そうして二週間ほど経った頃には、寮の半分以上が空き部屋に戻っていた。皆、授業そっちのけで転校先へと出向き、交渉がまとまった者から順に、荷物をまとめて出ていっているようだ。
俺の方はというと、最初は自分で不動産を回って部屋を探すつもりだったのだが、「たまには兄貴らしいことをさせてくれよ」という言葉に押し切られて、兄ちゃんに一任していた。そして下宿候補先との話はとんとん拍子に進んでいるようで、明日挨拶に行って、翌々日には引っ越すことになっている。
その準備の為にこの週末の練習を休ませてもらい、俺は部屋で一人、荷造りを進めていた。大きい段ボール1つにまとめるよりは、種類ごとに小分けにした方がいいと考え、空いている段ボールが貰えないか管理人室に向かうと、ちょうど中から出てきた神川と出会った。制服姿で、肩から大きな鞄を下げている。
神川は俺に気づくと、小さく片手を挙げた。
「今日、出ていくのか」
俺がそう訊ねると、神川は小さく頷いた。
「あぁ。手続きも全部終わったからな」
この週末に一度実家に帰り、すぐさま四国へ発つのだという。
「東の方は、新しい下宿先は見つけたのか?」
この寮が閉鎖されることは知っているらしい。明後日引っ越すのだと答えると、神川は「そうか」と呟き、強ばった表情を浮かべた。
大きく眉を寄せ、口元をへの字のように結んでいる。
神川がこういう表情を浮かべるのは、ゲーム終盤の苦しい時や、何かにムキになっている時だった。しかし、いまここでそんな表情になる理由が分からない。黙って見つめていると、神川は絞り出すような声で呟いた。
「お前がここに残るのは、あのピッチャーがいるからか?」
神川の言葉は、明らかに「肥だめ」にいた樹多村光のことを指していた。今更隠すことでもないので、俺は正直に頷く。
「肥だめ」との初試合前に、俺は一度だけ、樹多村の本気のピッチングに遭遇したことがあった。といっても目撃したのではなく、音を聞いただけだ。
風を切る鋭い音と、腹の底に響くようなミットの音。
体中を電流が走るような衝撃が駆け巡り、同時にとても懐かしいと思った。
あれは、兄ちゃんと同じ音だ。
俺が奪って、二度と聞くことが出来なくなった音だ。
「お前が残ると聞いた時、正直、ほんの少しだけ迷った」
神川は、両眉を寄せたまま言葉を続けた。
「だがアイツがいる以上、俺はエースにはなれないし、お前はもう俺を必要としないからな」
だからこそ別の学校に行って、エースとして甲子園を目指す。そう告げる彼に、おれは「そうか」と短く返した。
ここに来て樹多村のピッチングを知るまでは、神川は、俺が関東圏の同期の中で一番高く評価していたピッチャーだった。けれど今は、本人が言う通り、わざわざ引き留める気にはなれなかったし、必要ないと思っている。
「もし、お前が望んだ通りにオレがストレートを投げていたら、お前はオレを引き留めたか?」
「何だ、突然」
神川があまりに突拍子もないことを口にしたので、俺は少しだけ面食らって、神川を見つめ返し
た。
樹多村は、俺たちとの試合でも俺を敬遠することなく、それどころか勝つつもりで勝負を挑み続けてきた。そしてさらに、俺が狙い通りに打てなかった球を投げた。
逆に神川は、相手バッターを分析した上で球を投げ分けていくタイプだ。樹多村のピッチングを直感的、感情的と評するならば、神川は沈着な戦略型だろう。
「悔しいのさ」
自分でもビックリだと、神川は笑った。
「お前は、あいつと甲子園を目指したくなったんだろう?」
「そうだ」
そう答えると、神川のへの字に結ばれた口元が、少しだけ緩やかになった。
例の賭け試合で、神川は、光にだけはやたらストレートを投げたりと、妙に対抗意識を燃やしていた。普段のピッチングからも、あそこまで感情的になるのは珍しい。
ピッチャーという立場のせいもあって、あのチームの中で唯一、そしていち早く「肥だめ」の連中に焦り、対抗心を持っていたのかもしれない。
「お前のこと、気に喰わない事もあったけど、嫌いじゃなかったよ」
神川はそう言って顔を上げると、苦笑を浮かべた。
何か吹っ切れたように、穏やかな表情に戻っている。
「つまらない事を聞かせて悪かったな」
そう告げると、肩に掛けた鞄を抱え直した。
「じゃぁな」
そして俺に背を向けて、歩き始めた。
一昔前の少年マンガなら、こういう時は「甲子園で会おう」とでも返すのだろう。けれども俺はそんなガラではないし、そこまで親しい付き合いがあったわけでもない。
俺は無言で、玄関を出ていく神川を見送った。
関東圏内を中心に日本全国から集められて、また全国へ散っていく。
だから多分もう、会うこともない。
「東ァ、また同じクラスだな」
人混みをかき分けて掲示板を見上げていた光が、そこに貼り付けられたクラス名簿を指さして、顔をこちらに向けた。
「何だ、うれしくないのか?」
冗談と本気を半分ずつ織り交ぜながら返すと、光は肩をすくめた。
「滅相もございません」
宿題を写せるからラッキーだと断言する。
光はクラス表へ顔を戻し、他の野球部員がどのクラスにいるか確認し始めた。
「そういや俺たち、一年からずっと一緒だよなぁ」
「そういう運命なんだろう」
さらりと返すと、光は苦笑を浮かべた。
「いーや、腐れ縁だね」
運命というならもっと劇的でないとダメだろう、と続けた。
「十分運命的だったと思うんだがな」
しかしそう呟いた俺の声は、後からやってきた千田の声にかき消されたらしく、光の耳には届かなかったようだっ
た。光は千田と一緒になって掲示板を見上げて、一喜一憂している。
「おい、さっさと教室に行くぞ」
「へいへい」
俺が促すと、光は通学鞄を小脇に抱え、とことこと後に続いた。
三度目の春が過ぎ、最後の夏が来ようとしている。
けれど未だに甲子園の土を踏むに至ってはいない。
しかし光と一緒なら、絶対に行けると確信していた。
――俺は、勝ったら皆と喜び合う野球がしたいんだ。
三木はそう言い残して、誰よりも先にここを出ていった。
今なら、その感情が実感できる。
「俺が」行くためではない。皆で甲子園に行きたいのだ。
そのためにここに残ったのだと今更ながら確信し、俺は教室へと進み続けた。
<了>