陽がすっかり沈みきり、月が淡く輝き始めた頃、地下二階の駐車場に降りると、ちょうど車に荷物を詰め込んでいる健を見つけた。傍には烏丸ヒロコと、おまけにルリ子もいる。健とヒロコが、スーツではなくラフな格好で、車に段ボール箱などを詰め込んでいたので、今日の花見会の準備をしているのだと分かった。
 嫌な連中に出くわしたな、と思った。
 こっそり自分の車へ向かおうと思ったが、そのためには、彼らの側を通り過ぎなければならない。出直そうと考えた矢先、振り返った健にあっさり見つかった。
「鷹丸くん!」
 嬉しそうに健が大きく手を振っている。私の姿を確認した烏丸は、きちんと会釈をしたが、ルリ子は、露骨に嫌な表情を浮かべた。
「車、こっちですよね」
 おまけに余計なことを健が言った。これでは戻るに戻れない。
 私は小さく舌打ちして、彼らに歩み寄った。そしてそのまま通り過ぎたかったのだが、健は駆け寄ってきて、私の腕を取った。
「ちょっと、お願いがあるんですけど」
「断る」
 私は露骨に嫌な顔をしてみせた。
「まだ何も言っていないじゃないですか」
「どうせろくな事じゃないだろう?」
「やだなぁ。あ、今日は「下」に寄らないんですか?」
「行ったところで誰もおらんだろうが」
 今日は芹沢ジャパンの合同花見だから、黒天狗党と兼任している連中は、まず留守だ。それに、行ったところで、今日は特に仕事もない。
 健の腕を振り払い、傍らを通り抜けようとすると、今度は私の腕ではなく上着の裾を掴んで、呼び止めた。
「あの」
「何だ」
 苛つきながら私が健の方へ体を向けると、健は、私の視線を避けるように俯いていた。それはまるで、迷子になった子供が親の手を必死に離さないようにしているのに似ている。
 らしくない様子に、私は浴びせようとした言葉を呑み込んで、次の言葉を待った。
「今年も、来ないんですか」
「わかっているのなら訊くな」
 すがりつく様に呟かれた言葉に、私はぞんざいに答えた。
「でも」
 呟く健の表情を窺い知ることはできない。
 私は軽くため息を吐いて、健の手を振り払おうとしたその時。
「そういえば、貴方、去年も来てなかったわよね?」
 凛とした声が、地下駐車場に響いた。


 我々の会話に唐突に割り込んできたのは、ルリ子だった。
 健にばかり気を取られていて、一緒にいるのをすっかり忘れていた。
 ちょっと、まずいなぁと思った。
 ヒロコは、健との会話を聞いてない素振りをしてくれていたようだが、ルリ子は、そうはいかない様子だった。健の車の隣に止めてある自分の車のボンネットに寄りかかって、腕を組んで我々を睨み付けている様は、とても二十歳の小娘とは思えない迫力がある。
「役員は全員出席が原則じゃなかったかしら?」
 眉を寄せて吐かれた言葉は、やる気十分だった。
 私も苛ついたので、応酬した。
「何が言いたいのかは知らんが、私の勝手だろう」
「あら、私だって駆り出されているのに、そんな我侭で足並みを乱してほしくないわね」
 ヒロコは、どう止めようか迷っている。
 しかし、さらに罵りあおうとしていた我々を制したのは、健だった。
「いいんだよ、鷹丸君は」
 苦笑交じりに健が発した言葉に勢いを削がれたルリ子は、組んでいた腕を解いて、健に詰め寄った。
「ちょっと、何よそれ!」
「いいんだ」
 食って掛かるルリ子の言葉を、健はのらりくらりとかわしていた。
「鷹丸君だから、いいんだ」
 健とヒロコは知っている。
 私が来ない理由を。
 だがルリ子は知らない。教えるつもりもない。
 このままでは埒が明かないので、私は踵を返して、自分の車へ向かった。
「用がなら、私は帰るぞ。何かあったら、自宅か携帯に連絡しろ」
「はーい。じゃ、また明日」
「こら、逃げるな!卑怯者〜!」
 いつもと同じ健の能天気な返事をかき消す様に、ルリ子の叫び声が響いていた。



 白に限りなく近い桃色の花は、胸の奥底に封じた記憶を呼び起こす。
 その度に、あの時こうすれば良かったと、もっとこうしておけば良かったという後悔が、泡のように浮かんでは消えていく。
 想い続けたところで、変わりはしない。
 現実を変えることができない、という事実に、私は何度も打ちのめされる。
 戻りたい、と強く願った。
 そうすれば、私は大切なものを失わずに済んだかもしれない。
 だがそれは不可能なのだと、変えられない過去は現実なのだと、私は知っている。
 だから、なおさら願ってしまう。
 この薄暗い感情から逃れられる術を探して。




 玄関の扉を開けると、見慣れない靴が3足あった。
 奥のリビングから賑やかな笑い声が漏れている。やがて、賑やかな足音と共に開かれた扉から、菊丸が姿を現した。
「お帰りなさい、おじさん」
「ただいま」
「お邪魔してまーす」
 菊丸の後ろから、花丘イサミと月影トシ、そして雪見ソウシの三人が顔を出す。
 意外な客人に、私は目を丸くした。
「随分とまた……賑やかだな」
「一緒にガンバマンのゲームをしてたんだよ」
「そうか」
 楽しそうな菊丸の声に、私は目を細める。
 一緒に向かったリビングには、確かにゲーム機が出しっ放しになっていた。テレビの画面も、ゲームを一時中断したものになっている。
 その側にあるテーブルに4つ、紅茶が入ったコーヒーカップが載っていた。それはまだ十分に湯気を出しており、彼らがここに来てそれほど時間が経っていないことを知らせている。
「夕食はどうした?もう食べたのか?」
 私は、ゲーム機を片付けている菊丸に声を掛けた。
 壁に掛けた時計は、間もなく夜7時を指そうとしていた。こんな夕食時に遊びに来ているというのも、世間的に問題だろう。
「それを誘いに来たんですよ」
 菊丸の代わりに答えた雪見ソウシの言葉に、私の体が強張った。
 その言葉の続きが、なんとなく予想できたからだ。
 無邪気な笑みを浮かべて、花丘イサミが歌う様に言葉を紡いだ。
「あたしのおじいちゃんが、お弁当を作ってくれたんです。皆で夜桜を見に行こうって」
 予感的中だった。
「それで、城址公園に行ったら、芹沢のおじいちゃんや田能久のお兄さん達がいて、鷹丸のおじさんや菊丸君は来ていないって言ってたから、どうかなぁと思って」
 聞いた瞬間、やられた、と思った。
 まさか、こんな手段に出てくるとは思ってもみなかったからだ。
 誰の入れ知恵だろうか。
 ルリ子の線はまずないだろうから、健か、それとも会長か。
 いや、もしくは、ただ単に事の成り行き上でこうなっただけかもしれないし、単純に、この子達の発案かもしれない。
 しかし、それでも私は、遥か胸の奥底から徐々に湧き上がってくる薄暗い感情を、押し止めることができなかった。



 白に限りなく近い桃色の花は、胸の奥底に封じたはずの感情を呼び覚ます。
 取り戻せない過去の記憶と後悔が波のように押し寄せ、沈んでは消え、浮かび上がる。
 あるはずだった、あると信じて疑わなかった未来が消えた、あの日。
 その白に限りなく近い桃色の花は――。



 子供たちだけ行かせて、私は断わるつもりだった。
「君たちだけで行っておいで」
 そう言えば済む。だが、言葉が喉の奥に引っかかって出てこない。
 沈黙している私を、考えあぐねていると判断したらしい花丘イサミは、私の腕を取った。
「鷹丸のおじさん、一緒に行きましょ」
 無邪気な笑みを向ける少女に、私は反論できなかった。
「君たちだけで行っておいで」
 そう言えば良い。そう言えば良いのに、言葉が出ない。
「おじさん、一緒に行こう」
 そう言って、菊丸はもう片方の私の腕を取って、私の顔を覗き込んだ。
 そこにあるのは、過去への切望でも後悔でもなく、ただ、夜の城址公園に行きたいという純粋な好奇心だけが、その瞳で強く輝いていた。
「そうだな。菊丸がそう言うのなら」
 思っているのとは裏腹の言葉が出た。
 しかし、無邪気に喜んでいる子供たちを見ていると、自分が拘っている事が、急に馬鹿馬鹿しい事のようにも感じられて、自分が本当はどうしたいのか、よく分からなかった。
「ところで、どうやってここまで来たんだい?」
 ここから城址公園まで、歩くには結構な距離がある。子供たちに聞くと、自転車で来たと答えた。
「自転車は、ここに置いていきなさい。夜も遅いし、危ない」
 新せん組として我々に敵対していた子供たちには、少し説得力がない言葉だった。
 だから、こう続けた。
「車で送ってあげよう」
「良いんですか?」
「良いもなにも……第一、君達の自転車では二人乗りはできないだろう?」
 できたとしても、二人乗りは危ない。
「あ、そっか」
「恐るべし、マウンテンバイクの欠点……」
 どうやって行くつもりだったのか、少し聞いてみたい気もした。



 白に限りなく近い桃色のあの花は、遠い日々を思い出させる。
 決して巻き戻らない過去と、確かな記憶。
 この幸せがずっと続くと、別れが来るとしてもそれはかなり先のことだと、疑問すら抱かなかった時代。
 もっと早く気付いていれば、後悔しなかったかもしれない。
 辛さが和らいでいたかもしれない。
 けれど、私は。



 夜の城址公園は、池の周りを外灯が照らすだけで、森の奥深くは月明かりを頼りにするしかない。しかし駐車場付近は例外で、幾筋もの光が、眩しいほどに我々を照らし出していた。
 遠くから見えた城址公園は、いつもの外灯だけでなく、木々に繋いだ提灯の灯りに照らされ、さながら夏祭りのような賑わいをみせていた。しかしながら、思っていたよりも駐車場が空いているのは、おそらく、酒が飲めなくなる車よりも、徒歩で来ている人々が多いのだろう。
 踏みしめるアスファルトの地面には、花の残骸がこびり付いていた。
 見上げると、空を覆いつくすように枝が広がっている。そしてその先に、花があった。
 あの、白に限りなく近い桃色の花が。


 胸の奥底から、ざわざわと何かが湧き上がるのを感じる。
 それが何なのか、私は知っていた。
 しかし、それを押し止めることができず、取り留めのない喧騒に耳を塞いで、ここから出て行きたかった。
 ここは、違う。
 どんなに探しても、ここにあの子達はいない。
 しかし、湧き上がった感情は、低く立ち込める暗雲のように私の内に広がって、胸の奥底に封じたはずの感情を呼び覚ましていく。
 あるはずだった、あると信じて疑わなかった未来が消えた、あの日。
 その白に限りなく近い桃色の花は――。
「おじさん?」

 誰かが私の手を引いた気がして、視線を落とすと、菊丸が怪訝な顔をして、私を見上げていた。
「どうしたの?おじさん」
「いや。……満開だなぁと思って」
「今週末がお花見日和だって、ママのニュースで言ってましたよ」
 嬉しそうに花丘イサミが言った。
 その笑顔を見ていると、波打った私の感情が徐々に静まっていくような、そんな気がした。



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