けれど、それきり彼女は帰ってこなかった。
 その頃の彼らは、昨日は今日の続きで、今日は明日の続きになるのだと信じて疑わなかった。だから、偶然見ていたニュースで知っている名前が出てきても、同姓同名の別人だとしか思えなかった。それくらい、TVで流れる死亡事故報道は、自分たちにとってどこか遠い世界の出来事で、縁のないものだったからだ。
 その時赤石は、居間で宿題を広げながら、中継されている夏の甲子園大会に視線を注いでいた。
 リトルリーグにまで入っていたくらいだから、甲子園には当然興味がある。けれど高校生というのは遙か先の未来のようで、漠然とした目標でしかなかった。そして、彼女の見た夢を実現できればいいだろうなぁと思いながら、グランド整備中に挿入されたニュースをそのままぼんやりと見つめていた。
 だが、そこで告げられた名前に、赤石は両目を見開いた。耳を疑い、同姓同名だと自分に言い聞かせる。しかし名前と一緒に告げられた情報は、彼女を指しているとしか思えない。
 震える足をなんとか立ち上がらせて、赤石は、居間から店先に向かった。店の中では、客の姿もないのに父が落ち着きなく店内を動き周り、母が狼狽えた様子で電話に応対している。「ええ、さっき連絡があって……」「まだ十一なのに……」と、母の口から不吉な言葉が次々とこぼれ落ちていった。
「母ちゃん、何かあった?」
 母の電話が終わるのを待ち、おそるおそる尋ねると、父がぴたりと足を止め、赤石の方へと顔を向けた。母も父と赤石の顔を見比べ、ただ事ではない雰囲気で押し黙っている。
「あのね、修、落ち着いて聞いてね」
「月島さんとこの若葉ちゃんがな」
 けれど父の言葉を遮って、赤石は声を荒げた。
「さっきTVで月島が死んだってニュースで言ってたけど、勿論あの月島じゃないよな?」
 単なる同姓同名だと確認するように、赤石は強ばった表情で父を見上げた。
 なにバカなこと言っているんだ、と呆れて笑い飛ばす父の声を待ったが、何時まで経ってもその言葉が降ってくることはなく、父は辛そうに眉を寄せている。
 夏祭りの屋台で、光と一緒に来た彼女にラムネをオマケするつもりだった。そして光の横で一緒に笑っている彼女を、遠くから眺めて終わるはずだったのだ。
「違うって言ってくれよ……」
 来るべき筈の明日が消えて、赤石はただ呆然と立ち尽くした。

 

 彼女の葬式が終わった夏祭りの夜、赤石は迷いに迷って、裏口からこっそりと家を出た。
 本当は、父の手伝いで祭りの屋台に出るはずだった。何でもない風を装っていたが、父に「今年はいい」と言われ、大人しく自分の部屋に引っ込んだ。
 窓を開けて扇風機を回していると、遠くから太鼓と笛の音が流れ込んでくる。勉強机に座り、夏休みの宿題を広げた。けれど文字は全く頭の中に入って来ない。
 赤石は、机上に飾っている額縁を見た。そこにはルーズリーフにシャーペンで「頑張れ!」とだけ書かれている。
 それは半年前に、鉢巻に「頑張れ!」とわざわざ書いて貰えた光が羨ましく、自分も書いて貰いたくて考え抜いた挙げ句、漢字が分からない振りをして頼んだものだった。
 その少し丸っこい文字列を見ていると、昼間の出来事があまりに現実離れしていて、実は昼寝中に見た悪夢ではないかと思えた。この世のどこにも彼女がいないなんて、到底信じられない。
 バッティングセンターに行けば、青葉が「こんな遅くにどうしたの?」と出てきて、「アオちゃんなら光のヤローとお祭りに行ったよ」と答えるのではないか。そして振り返ったら、光と手を繋いで帰ってくる彼女の姿があるのではないか。
 そう考えると、いてもたってもいられなくなって、赤石はそっと家を出た。遠くから祭り囃子が響く中、街灯が灯る夜道を一人で進んでいく。
 そうして、喫茶店が併設されたバッティングセンターへと辿り着いた。ここが彼女の家で、しかし知ってはいても訪ねたことは殆ど無い場所だ。
 いつもなら喫茶店、バッティングセンター共に営業中の時間だったが、どちらの店先にも灯りはなく、暗闇に包まれていた。けれどバッティングセンターの奥からは、うっすらと光がこぼれている。
 そしてかすかに、ボールをはじく金属音が耳に届いた。
 赤石は、ぼんやりと彼女の家を見上げた。表からは店舗部分しか見えないが、バッティングセンターの入り口に、喪中の印と「都合により暫くお休みします」という貼り紙がある。
 その黒と白の飾りと真っ暗な店先が、昼間の出来事はどうしようもない現実なのだと突きつけてくる。
 赤石はようやくそれを認め、素直に受け入れた。
 途端に両目から涙が溢れて、視界がぼやけてくる。
 好きだった。
 大好きだった。
 自分の隣でなくてもいい、ただ、楽しそうに笑う彼女が見られるだけで満足だったのだ。
 赤石は、彼女の家に向かって両手を合わせた。
 花に囲まれた彼女を思い出すと嗚咽が漏れそうになったが、奥歯を強く噛みしめて耐える。
 流れ落ちる涙をそのままに、ただ祈った。

 ――お願いね、赤石くん。

 笑みを浮かべた彼女の声が、かすかに聞こえたような気がした。


<了>


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