<桃色吐息>


 眼下に広がる街並みは、薄い桃色に染まっていた。
 小高い丘にそびえ立つ城址公園の木々も、ここから駅まで続く街路樹も、見渡す限り、白に限りなく近い桃色の花を付け、雪に埋もれたのとは違う情緒を醸し出している。
 ほぼ真下に見下ろす通りを人々が足早に駆けていくように見えるのは、なにも夕闇が迫っているだけではないだろう。
 全ては、あの花のせいだ。
 穏やかな日差しの中、時折冷たい風が首筋を吹き抜けても、あの花が散るのを僅かばかり手伝うだけで、浮かれる人々の心が静まることはない。


 あの花は、昔は好きだった。
 だが今は違う。
 そして、それに便乗して行われるドンちゃん騒ぎは、さらに苦手だった。
 今更どうして、私が、あの花の下で浮かれることができるだろう。
 私は窓際から離れ、自分の席に戻った。
 しかし、胸の奥底から湧き上がった薄暗い感情は、なかなか静まることはなかった。取り戻せない過去の記憶と後悔が波のように押し寄せ、沈んでは消え、浮かび上がる。
 いつの間にか、乾いた笑いが、自分の口の端から漏れていた。
 電灯も付けず、夕闇に飲まれるがままのこの部屋で、私はどんな表情をしているのだろうか。


 早く散ってしまえばいい。
 強くそう願った。
 そうなれば、このように心を乱される日々も終わる。
 わざわざ窓際に寄ってまで街を見下ろしたことを、私は後悔していた。



「失礼します」
 書類に目を通していると、ゆっくりとドアを叩く音と共に、印堂の秘書が入ってきた。
「あの、東上別府社長」
「なんだ」
「今日の、合同お花見会の件ですが」
「欠席だ」
 秘書が用件を全て言い終わる前に、私は不機嫌さを隠さずに答えた。
 そして、一番上の引き出しから、あらかじめ万札を数枚入れていた白封筒を出し、投げ渡す。封筒は、ゆっくりと大きな弧を描いて、秘書の両手に落ちた。
「あの、これ」
「カンパだ。足しにしろ」
「足しって……」
 秘書は、今にも消え入りそうな声を出した。
「今年は会長もいらっしゃるんですよ?」
「欠席すると言っただろう」
 私は突き放すように答えた。
「私がいない方が、皆も気兼ねしなくてすむだろうしな」
「そんな……、そんな事ないです!」
 何気なく言い放った私の言葉に、秘書は過敏に反応した。
 そして、自分が大声を上げたことに気がついたのか、慌てて口元を押さえた。が、そのはずみに、右脇に抱えていた書類をぼとぼとと足元に落とす。
「あ、ああッ」
 素っ頓狂な声を上げて、秘書は、床に広がった書類を拾おうと一歩踏み出した。途端、足元の書類を踏みつけ、派手な音を立てて尻餅を付く。
「痛……」
 涙目になって腰をさすっている秘書を、私は机に肘を付いて眺めていた。
 タイトスカートからすらりと伸びた足を胸元近くまで寄せ、ちょうど股をこちらに広げたような格好になっている。
 私はぎょっとして、すぐさま視線を反らせた。
 ……言った方が良いのだろうか。
「おい」
「なんですか?」
 秘書は、痺れる腕を押さえながら顔を見上げたようだった。
「見えてるぞ」
「え?」
 私の言葉に何度か瞬きしたが、すぐに事態を飲み込んだらしい。瞬く間に顔を朱に染めると、両足を閉じて慌てて立ち上がった。が、床に散らばる書類に再び足を取られて、今度は前のめりに倒れる。
 鈍い音と共に、小さな悲鳴を上げた。
 膝を強かに打ち付けて、すぐには立ち上がれないようだった。肘と膝を抱きかかえるように、その場にうずくまっている。
 私は、痛みで身動きできない彼女を暫く見つめていた。
 こんなドジばかりで、よく秘書が務まっているなと思う。しかし、印堂に言わせてみれば、それは私の前で極端なだけで、普段はそうでもないらしい。「鷹丸君、いつもしかめ面だからねぇ。怖くて緊張しているからじゃないの?」と笑われたことがあるが、もしそうだとしたら、大変失礼な話だ。
 が、不思議と不快感はない。何故だかはわからないが、ルリ子と似た顔立ちなのに、屈託のない笑みを私にすら向ける事があるせいかもしれない。そう考えると、確かに、あの生意気な小娘に比べて、彼女の方が何十倍も可愛げがあった。
 印堂の秘書は、相変わらず床にうずくまったままだ。
 私は少し心配になって、椅子から立ち上がった。私の近づく足音に気が付いて、秘書が慌てて顔を上げる。羞恥や痛みのせいか、頬が赤く上気していて、今にも泣き出しそうだった。
 私は、彼女の正面に膝を突いて、顔を覗き込んだ。そして、小さな子供をあやす様に頭を軽く叩いた。
「立てるか?」
 無言で頷く秘書に、私は手を差し伸べる。彼女は、少し躊躇っていたようだったが、素直に私の手を取った。引き起こすと、膝が少し擦り剥けていて、そこから肌色のストッキングが伝線している。
「代えはあるのか」
 床に散らばった書類を拾いながら口にして、すぐに後悔した。私が口出しすべきことではないと思ったからだ。
 しかし、秘書は気にした風もなく、バツが悪そうに笑った。
「ちょうど、昨日買ったのがあるんです」
「そうか」
 彼女の口調に、少し安堵した。
 それから、拾い終わった書類を秘書に手渡して、軽く額を小突いた。
「この部屋でこんなに転ぶのは、お前ぐらいだな」
「う……。社長は、慰めてくれてるのとからかってるのと、どっちなんですか」
「さて。どうだろうな」
 わざと意地悪く言うと、彼女は子供のように頬を膨らませた。
 素直な反応は、見ていて楽しい。
 彼女は、その表情のままドアノブに手を掛けて退出しようとしたので、私は伝えるべき用件を思い出して、呼び止めた。
「今日は「下」にも顔を出さないで帰るから、何かあったら自宅に連絡するように伝えてくれ」
「わかりました」
 伝言を受けた秘書は、すぐに顔を元通りに引き締めると、入ってきたときと同じように静かに出て行った。
 しばらくすると、その閉じられたドアの向こうから、話し声が僅かに漏れてきた。
 私の秘書と、印堂の秘書の声だ。
 暫くぼそぼそと話していたかと思うと、突然、私の秘書が爆笑した。その笑い声の向こうから、印堂の秘書が何か叫んでいる。
 きっと、さっきの出来事だろう。
 いつもなら内線で注意するところだが、別に目くじらを立てる程のことでもないと思って、そのままにしておいた。
 彼らのやりとりが容易に思い浮かべられて、私の口元が自然と緩んでくる。
 そういえば、彼女の他にも、この部屋でよく転んでいた女性がいた。
 だが、その人物を急に思い出して、胸の奥底から、怒りや後悔が入り混じったような、薄暗い感情が湧き上がってくる。しかし、それは形になることなく、隣室から聞こえてくる彼らの笑い声に、すぐにかき消された。


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