気遣うように軽く扉を叩く音に、アンリエットは書類から顔を上げた。部屋の壁掛け時計を見上げると、十五時を指そうとしている。 どうぞ、と声をかけると、ゆっくりと扉が開いた。コック服姿の石流が姿を見せ、「失礼します」と小さく頭を下げて入ってくる。後ろ手に扉を閉めた彼の右手には、小さな銀色の盆が載っていた。さらにその上には、パフェを入れるような逆三角形のグラスが置かれている。 「あら」 その器を一目見て、アンリエットは感嘆の声を漏らした。 細長い小さな器には、透明な液体で満たされていた。氷の周囲に細かな泡がまとわりついているから、おそらく炭酸水だろう。しかし下の方は鮮やかな蒼で、カクテルのようにグラデーションが付いていた。その下の方には、正方形に刻まれた色鮮やかな寒天が敷き詰められている。そして器の上の方には、金魚の形にくり抜かれた紅い寒天が、水の中を泳ぐかのようにふわふわと浮いていた。 「素敵ですわね」 アンリエットの率直な感想に、石流は僅かに目元を緩め、唇の両端を微かに持ち上げた。 「気分転換になるかと思いまして」 そして、切れ長の眼差しが机上に広げられた書類へと向けられる。「ご休憩なされては」という彼の進言に小さく頷き、アンリエットは書類を重ねた。両手で持ったまま机に軽く落として端を整え、机上に置く。それから何かの弾みで飛び散らないよう、書類の束の上に文鎮を乗せた。 その間に、石流はアンリエットの事務机前にあるテーブルセットに近付き、木目のテーブルの上に盆を置いた。そしてどこからともなく白いランチョンマットを取り出し、手早く広げていく。その上に紙製のコースターを置くと、盆の上のグラスを載せた。そして手前に白のナプキンを置き、紙の袋に包まれたままのストローと、先が三つ叉に小さく割れている、細長い銀色のスプーンを置く。 立ち上がったアンリエットがソファーに移動し、ゆっくりと腰を下ろした頃には、石流は銀色の盆を手に持ち、ソファーのやや後方に佇んでいた。 「どうぞ」 石流はいつも言葉少ない。けれど常に彼女の仕事内容や量、その日の天候に合わせて紅茶を見繕い、それに合うようなデザートを持参していた。時には、小さな桐の箱の中に、砂利のように細かく砕いたチョコレートを敷き詰め、その上に小さな生け垣のように、抹茶色のマカロンを載せたものを持ってきた事もある。まるで枯山水の庭のようで、しかもそれが洋菓子のみで再現されている事に、アンリエットは驚きを隠せなかった。どこでそのような術を身につけてきたのか、尋ねても曖昧な微笑を浮かべることが多い。 アンリエットはソファーに浅く腰掛けると、グラスへと視線を注いだ。 「他のものは沈んでいるのに、どうして金魚だけ浮いているんですの?」 「それは……下の方は寒天で、金魚はゼリーだからです」 石流の端的な説明に、アンリエットは小さく吐息を漏らした。 「前は、寒天の中に金魚を閉じこめたような和菓子でしたよね」 アンリエットは、一学期が終わりかけた夏の盛りに、石流が持ってきた和菓子を思い出した。空のように鮮やかなブルーの寒天がドーム状に盛り上がり、その中で朱色の金魚が二匹、中央の緑の葉を回るように泳いでいた。それはちょうど彼のトイズで硬直化した瞬間を切り取ったかのようで、食べるよりも暫く飾っておきたいと思ったものだ。 「今日はまだまだ暑いですから、少々趣向を変えてみました」 微笑を浮かべる石流に、アンリエットはストローを紙袋から出し、グラスへと入れた。ゆっくりとそれでかき混ぜると、グラデーションが徐々に混ざり合い、氷の間を縫うように二匹の金魚がぐるぐると回っている。 アンリエットはグラスを手に取ると、口元へと運んだ。そしてストローをくわえ、喉を小さく動かす。 十分に冷えた液体はほんのりと甘く、微炭酸の舌触りが心地良かった。書類仕事で体内に凝り固まった熱が洗い落とされるかのようで、アンリエットは軽い吐息と共にストローから唇を離すと、銀色のスプーンを手に取った。金魚の形をしたゼリーを救い、そっと口の中へと運ぶと、ほんのりと紅茶の味と香りを感じる。 「とても美味しいですわ」 アンリエットが石流へと笑みを向けると、彼は柔らかな眼差しを返した。 石流は武闘派な怪盗でありながら、それとは真逆の調理や清掃、植物の世話などの分野で、家庭的ーーというよりは職人的な技術と知識を持っている。相反する二面性は頼もしくもあり、矛盾したかのような繊細さを感じることもあった。 ーー彼は何故怪盗になったのだろう。 彼の手料理を味わっている時、ふとそういう疑問が脳裏に浮かぶことがある。 訊けばあっさりと話してくれるだろうか。それとも困ったように軽く眉を寄せ、曖昧な微笑を浮かべているだろうか。 アンリエットは、グラスの底に沈む四角形の寒天へとスプーンを差し込んだ。水底に敷き詰められた砂利のようなそれは、透明な蒼い水越しではあったが、桃色、黄色、緑色、青色の四色のようだった。奇しくもミルキィホームズと同じ色だったが、意図してのことなのか、たまたまなのだろうか。 寒天の中にスプーンを差し入れ、ゆっくりと掬い上げると、翠色の寒天が一つ載っていた。アンリエットはそれをそっと口元へと運び、舌に載せた。金魚のゼリーよりしっかりとした弾力と、微かな抹茶の味が広がっていく。 アンリエットは、唇の両端を持ち上げた。 人間は誰でも二面性を持っている。怪盗ならなおさらだろう。現にアンリエット自身も、ホームズ探偵学院の生徒会長という顔と、怪盗アルセーヌという二つの顔を使い分けている。 「なんだか食べてしまうのがもったいないですわね……」 思わず本音をこぼすと、普段よりも柔らかな声音で「有り難うござます」と返ってくる。 「ねぇ、石流さん」 「はっ。何でしょう?」 アンリエットが上半身を捻って石流を見上げると、彼は生真面目な眼差しで、彼女の瞳を受け止めた。 「これは、今度メニューにも入れる予定なのですか?」 その言葉に石流の切れ長の瞳が僅かに見開かれ、真っ直ぐにアンリエットを見下ろしていた視線が、小さく揺れた。 「その……これは、アンリエット様の為だけに作りましたので……」 そして声音は乗せず、唇だけが小さく動く。しかしすぐに唇を真一文字に結ぶと、金色の瞳を窓辺へと向けた。 「それに、もうすぐ夏も終わりますし」 その言葉に、アンリエットも窓辺へと目を向けた。 事務机の真後ろにある窓はレースのカーテンで覆われていたが、射し込んだ陽射しで白く輝いているß。そして冷房の効いた室内に、蝉の鳴き声を微かに届けていた。 「そうですね……。まだまだ暑いでしょうが、メニューに加えるなら夏期限定でしょうし」 アンリエットは目元を緩め、口元を綻ばせた。 空っぽの器に水が注がれるように、「自分の為だけに作った」という石流の言葉で、柔らかな満足感が満ちてくる。 しばし蝉の鳴き声に耳を傾けると、アンリエットはゆっくりと唇を開いた。 「ねぇ、石流さん」 アンリエットは、手にしていたグラスをコースターの上に載せ、スプーンをナプキンの上に置いた。そしてゆっくりと振り返り、柔らかな笑みを石流へと向ける。 「さっき、何か言いかけませんでした?」 「さっき……とは」 「夏がもうすぐ終わる、の前です」 アンリエットがやや上目遣いに見上げると、石流は口ごもった。 「私の為だけに作った……の後に、何か言いかけませんでした?」 僅かに首を傾げると、石流は軽く目を見開いている。琥珀色の目が大きく揺れ、細い眉が寄せられた。常に無表情を保った彼が、少し困ったような面もちに変わっている。 「な、なんでも……」 ありません、と取り繕う彼がなんだか可笑しくて、アンリエットは彼の方へ身を乗り出しかけーー部屋の入り口へと顔を向けた。 数人が駆ける足音が、耳に届いていた。それは徐々に大きくなり、この部屋へと近付いてくる。石流もそれに気付いたようで、いつもの無表情な面もちに戻ると、扉へと鋭い眼差しを向けた。 足音はさらに大きくなり、この部屋へと近付いてくる。そしてそれは止まることなく、勢いよく扉が開かれた。 「アンリエットさん、やりました〜!」 「会長、聞いて聞いて!」 「あの……その……っ」 「ちょっとシャロ、せめてノックくらいしないと……!」 部屋に転がり込むように入ってきたのはミルキィホームズの面々で、皆、それぞれの色の探偵服に身を包んでいる。アンリエットが事務机ではなく、手前のソファーに腰掛けているのに気付くと、目を大きく瞬かせた。 「どうかしたのですか、騒々しいですね」 ミルキィホームズは、苦笑を浮かべるアンリエットと、その傍らで無言で佇むコック服姿の石流を不思議そうに見比べている。しかしテーブルの上のグラスに気付くと、真っ先にネロが駆け寄ってきた。 「会長会長、それなぁに?」 「わぁ〜! ソーダの中に金魚がいます!」 「凄く……綺麗……」 「涼しげで素敵ですね」 テーブルの対面に手をつき、物珍しげにグラスを見上げている。よく見ると、ミルキィホームズの面々の頬や額には、汗が玉のように浮かんでいた。おそらくこの炎天下の中を走ってきたのだろう。 「それで、私に何を聞いてほしいのですか」 穏やかな声音でアンリエットが促すと、ミルキィホームズの面々ははっとした面もちで彼女を見上げた。 「犯人を捕まえました!」 「僕らで解決してきたよ!」 「あの……やりました……」 「逃げる怪盗を逮捕して、警察に引き渡してきました〜♪」 それら断片的な情報と、今日のミルキィホームズのスケジュール、そして先程まで作成していた書類の内容から、アンリエットは小さく頷き返す。 「既に警察から連絡は来てますよ。貴方達が見事犯人を逮捕して、無事事件を解決したと」 その言葉に彼女たちは目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。 「ですが」 アンリエットはそう区切ると、やや声音を低くし、テーブルの前でしゃがんだまま見上げる彼女たちを見渡した。 「盛大に施設を壊したとも聞きますが」 「すびばせん……」 「わ、私が……椅子を投げて、ショーケースを……」 シャーロックとエルキュールが申し訳なさそうに首をすくめる一方で、ネロは面倒くさそうに頬をかいている。 「犯人は逮捕出来たんだから、別にいいじゃん〜」 警察もケチだなぁとぼやくネロに、コーデリアは大きく眉を寄せた。 「何言ってるの! 貴方だってお店を水浸しにしたでしょう?!」 四者四葉の反応に、アンリエットは小さく肩を落とした。 「それに関しては、後で始末書を出して頂きますよ」 軽い溜め息混じりの言葉に、四人は「はーい」と声を揃えて頷いている。 「ところでさぁ、会長」 「何です?」 「何で石流さんがここにいるの? しかもコック服で」 訝しげに見上げるネロに、石流は唇を真一文字に結んだまま、切れ長の瞳を向けている。 「これを作って持ってきて下さったのですよ」 アンリエットが指先でグラスの端を軽く小突くと、ミルキィホームズの面々は好奇心に満ちた面もちで、グラスへと顔を近付けた。 「うわぁ、凝ってていいなぁ〜!」 「美味しそうです!」 「綺麗……」 「石流さんって、こんなのも作れるんですね」 「あげませんよ」 アンリエットは苦笑を浮かべると、端的に宣言した。 「これは、石流さんが私の為に、特別に作ってくれたものですから」 「そんなぁ……」 一口貰えるのではと期待していたらしく、シャーロックとネロは大きく肩を落としている。 「ですが」 アンリエットは苦笑を浮かべると、言葉を続けた。 「同じもの……といかなくても、似たようなものはまだ作れますか?」 「ええ、多少は材料が残っていますが……」 アンリエットが傍らの石流へと目を向けると、石流は軽く眉を寄せた。 「では今日の事件を解決したご褒美に、貴方達の分も石流さんに作って貰いましょう」 「本当ですか?!」 「やったー! さすが僕の生徒会長!」 「あの……良いんでしょうか……?」 「有り難うございます!」 一同が「わーい、アンリエットさん大好き!」と満面の笑みを向ける中、エルキュールだけは遠慮がちに石流を見上げている。石流はその眼差しを一瞥すると、深く溜め息を吐いた。 「金魚用のゼリーは殆ど残ってないから、全く同じものにはならないぞ」 「あ、有り難うございます……」 はにかむエルキュールに、石流は軽く肩をすくめつつも微笑を返している。 「では、私はこれで」 「ご苦労様でした」 姿勢を正す石流に、アンリエットは労いの言葉を投げかけた。そして、石流が室内にいるうちにと、ミルキィホームズの面々を促す。 「先に部屋に戻って、シャワーを浴びてから食堂に行きなさい」 「はーい!」 ミルキィホームズは勢いよく立ち上がると、来た時と同様に駆け出し、慌ただしく退出していく。 扉が閉まって彼女たちの足音が遠のくと、アンリエットは石流へと目を向けた。彼は、ミルキィホームズを目で追っていたのか扉へと顔を向けていたが、すぐに彼女の視線に気付き、金色の瞳を向けてくる。 再び静寂が戻った室内で、アンリエットは小さく唇を開いた。 「ダメでしたか?」 「いえ、そんなことは」 石流はぽつりと呟いた。 「少し意外でした」 「何がです?」 アンリエットが小首を傾げると、石流はやや困惑した面もちで、視線をさまよわせている。 「その……いつものように、一口食べさせるものだとばかり」 口元に手をあて、遠くを眺めるような眼差しでありながら、アンリエットからは何故か目をそらせている。咎めるでもなく、ましてや皮肉でもなく、どこか拗ねた子供を連想させるような仕草に、アンリエットはふふっと笑みを漏らした。 「これは、私のものですから」 アンリエットはグラスを手に取ると、ストローをくわえて喉を潤した。そして唇を離して石流へと目を戻すと、彼の困惑した眼差しとぶつかる。 「誰にも渡したくなくなっただけですよ」 柔らかな笑みを返すと、石流は大きく目を瞬かせ、やがて目を伏せた。その顔は、ほんのりと赤く染まっているようにも見える。 「では」 石流は足早に出入り口へと向かうと、銀色の盆を胸元に抱き、そっと扉を閉めた。そして足音なく、気配だけが遠ざかっていく。 再び一人きりになった生徒会長室で、アンリエットは深くソファーに腰掛けた。そしてスプーンを手に取り、そっと金魚を掬った。それを口へと運び、ゆっくりと呑み下す。 「貴方もですよ」 アンリエットは、紫水晶のような瞳を扉へと投げかけた。 「貴方も私のものなのですから、誰にもあげません」 低い声音でそう告げると、アンリエットは唇の両端を大きく持ち上げ、手にしたスプーンでグラスの中を大きくかき混ぜた。 <了> |