伏せた顔を小さく持ち上げた。円形のテーブルの先に、石流のコック服と、両手に持っていると覚しき白い布の固まりが目に入った。
「夕食までには帰るからさ、ちょっとだけ貸してくれよ」
 欠伸をかみ殺していると、クラスメイト達の気遣う声が耳に入った。
「なに、根津くん眠いの?」
「もうすぐ夕方だよー?」
 目を上げると、二人とも石流の両脇で心配げに見下ろしている。面倒くさいと思いながらも、根津はゆっくりと上半身を起こした。
「昨日遅かったせいもあるけど、さっきの授業がスゲー眠くてさぁ」
 そう言って大きく伸びをすると、石流が眉を顰めた。
「化学か?」
 どういうわけか、彼は根津の時間割まで把握しているらしい。
「だって知ってる事しかやらねーんだもん」
 根津は持ち上げた右手で口元を隠しながら、大きく欠伸をした。
 昨夜は怪盗帝国として超ヨコハマ美術館で暴れていたが、その時自作爆弾の改良案を思い付き、結局徹夜でいじっていた。その結果、午前中はなんとか持ちこたえたものの午後から急激な睡魔に襲われ、だが寮まで戻る気力もなく、静かそうな食堂へ移ってきたのだが、まさか石流目当ての女生徒達がたむろしているとは思いもしなかった。
「根津君、化学の成績すっごく良いもんね」
 赤縁眼鏡を掛けたクラスメイトは、感心したような口調で頷いている。
「でも、夜更かしなんていけないんだー」
 女生徒に「ねぇ、石流さん」と同意を求められ、石流は僅かに眉を寄せて「そうだな」と短く返した。
「一時間たったら起こしてやる」
 石流は軽く息を吐き出すと、手にした白い布を二つ差し出した。
「鞄よりもこれを使え」
「サンキュー」
 根津は片手で布を受け取ると、もう片手で鞄を床に置いた。そして布をさらに折りたたみ、高さを調節する。
「どうせこの後洗濯するからな。汚れても問題ない」
 そう呟く声が耳にはいるが、根津はお構いなしにその上に腕を載せ、顔を伏せた。鞄よりも遙かに心地よい感触に、目を閉じる。
「ところで、お前に訊きたいことがある」
「ん、なに?」
 思い出したかのように問い掛けてくる石流に、根津は腕の上に顎を載せた。そして寝ぼけ眼で彼を見上げる。
「お前の好きな料理は何だ?」
「はぁ?」
 唐突な内容に、根津は目をこすりながら小首を傾げた。
「うむ、来月の献立を考えているんだが、妙案が思い浮かばなくてな。参考までに訊いておきたい」
「えー、なんで根津君なの?」
「私達にも聞いてくださいよぅ」
 石流の周囲にいる女生徒達は不満げに唇を尖らせているが、石流は彼女たちを冷ややかに見渡すと、深く息を吐いた。
「お前達の好きなものは既に把握している」
 だから参考にはならないと、淡々と言い放った。
 おそらくそういう話題が出た事があるのだろう。だが、他愛のない会話をちゃんと覚えられている事が嬉しいのか、女生徒達は不満を口にしながらも笑みを浮かべている。
「旨けりゃ、別になんでもいいよ」
 根津は小さく息を吐き出すと、そう返した。
「具体的にはないのか?」
「食べられれば別に何でもいいし」
 頭をかきながら、眉を軽く寄せる。だが眠気もあって、特に思い浮かぶものはなかった。
「家にいた頃はどうしてたんだ。例えば、お前の母親がよく作っていた料理とか」
 石流にしては珍しく食い下がってくる。
 だが「母親」という単語と、周囲の女生徒の無邪気な表情が、眠気で浮ついた根津の心に冷水を浴びせ掛けた。そして水底からぼこぼこと気泡が沸き上がるように、鬱陶しさと苛立ちが徐々に募ってくる。
「ねぇよ、そんなもん」
 根津は小さく舌打ちした。
「母さんも父さんもずっと家に居なかったし、物心ついた頃からいつも一人だったし」
 半ば投げやりに言い放ち、「そもそも母さんが料理できるかどうかも知らねぇよ」と一気に吐き出すと、女生徒達は押し黙った。
「そうか」
 石流はいつもの口調で短く返したが、女生徒達は目をしばたたかせている。
 その表情で我に返った根津は、気まずさに目を伏せた。
 何か気の利いた言葉で取り繕えばいいのだろうが、何も思いつかない。助けを求めるように、根津は話の矛先を石流に向けた。
「えっと、石流さんは何かあんの?お母さんの思い出の料理みたいなの」
「あぁ」
 やや上擦った根津の声音に、石流は淡々と言葉を続けた。
「私の母は壊滅的に料理が下手だった」
 だから自分が作れるようになるまでは祖母や父が作っていたと、彼は目を細めた。
「だが、母は父が作るロールキャベツが大好きで、それだけはまともに作れたんだ」
「へぇ」
 変なの、と根津が率直な感想を漏らすと、石流は苦笑を浮かべている。
「あぁ、変わった人だったと息子の私でも思うよ」
「じゃぁ、石流さんが家を出ちゃって、お母さん大変なんじゃないですか?」
「そうだな……」
 横から口を挟んだクラスメイトに、石流は僅かに眉を広げ、微笑をこぼした。その表情で女生徒達の重苦しい雰囲気が一転し、浮かれたような軽やかなものへと変わっていく。
 だが、根津は微かな違和感を覚え、軽く片眉を寄せた。
 それが何かは分からないが、妙に頭の片隅に引っかかる。
 根津は、上目で石流を見やった。
 彼は細い目をさらに細め、彼にしては珍しく、優しげな眼差しで頷いている。
 違和感の正体を見定めようとしたが、再び睡魔が頭をもたげてきて、根津は大きな欠伸をした。途端、何もかもが面倒になり、どうでもよくなってくる。
「そのロールキャベツって、トマトソースですか?それともホワイトソース?」
「いや、しょうゆ出汁の和風テイストだ」
 女生徒の問いに淡々と答える石流に、根津は口を挟んだ。
「じゃぁ、俺はそれでいいよ」
 枕代わりに積んだ布を両腕で押さえながら、根津は石流を見上げた。
「そういうことで、よろしく」
 そして再び両腕の上に顔を埋めた。目を閉じるが、立ち去る気配はない。
「もういい?」
 顔を伏せたまま半ば投げやりに尋ねると、石流は静かな口調で返した。
「あぁ。邪魔したな」
 そして足音静かに離れていく。
「じゃぁね、根津君」
 大股で立ち去る石流を追い縋るように、クラスメイト達の足音と声が徐々に遠ざかっていく。
「あたしのお母さんはコロッケが得意だったよ。ウチのコロッケは中身が肉じゃがなの」
「ほう」
 女生徒の言葉に、石流が興味深げな反応を返した。
「今度帰省したら聞いておくから、石流さんにもレシピ教えてあげよっか?」
「そうだな」
 他愛のない無邪気な言葉が、根津の胸をちくりと刺した。とうの昔に蓋をして沈めた筈のものが浮かび上がってきそうになり、根津はそれを押し戻すように強く瞼を閉じた。
 寮へ戻っていく生徒達の歓声が、遠くから小さく響いている。
 根津の髪を撫でる柔らかな陽射しはアンリエットの掌にも似ていて、やがて根津の意識はゆっくりと沈んでいった。


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